第10話:蒼葉祭前夜、忍び寄る影
蒼葉学園は、年に一度の文化祭「蒼葉祭」を翌日に控え、浮き足立ったような熱気に包まれていた。校内のあちこちで、生徒たちが看板を作ったり、飾り付けをしたり、模擬店の準備をしたりと忙しそうに動き回っている。青春のエネルギーが、普段の数倍の密度で充満しているかのようだ。
もちろん、日陰 蓮にとっては最も苦手とする空気である。
「はぁ…なんで俺までこんな…」
蓮は、特準室の展示用パネル(もちろん凛に強制された)の隅で、死んだ魚のような目をしながらペンキを塗っていた。テーマは『あなたの知らない!? 身近に潜む特殊状況』。タイトルからして胡散臭い。
「日陰君、ちゃんと塗ってちょうだい。ムラになっているわよ」
凛が、委員会の打ち合わせから戻ってきて、早速ダメ出しをする。彼女は、特準室の展示にも並々ならぬ情熱を燃やしているらしい。
「どうせ誰も見やしないだろ、こんなもん」
蓮は、やる気なく答えた。
「そんなことないわ! 我々の活動意義を広く知らしめる絶好の機会よ! それに…」
凛は、少し声を潜めて続けた。
「こういう非日常的な喧騒の中では、思わぬ『歪み』が生じやすいもの。警戒を怠ってはいけないわ」
「…また始まったよ、室長の杞憂が」
蓮は、ため息をついた。
一方、キィはと言えば、お祭り騒ぎに完全に浮かされていた。
「わーい! 明日はお祭りだー! たこ焼き! わたあめ! お化け屋敷!」
キィは、蓮たちの周りをぴょんぴょん飛び跳ねながら、蒼葉祭でやりたいことリストを諳んじている。その無邪気さは、数日前の落ち込みようが嘘のようだ。まあ、それがキィなのだろうが。
「おいキィ、あまりはしゃぎすぎるなよ。また何か問題起こしたら…」
蓮が言いかけた、その時だった。
ふわり、と。
蓮は、再びあの奇妙な感覚に襲われた。空気が揺らぐような、空間が歪むような感覚。以前よりも、はっきりと感じられる。
(…なんだ? またか…?)
蓮は、反射的に周囲を見回した。生徒たちの喧騒、準備の熱気。いつもと変わらない蒼葉祭前夜の光景だ。
だが―――一人だけ、明らかに異質な存在がいた。
廊下の向こうを、ゆっくりと歩いてくる、黒いスーツの男。
長身痩躯。表情は能面のように固まっており、感情の色が全く読み取れない。その歩き方は、まるで精密機械のように正確で、無駄がない。周囲の生徒たちは、誰も彼の存在に気づいていないようだった。まるで、彼だけが違うレイヤーに存在しているかのように。
(…誰だ? 見かけない顔だが…教師か? いや、違う。あの雰囲気は、普通じゃない…)
蓮は、警戒心を抱きながら、男の姿を目で追った。
その瞬間、蓮の隣にいたキィが、息を呑むのが分かった。
「ひっ…!」
キィは、小さな悲鳴を上げると、血相を変えて近くにあった展示パネルの裏に飛び込んだ。ガタガタと、全身を震わせている。
「…うそ…なんで…」
キィの声は、恐怖に引きつっていた。
「『調律師』だ…! どうして…どうしてボクの居場所がわかったの…!?」
『調律師』。
蓮は、その聞き慣れない言葉を反芻した。キィが口にした、その名前。
(あいつが…キィにとっての『怖い人たち』か?)
蓮がパネルの裏を覗き込むと、キィは顔面蒼白で、ポーチを胸の前で強く握りしめていた。その小さな手は、小刻みに震えている。
「おいキィ! しっかりしろ! 調律師ってのは何なんだ!? お前の知り合いか!?」
蓮は、小声で問いかけた。
「し、知り合いじゃない!」
キィは、半狂乱で首を横に振る。
「怖い人たちなの! ボクを…ボクを捕まえに来たんだ!」
パニック状態のキィが、さらに強くポーチを握りしめた、その時。
バチッ!
近くの天井の蛍光灯が、火花を散らして消えた。同時に、蓮たちが作業していた展示パネルが、ひとりでにガタガタと揺れ始める。キィの強い感情が、あの『石ころ』に影響を与えているのだ。
「きゃっ! なに!?」
異変に気づいた凛が、駆け寄ってくる。
「日陰君! キィさん! いったい何が…!?」
「まずいな…!」
蓮は、舌打ちした。
あの黒スーツの男――調律師とやらは、明らかにキィを追ってきた。そして、キィはその存在にひどく怯えている。
蒼葉祭前夜の浮かれた空気の中で、静かに、しかし確実に、新たな、そしておそらくはこれまでで最大の『面倒事』が始まろうとしていた。
蓮の平穏な日常(既に崩壊済みだが)は、いよいよクライマックスを迎えるのかもしれない。もちろん、望んだ展開では全くなかったが。