僕ら約束された場所へたどり着けるなら(前編)
その男は俺が出会ってきたどんな旅人とも違っていた。まず何より荷物が圧倒的に少ない。あいつらは抱えている荷物の量が歩んできた旅路の長さを示すとでも思い込んでいるみたいにそれを引き摺っている。やがてそれは枷になり、金貨になり、ついには所帯となることにも気づかずに。しかし男が引き摺っているのはその細身の身体と、小さな手提げのケース一つだった。そこから目が眩むような財宝や奇天烈な武器が出てくるとは思えない。
男の表情からは一欠片の自信も見受けられなかった。宿命から逃れようともがくことを忘れてしまった男の顔だ。諦念と哀傷が染みつき、飢餓と不運に纏わりつかれ、潤いが枯渇してしまった男の顔だ。それでも男が旅人に違いないのはわかっていた。こんな荒野を一人歩く用があるとするなら、それは旅人か山賊くらいなものだ。
男が何かしらの危機に瀕していることは一目瞭然だった。しかし、それを十分に伝えるにはあまりに遠慮がちな態度だった。もしも俺がそのままそっぽを向いてしまえば、きっと声をかけずに通り過ぎていたことだろう。
「商人さんですか? 申し訳ないのですが、何か食べるものがあれば分けていただきたいのですが」
「買う、の間違いじゃないか」
男は困ったように微笑んだ。どんなに寂しい奴でも、その笑顔と引き替えに商売道具を差し出そうとする奴はいないだろう。俺は座ったまま、地べたに転がしていた木の実を指さした。
「それなら食べてもいい。普通は生では食わないが、そう言っていられる状況でもないんだろう」
男は脛を地にして礼を言った。それは道すがら、俺が拾ってきた木の実だった。小ぶりで、少し黒ずんでもいる。きっとこれを使うときは、俺もにっちもさっちもいかなくなった状況なのだろうと、精神状態の指標代わりに持ち歩いていたようなものだ。
一粒の果汁は男に想像以上の生気をもたらしたらしい。頼りない拳は果実を握り潰し、震える唇でかぶりつき、瀬戸際の力を振り絞るようにして果汁を吸い出す。とても生で食えるものではないはずだが、その様を見ていると、自分でも少し試したくなってそれをかじった。思ったより悪くなかったが、余計に腹が減ったので最後の晩餐のために取っておいた包みを開いた。肉を挟んだパンを半分に分け、なけなしの水とともに男にやった。
盛大な腹の虫が合図になった。我々は黙祷にも似た一瞬と空腹がもたらす興奮を共有し、がさつに咀嚼しては呑み込んだ。男にとって俺は唯一神にでもなっていたのだろう。感謝の意というのはわかるのだが、何分舌が回っておらず意味が聞き取れなかった。
人間という生き物が単純な感情の生き物であるならば、すでに警戒する必要はないはずだった。しかし、くどいほどの感謝もまったくのいかさま――利益を得るためのカードということもあり得る。男の目は地べたに並べられた品物にじっと注がれた。食い物はないが、金目のものならある。俺は腰の後ろに手を回した。
「もしかして、何かお困り事があるのですか?」
「見てわからないのか?」
男の顔は赤くなった。食欲で気が回っていなかったと思ったのだろうか。俺が言っているのは目の前にいる人間のことだったのだが。
「何か恩返しができればと思うのですが……」
「何もない。とっとと消えてくれ。同情や安い共感は俺の最も嫌うところでね。あんたが気に病むって言うのなら、俺の敬虔な信徒にでもなって未来永劫語り継いでくれればいい。行き連れに憐れな商人あり。道中同じく憐れな旅人に出会い、全財産を施し身を滅ぼすってな。その立派な心意気に新たな神様が誕生するよう尽力してくれたまえよ」
男は十字を切る仕草をして、手を合わせた後に微笑んだ。こいつなりのユーモアがあるらしい。
「見たところ、そちらのバックが壊れたようですね」
