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第1話:日陰蓮は平穏を望む

嗚呼、この灰色なる現世うつしよ…。

日陰ひかげ れんは、窓の外を流れる退屈な雲を見ながら、心の中で大仰に嘆息した。

若人どもが謳歌する『青春』なる戯言は、所詮、虚飾に満ちた陽炎かげろうに過ぎぬ。光差す場所に集いし者共よ、汝らの終焉を願うほどの熱情すら、我にはもはや残されてはおらぬ。

(なんてね)

実際のところ、蓮はただ面倒事が嫌いなだけだ。省エネ、これに尽きる。世界の歯車から外れ、影として、あるいは一陣の風として、誰の記憶にも留まることなく存在すること。それが彼の切なる願いだった。まあ、なかなか叶わない相談なのだが。


チャイムが鳴り、気怠い午後の授業が終わる。

教室はあっという間に喧騒に包まれた。部活へ向かう者、寄り道に繰り出す者、それぞれがそれぞれの『青春』を謳歌しに散っていく。

「やれやれ」

蓮は小さく呟き、誰よりも早く席を立った。目指すは校舎の片隅、忘れられたように存在する『特殊状況対応準備室(仮)』、通称、特準室である。決して行きたいわけじゃない。むしろ行きたくない。だが、行かねばならない義務があるのだ。


ドアを開けると、そこには既に先客がいた。

白峰しらみね りん

長い黒髪、涼やかな目元、制服も寸分の隙なく着こなしている。成績優秀、スポーツ万能、おまけに学園理事長の姪だか孫だか。絵に描いたような才色兼備。そして、この特準室の室長にして、蓮をこの面倒な部署に引きずり込んだ張本人でもある。

「遅いわよ、日陰君」

凛は、分厚いファイルから顔を上げずに言った。

「別に遅刻はしてないだろ。定時だ」

「定時五秒前は、時間にルーズと言わざるを得ないわね」

「…そうですか」

蓮は、空いているパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。この調子だ。白峰凛は、真面目で、努力家で、そして少し、いや、かなりズレている。


「それで? 今日のご用件は?」

蓮は、さっさと本題に入ることにした。長居は無用である。

「これを見て」

凛が差し出したのは一枚のレポート用紙。『中庭の池の水質異常(虹色現象)に関する調査報告書』と、やけに大げさなタイトルが記されている。

「中庭の池? あそこの鯉、なんか変な色にでもなったのか?」

「そうではないわ。依頼者によると、池の水面が、時折、虹色に輝くらしいの」

「虹色ねぇ…」

蓮は、ため息をついた。

「光の屈折だろ。あるいは、誰かがシャボン玉でも飛ばしたか、油でも流したか」

「憶測で判断するのは早計よ、日陰君」

凛は、きりりと眉を上げた。

「あらゆる可能性を排除せず、客観的データに基づき真実を探求する。それが『特殊状況対応準備室』の存在意義でしょう?」

「はいはい、存じておりますよ、室長様」

蓮は、わざとらしく返事をした。存在意義ねぇ。蓮にとっては、学園のオカルト案件や、ちょっと不思議な噂話の後始末を押し付けられる、ただの便利屋部署でしかないのだが。

「とにかく、現場へ向かうわよ。原因を特定し、学園環境の安定を取り戻すのが我々の使命。心してかかりなさい」

「了解、了解」


中庭の池は、校舎に囲まれた小さな空間にあった。

古びた石灯籠と、申し訳程度の鯉が数匹。取り立てて特徴のない、平凡な池だ。

「それで、虹色ってのはどの辺に?」

蓮は、ポケットに手を突っ込んだまま、気のない声で尋ねた。

「依頼者の目撃証言によると、この角度から見た時に、水面の一部が…」

凛が説明を始めた、その時だった。

ふわり、と。

蓮は、奇妙な感覚に襲われた。

空気が、一瞬だけ、ゼリーみたいに揺らいだような。

(…なんだ? 今の…)

最近、時々感じる感覚だ。目眩の一種だろうか。寝不足が続いているせいかもしれない。

「…日陰君? 聞いているの?」

「ああ、聞いてる聞いてる」

蓮は、首を振って気を取り直した。面倒事はごめんだ。気のせいということにしておこう。


凛は、持ってきた水質調査キットやら、何やら怪しげなセンサーやらを取り出し、真剣な顔で池に向き合っている。その姿は、まるで未知の生命体でも発見しようかという科学者のようだ。

「うーん…水質自体に異常は見られないわね。pHも濁度も基準値内…」

凛が首を捻りながら、センサーの数値を読み上げていく。

「だから言っただろ、気のせいだって。帰ろうぜ、もう」

蓮がそう言いかけた、瞬間だった。

「きゃっ!?」

凛が、小さな悲鳴を上げた。

彼女が手にしていたセンサーが、けたたましい警告音と共に、振り切れるほどの異常値を示していた。

そして。

目の前の、何の変哲もなかったはずの池の水面が。

まるで内側から光を放つように、鮮やかな虹色に―――キラキラと輝き始めたのだ。


「…おい」

蓮は、思わず声を漏らした。

「見たか、白峰」

「え、ええ…! 見たわ! これは…一体…!?」

凛の声は、興奮と困惑に震えている。

蓮は、ただ、目の前の非現実的な光景を見つめていた。

(…光の屈折? 油? シャボン玉?)

そんな生易しいものじゃない。

これは、もっと別の―――面倒で、厄介で、そして、ひょっとすると、少しだけ面白い何かの始まりかもしれない。

「どうやら俺の平穏な日常(という名の退屈な日々)は、今日で終わりを告げるらしいな」

蓮は、空を見上げて呟いた。

「面倒の女神は、本当に俺のことがお気に入りらしい」

その呟きは、幸い、隣で興奮している室長の耳には届かなかったようだった。

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