第9話:秘密の共有と微妙な変化
キィという名の小さな嵐が加わった特準室は、今は妙な静けさに包まれていた。いや、静かというよりは、むしろ奇妙な連帯感のようなものが漂っている、と言った方が正確かもしれない。
日陰 蓮、白峰 凛、そしてキィ。三人は、知らず知らずのうちに『秘密』を共有する共犯者になっていたのだ。次元迷子、不思議な石ころ、そして姉への後悔―――どれもこれも、警察や学校に気軽に相談できるような内容ではない。
「それで、キィさん」
凛が、淹れたての紅茶をキィの前に置きながら、切り出した。
「あなたの『石ころ』について、もう少し詳しく教えていただけませんか? 我々も、その力を正しく理解しておく必要があると思うの」
「えーっとねー…」
キィは、湯気の立つカップを見つめながら、少し考え込む。
「あんまり難しいことはボクにもわかんないんだけど…『こうなったらいいなー』って強く思うと、たまーに、ほんとにそうなっちゃう感じ?」
「…なるほど。つまり、使用者の意思や感情に強く影響される、と」
凛は、真剣な顔でメモを取っている。
(そんな曖昧な説明で納得するのか、この人は…)蓮は内心でため息をついた。まあ、キィ相手に論理的な説明を求めても無駄だろうが。
そんなやり取りを見ていると、蓮は奇妙な気分になった。
数日前まで、蓮にとってキィはただの厄介な転校生、凛は融通の利かない真面目な室長でしかなかった。それが今では、キィの突拍子もない行動を予測し、凛と連携してフォローする、という妙なチームワークが生まれつつある。
例えば、キィが特準室のパソコンを「もっとキラキラさせたい!」と言って分解しようとした時は、蓮がキィの注意を逸らしている間に、凛が素早く部品を隠したり。
キィが「空を飛びたい!」と言って窓から身を乗り出そうとした時は、凛が必死で説得している間に、蓮が後ろから羽交い締めにして引き戻したり。
―――我ながら、何をやっているんだか。
そんな日々が数日続いた、ある日の帰り道。
天気予報では晴れだったはずなのに、突然、空が暗くなり、大粒の雨が降り出した。
「わっ…! すごい雨…!」
隣にいた凛が、思わず声を上げる。折り畳み傘は、あいにく特準室に置き忘れてきてしまったらしい。
「…チッ」
蓮は、舌打ちしながら自分のカバンを探った。幸い、常備している折り畳み傘が入っていた。
「ほら」
無言で傘を広げ、凛の頭上に差し出す。
「え…? あ、ありがとう、日陰君。でも、あなたも濡れてしまうわ」
凛は、少し驚いたように蓮を見上げた。
「別に構わん」
蓮は、ぶっきらぼうに答えた。
「お前が風邪ひいて休んだら、キィの面倒を見るのが俺一人になる。それだけは避けたい。だから、これは合理的な判断だ」
「…そ、そう。合理的な判断ね」
凛は、なぜか少し顔を赤らめながら、蓮の隣に寄り添うように傘の中に入った。
バタバタと音を立てて降り注ぐ雨。
一つの小さな傘の下、蓮と凛の肩が、時折、触れ合う。
気まずい沈黙が流れた。雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
(…近い。近すぎるだろ)蓮は内心で悪態をついた。(なんで俺がこんな状況に…いや、違う。これは不可抗力だ。雨が悪い。傘が小さいのが悪い。断じて、こいつの髪から漂ってくるシャンプーの匂いがいいとか、そういうことでは断じてない!)
必死で自己弁護を繰り返すが、心臓が妙にうるさい。
「…あの、日陰君…」
俯き加減のまま、凛が小さな声で言った。
「なんだ」
蓮は、できるだけ平静を装って応じる。
「…その…さっき、キィさんのこと…ありがとうございました」
「…別に。俺は俺が面倒な目に遭いたくないだけだ」
「ふふ…あなたらしいわね」
凛は、くすりと笑った。その笑顔は、いつもの凛とした表情とは少し違って、どこか柔らかく見えた。
「でも、ありがとう」
「…別に」
蓮は、そっぽを向いて答えた。顔が熱いのは、きっと雨のせいだ。そうに違いない。
共有する秘密と、降り続く雨。
それは、二人の間に以前は確実にあった見えない壁を、ほんの少しだけ溶かしているのかもしれなかった。
もちろん、蓮がそれを認めるのは、もう少し先の話である。