「これはただのバックじゃない。俺にとっちゃ飛翔するための翼、それもとびっきり優雅でイノセントな天使の翼みたいなもんだ。それを担いでいるときは、まるで無限の選択肢が俺の手元にあって、一つひとつ中身を取り出しながら自分勝手なストーリーを好き放題に夢想していたもんだ。だが、それがただの夢でしかなかったと、ついいましがた思い知らされたばかりでね。翼をもがれた憐れな天使は獣がうろつく荒野に落とされ、降ろされるはずのない梯子を待ちわびるように呆然と空を眺めることしかできなくなっていたというわけだ」
男にとって、俺のユーモアはいまいちピンときていないようだ。仕方がない。誰もが詩人の唄を理解できるというわけではないのだから。
バックの底は抜け、致命的なほつれがぱっくり口を開けている。地べたに広げたものをすべて担ぐのは無理な相談だったし、かといってすべてを諦めることはできない。歯も磨けない宝石や装飾品が俺の命そのものになるということだってあり得るのだ。今日中に次の街へ向かうのは無理だろう。とっちらかった品物を眺めているだけでずいぶん予定をくった。成果がないわけではない。食料が底をついたおかげで、その分の重量を考える必要はなくなったのだから。
「少しよろしいでしょうか」
男は腰を下ろし、バックに手をかざした。俺はマチェットの柄を握り直す。バックはすでに物言えぬ亡骸になっていたとはいえ、ともに故郷を飛び出してきた仲間には違いなかった。それに、皮は焼けば食えないこともない。
俺はその変化に気づけず、しゃがみ込んだ男が手をかざしたまま動かないことにやきもきしていた。まるで秘密の会話でもしているみたいだった。しかし、微細な光彩が徐々に俺にも認識できるまで大きくなり、やがてバック全体を包み込む煌びやかな祝福の光に変わると、まさしく天使の息吹が吹き込まれ、肉体にみるみる若々しい瑞々しさが蘇るかのごとく修復されていくのが目に見えた。ほつれは組むべき相手を見つけ、汚れは浄化され、ぽっかりと空いていた穴は閉じていく。発光が穏やかな静寂となって潰えたとき、俺はまさしく開いた口が塞がらないといった有様だった。
「驚いたな」と、俺はやっとのことで口に出した。
「お前は王族の出だったのか」
男の額には汗の玉が光っていた。
「いいえ。どうしてそのようなことを?」
「こんな力が使えるのは王族かその血を引いた貴族しかいないからさ。知っているだろう?」
「いえ……」男は言い淀み、あの大人しげな微笑を浮かべた。
「実は私は旅の者で、この世界に来たのはつい最近のことなんです。世情に疎いもので……」
「恥ずべきことじゃない。あんたが旅人だってことは知っていたよ。ただ、彼ら以外に魔法が使える人間がいるなんて知らなかったな。記憶は確かなのかい?」
「これ以上ないくらい明晰に」と、彼は微笑んだ。
「これほどまでに生の実感を感じたこともまたありません。それもすべて、あなたの親切心のおかげです」
「それ以上の貢献をあんたはしてくれたよ」
バックの調子は万全だった。俺は地べたに広げていた物をすべて中に詰め、背負って揺すってみても壊れる予兆はない。万年煩っていた身体の不調が一気に改善されたかのようだった。バックと俺は一番仲が良かった頃の記憶を思い出したかのように笑い合い、許し合った。こんな和解の瞬間が訪れるとは思っていなかった。
男に礼を言った後で、どこか妙な沈黙が流れた。好意と礼儀がもたらす選択的沈黙だ。すぐにでも出発しても良かったのだが、何か非人情的な気もする。かといって、一時の出会いを長引かせるつもりもなかった。
「そういえば、それは何なんだ」
俺はあと一言、二言言葉を交わしてから立ち去ろうと決めた。
「楽器――トランペットです」
「トランペット?」
