第2話:転校生は嵐の予感、名はキィ
翌日のホームルーム。
日陰 蓮は、いつものように窓際の席で、教科書を盾に意識を飛ばしていた。昨日の中庭の池での一件は、まだ凛が調査報告書をまとめている最中だ。つまり、蓮にとってはまだ『他人事』の段階である。関わらないのが一番。それが彼の信条だった。
(…しかし、あの虹色の光は何だったんだ? まるで…)
思考が逸れかけた時、教室のドアがガラリと開き、担任の教師が少し困ったような顔で入ってきた。そして、その後ろから、ひょこりと顔を出した人物に、蓮は思わず目を見開いた。
「えー、皆に紹介する。今日からこのクラスに新しい仲間が増えることになった。さ、自己紹介を」
担任に促され、その人物――小柄な少女が、ぴょこんと前に出た。
肩までの長さの、ふわふわした明るい茶色の髪。大きな瞳は好奇心に満ちてキラキラと輝き、服装は…なぜか、フリルのついた、どこの民族衣装だか分からないような不思議なデザインのワンピースを着ている。
そして何より、その全身から溢れ出る、底抜けの明るさとエネルギー。それは、蓮が最も苦手とする種類のものだった。
「キィだよ! みんな、今日からよろしくねっ!」
太陽みたいな笑顔で、少女――キィは、ぺこりとお辞儀をした。
クラス中が一瞬、静まり返る。
なんだ、この子? 可愛いけど、なんか変…? そんな空気が流れる。
「わー! このお部屋、光がいっぱい! キラキラしてるー! 探検しちゃおっと!」
キィは、自己紹介が終わるや否や、教室の中を興味津々に歩き回り始めた。机を覗き込み、窓の外を眺め、黒板を珍しそうに指でなぞる。
「き、キィさん! 落ち着いて! まずは席について…あの、空いてる席は…」
担任が慌てて制止しようとするが、キィは全く聞いていない。
(なんだ、あの生命力の権化は…)蓮は内心で毒づいた。(台風か? いや、台風なら通り過ぎるだけマシか。あれは定住するタイプだ。最悪だ。絶対に関わらない。半径五メートル以内接近禁止。心のバリアを最大出力で展開せねば…)
しかし、蓮のささやかな願いは、無情にも打ち砕かれた。
キィは、教室を一周すると、まっすぐ蓮と、その隣の席に座る白峰凛の元へやってきたのだ。
「あ! あなたたち、昨日池にいた人でしょ! 面白いことしてた! キィも仲間に入れてー!」
キラキラした瞳で、キィは言った。
凛は、少し眉を顰めながらも、冷静に対応する。
「キィさん、今は授業が始まります。それに、私たちは別に面白いことをしていたわけでは…」
蓮は、完全に無視を決め込み、教科書に視線を落とすフリをした。頼むからあっちへ行ってくれ、と心の中で念じながら。
だが、キィはお構いなしだ。
「ねぇねぇ、あなたたち、なんて名前? キィはキィだよ!」
「私は白峰凛。こちらは日陰蓮君よ。…それより、早く席についてください。先生が困っています」
「シラミネリン! ヒカゲレン! 面白い名前! ねぇ、放課後どこ行くの? キィもついてっていい?」
「いや、俺はどこにも…」
蓮が断ろうとした瞬間、チャイムが無情にも鳴り響いた。
(断る。絶対断る)蓮は心の中で即答した。(だが、どうやって? 下手に関わると余計に面倒なことになるのは目に見えている…)
結局、キィは蓮たちの近くの空き席に座ることになった。授業中も、落ち着きなくキョロキョロしたり、独り言を言ったり、時折、蓮や凛に話しかけてきたり。その度に、蓮は無視し、凛は(小声で)注意する、という構図が繰り返された。
(…疲れる。存在そのものがエネルギーを吸い取っていくようだ…)
蓮は、ぐったりと机に突っ伏したくなった。
そして、放課後。
蓮がさっさと特準室へ向かおうとすると、当然のようにキィがついてきた。
「わー! ここがあなたたちのお部屋? 面白いものがいっぱいありそう!」
キィは、許可もなく特準室のドアを開け、中へ飛び込んだ。古びたソファ、雑然と積まれたファイル、用途不明の機材。キィにとっては、宝の山に見えるらしい。
「こら、キィさん! 勝手に入ってはいけません!」
後から入ってきた凛が、いつものように注意する。
「えへへー、ごめんなさーい!」
キィは舌を出して笑うが、反省の色はゼロだ。
蓮は、もう何も言う気になれず、深いため息をついた。
キィは、部屋の中を物珍しそうに見て回り、やがて、蓮が座っている椅子の隣にちょこんと腰を下ろした。そして、自分の腰につけている、小さな刺繍入りのポーチを大事そうに撫でている。
(…あのポーチ、朝からずっと持ってるな)
蓮は、何気なくそのポーチに目をやった。使い古された、柔らかそうな布地。奇妙な幾何学模様のような刺繍が施されている。
「なぁ、そのポーチ見せてくれないか? 何か不思議な感じがする。」
蓮は、つい、指を差してしまった。
その瞬間。
キィの表情から、笑顔がすっと消えた。
そして、蓮が指している指を、パシン!と鋭く叩いた。
「…だめ」
真顔で、低い声だった。
「これは、ゼッタイ誰にも触らせないの。大事なものだから」
その声と表情には、普段の天真爛漫さからは想像もつかない、強い拒絶が込められていた。
「…っ!」
蓮は、その意外な力強さと、豹変ぶりに少し驚いた。
「キィさん、暴力はいけません!」
凛が割って入る。
「…でも、人のものに勝手に触ろうとするのも良くないわ、日陰君」
「俺は指差しただけだ」
蓮は、少しむっとして言い返した。叩かれた指が、少しジンジンする。
その時、特準室のドアがノックされ、クラスメイトが顔を出した。
「あ、キィちゃん、ここにいたんだ! さっき先生が、今日親御さん来るって探してたよ?」
その言葉を聞いた瞬間、キィはビクッと体を震わせ、固まった。
そして、すぐに無理やりな笑顔を作って答えた。
「…か、かぞく? うーんとね…今日はね、ちょっと都合が悪くなっちゃったんだって! えへへ!」
明らかに動揺している。声も上ずっている。
クラスメイトは「そっかー、先生に伝えておいた方がいいよ」と気にした様子もなく去っていったが、蓮と凛は、その不自然な反応を見逃さなかった。
(…今のは、明らかに動揺していたな)蓮は確信した。(家族、か…何かあるな、確実に)
(こいつ、ただの変人じゃないな)蓮は直感的に感じた。(何か、面倒な秘密を抱えてやがる)
そして、その面倒事に、自分が巻き込まれつつあるという予感を、蓮はひしひしと感じ始めていた。
(…最悪だ)
心の中で、何度目かのため息をつく蓮だった。