第3話:ポケットの中のヘンテコな石
特準室の空気は、相変わらずどこか弛緩していた。
日陰 蓮はソファに沈み込み、読みかけの文庫本を開いている。もちろん、内容は全く頭に入ってこない。原因は、部屋の中をうろつき回る小さな台風――キィの存在だ。
白峰 凛は、難解そうな専門書と格闘している。おそらく、昨日の池の件と、今日の転校生の件、二つの『特殊状況』への対応策を模索しているのだろう。真面目なことだ。蓮には到底真似できない。
「ねぇねぇ、ヒマだよー! 何か面白いことないのー?」
キィが、ついに飽きたのか、蓮の足元にまとわりついてきた。
「俺に聞くな。面白いことなら、自分で探せ」
蓮は、本から目を離さずに答える。
「えー、ケチー」
キィは唇を尖らせ、今度は凛の方へ向かう。
「ねぇ、リン! 何読んでるの? 難しいの?」
「…今は集中しているから、静かにしていてもらえるかしら」
凛は、ピシャリと言い放つ。だが、キィは全くへこたれない。
「ふーん。じゃあさ、キィのとっておき、見せてあげよっか?」
そう言うと、キィは得意げに腰のポーチを探り、中から何かを取り出した。
「ほら、これ!」
キィが手のひらに乗せて見せたのは――何の変哲もない、ただの石ころだった。灰色で、少し丸みを帯びていて、大きさは親指の先ほど。その辺の河原にでも転がっていそうな代物だ。
「…ただの石ころじゃねえか」
蓮は、思わず口にした。昨日から気になっていたポーチの中身がこれとは、拍子抜けもいいところだ。
「ちっがうもん!」
キィはぷんぷん怒ってみせる。
「これはね、特別なの! ボクのお守りなんだから! すごいパワーがあるんだよ!」
「パワーねぇ…」
蓮は鼻で笑った。子供の空想か、あるいはたちの悪い冗談か。
「信じてないでしょ! じゃあ、見せてあげる!」
キィはむきになって、その石ころを両手で包み込むように握りしめた。そして、何かを念じるように、ぎゅっと目をつぶる。
「えいっ!」
小さな掛け声と共に、キィが目を開けた。
その瞬間。
パチッ、と音がして、特準室の蛍光灯が一瞬だけ点滅した。
「…ん? 停電かしら?」
凛が天井を見上げる。
同時刻。蓮のポケットに入れていたスマートフォンが、ブルリ、と短く震えた。取り出してみると、バッテリー残量が100%になっている。さっきまで半分もなかったはずなのに。
「なんだこれ…」
さらに、凛が飲んでいたはずのコーヒーカップからは、なぜか紅茶の香りが立ち上っていた。
「あら…? 私、いつ紅茶を淹れたのかしら…?」
凛は、不思議そうにカップを傾げている。
そして極めつけは、窓の外。中庭の木に止まっていたカラスが、「ニャー」と、どう聞いても猫としか思えない声で鳴いたのだ。
「…おい、キィ」
蓮は、じっとりとキィを睨んだ。
「お前、今、何した?」
「えー? なんにもしてないよー?」
キィは、目をぱちくりさせて、しらばっくれている。
「ただ、石ころに『みんながちょっとハッピーになりますように』ってお願いしただけだもん!」
「ハッピーね…」
蓮は、もう一度深いため息をついた。バッテリーが満タンになったのはまあいいとして、他はどう考えても迷惑行為か異常現象の類だ。
「キィさん、その石は本当にただのお守りなの?」
凛も、さすがにただ事ではないと感じたようだ。疑いの眼差しでキィを見つめる。
「何か…我々の知らない、特殊なエネルギーを発しているような気がするのだけれど」
「うん! 不思議パワーだよ!」
キィは、ケロリとした顔で答える。
「便利なんだから!」
「便利ね…」
蓮は、こめかみを押さえた。
「周りは甚だ迷惑してるみたいだがな」
「えへへー」
キィは、悪びれもせずに笑っている。
(パワー…ね)蓮は内心で繰り返した。(どう見ても、確率操作か、小規模な現実改変の類だろ。こいつ、とんでもない代物を持ち歩いてやがる。そして、それを平気で振り回す無邪気さ…いや、無神経さか?)
その時、蓮はふと、壁にかかっている古びたアナログ時計に目をやった。秒針が、カチ、カチ、と規則正しく時を刻んでいる。
だが。
キィが「えへへー」と笑った、まさにその瞬間。
時計の秒針が、ほんの一瞬だけ、ブルブルと震え―――ほんの僅かに、逆回転したように見えたのだ。
(…気のせい…じゃないな、これは)
蓮は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この転校生と、彼女が持つ奇妙な石ころは、自分が考えている以上に、厄介で、危険な存在なのかもしれない。
そして、その面倒事に、自分は否応なく巻き込まれてしまったのだ、と。
蓮の平穏な日常は、音を立てて崩れ始めていた。