男はそのケースを開けた。確かにそれはトランペットだった。しかし、その楽器は衛兵の詰め所に仕舞い込んでおくにはあまりに上質な輝きを帯びている。俺が知っているトランペットはもっと簡素なものだ。その多くが杜撰な管理をされ、赤茶色に錆び、掃除好きの稀有な新兵に見つかるまで放置される運命にある。だが、男の持つトランペットは日光の照りを反射し、拝んだ機会がないほど金色の煌めきを躍らせていた。艶やかな瞬き。なだらかな曲線。その掌に収まる、人間の息遣いを昇華するために形作られた究極的な構造。俺はしばし見惚れていた。ただの物体を前にここまで感情を揺さぶられたのは初めてのことだった。
「それは……何というか、本当にトランペットなのか? 俺が知っているものとはずいぶん違うような気がするんだが」
「どうでしょう。私はこの世界の楽器には詳しくないので……」
「それは口で吹くもので間違いないんだよな? 頭や臍で吹くわけじゃないんだろう?」
「もしもそんなものがあれば見てみたいですね」と、男は笑った。
「吹いてみてくれないか」
男はマウスピースを口につけた。俺も知るトランペットを吹く姿勢に違いはない。
通常、それは警告の合図に用いられる。あるいは、少年院では起床時間を告げる目的としても吹かれていた。きりきりとした、人の都合をまったく考えない金切り音に感謝を持って目覚める者はいない。別に楽器そのものに罪はない。ただそういう用途を持っているというだけだ。静謐さを重んじ、神聖を賛美する現代音楽の楽器として加えるにはいささか音が響きすぎる。
音色は違っていたが、印象自体は同じだった。俺は後ろに下がりたい気持ちを抑え、適当な場所に腰を下ろした。
金色が眩しい。その輝きは幼い頃に経験した何かに酷似していた。いや、正確には幼い頃に経験し得たはずの何か――。それを思い出そうとすると頭が痛んだ。
その楽器は陽光を存分に吸収し、眩い光輝を放っていた。主従の関係ではない。楽器それ自体が独立した器官を持っているようにメロディーを放出していた。気品や権威さえ感じられ、演奏者になびかぬプライドがあった。俺はベルの闇に魅入られた。底知れぬ未知のアイデアを溜め込んだ闇。滑らかな指の動きに呼応して音が表出するたび、自在に音を操っているのはその闇に宿る精霊か何かなんじゃないかと思った。
男の表情に迷いはない。自信、没頭、肯定、信仰……。彼が先ほどまで死にかけの身体を引き摺っていたとは思えない。次第に印象は疑問に変わった。
なんなんだ、これは?
いままで聴いたこともない音の連なりだった。音は次の音を見つけ――階段を五段吹っ飛ばしたり、認知が追いつかないほど瞬発的であったりした――跳ねては踊り散らし、時折冒頭の音列に戻った。まるで能弁な語り部の物語でも聞いているかのようだった。しかし、饒舌というわけではない。男はちらりとこちらを見、勇気づけるように身体をぐっとひねった。俺は混乱した。どういうわけか、男が俺に何かを与えるのと同時に、いつの間にか俺もその男に何かを託しているのだった。何が起きているのか俺にはよくわからなかった。いまや尻の位置を直すことさえはばかれる。
俺はどうすればいいんだ? 男の演奏を聴けば聴くほど俺は混乱した。男がベルをカップのようなもので覆うと、音はくぐもり、深く沈むような別の印象を醸し出した。こいつにはゴールが見えているのだ、と俺は思った。いまやここは彼が操縦する船が浮かぶ大海原なのだ。速度も、行路も、その男の思いのままだった。男は船の構造を知り尽くし、たゆたう波の行く末を知っていた。深海の深さと、その神秘も。俺は次第についていけなくなった。あまりにも多くのことを考えすぎたせいで、認識のスペックがオーバーしてしまっている。元々、頭の足りる人間でもない。
ここは暑くて、明るすぎる。
やがて音は耳をすり抜けていくようになった。どこまでも広がる荒野に、二人の人間がぽつり。喉が渇いた。いつの間にか、頭は現実的なことで一杯になっていた。
ようやく男はマウスピースから口を離した。名残惜しいような気もしたし、余興らしからぬほど長い時間だったような気もする。
「うん」と、俺は言った。ほかに何を言えばいいのかわからなかった。
「そういえば、お前は旅の途中なんだろう?」
男はトランペットをケースにしまった。
「他に持ち物はないのか?」
「少し事情があったもので」
「これを持っていくといい」
俺は手首に留めていた探知計を外した。
「これは魔物の存在を示してくれる道具でね、液晶の中心に光っている青い点があるだろう。それが現在地だ。四方は現在地から見た方角になっている。魔物の気配を感じればその方角に赤い点が表示されて音が鳴る。見たところ、戦闘の心得はないようだが?」男は頷いた。「なら、徹底的に魔物と出くわさないよう気を配ることだな。あいつらは弱者を決して逃がさない。肉体をいたぶり尽くし、精神をなぶり殺すまではね。いっそのこと死んでおけば良かったと、死を願う舌先も切り刻まれ、爪を立てる指もなくした後で妄想することになる」
男は代価がないことを理由に断った。探知計の有用性を賞賛すること忘れず(別に俺が作ったものではないのだが)、ご丁寧に俺の心配まで口にした。俺に譲る気がないことがわかると、再びくどいほどに礼を言い、十字を切る真似をして微笑んだ。
なぜ、それで満足しておかなかったのかはわからない。その男の音色が聞こえてきたような気がして後ろを振り返ったとき、空漠な大地がただあてもなく広がっているだけだったことがなぜだかひどい裏切りのように思えた。
バックの荷物がやけに重かった。じりじりした熱が地表を苛み、蜃気楼を生み出している。俺はしばらく予定通りの行路を進んだが、やがて来た道を引き返した。何をやっているんだと、心の中で毒づきながら。
いくら探知計を装着しているといっても、命の危険を脅かすものにまったく遭遇せずにすむというわけにはいかない。それが示すのはあくまで魔物の存在だけだ。飢えた獣が出し抜けに飛び出してきて、マチェットを抜かざる得ないこともある。普段なら大人しいはずの獣で、動きも俊敏とはいえなかったが、一人旅に興じる丸腰の旅人であったなら為す術もなくやられていたに違いない。
宵の口がぽっかりと空を呑み込んでしまうと、俺たちは歩みを止めざるを得なかった。ユークリウスに辿り着くには一山越えなければならない。ふもとの廃村には焚き火の跡があったが、それは昨夜の俺が残したものだった。
「どんな事情があれば、あんな荒野で生き倒れることになるんだ?」
俺は崩れ落ちた家屋に蹴りを入れ、木材を剥がして焚き火の材料にした。この冷ややかな死と退廃の匂いに満ちた廃村においては、それが最も建設的な使い道だろう。シラミや虫喰いがはびこる終の住居に身体を横たえるのは、野宿するよりぞっとしない。
「お前のことをまだ聞いていなかったな」
「山賊に襲われたんだよ。どうしようもなかった。このケース以外は全部持っていかれたんだ」
「よほど音楽嫌いなやつだったんだろうな」
「違いないね」と、彼は心から楽しむように言った。
「まぁ、どのみち武器を残してくれていたとしても僕には何もできなかっただろうね。なにしろ君の後ろで震えていることしかできなかったんだから」
「獣を見るのは初めてだったのか?」
「実物はね。君には何度も命を救われた。それに、いまもこうやって――」
「マルスだ」
彼は一瞬意外そうに目を丸めたが、リラックスしたように微笑んだ。
「僕はアケミヤスグル。スグルでいい。マルスに出会わなければ、僕はとっくに死んでいた。感謝してもしきれないよ。どんな形で恩を返せばいいのかもわからない。僕は餓死してもおかしくなかったし、獣の餌になってもおかしくなかった。いまもこうやって、暖を取ってくれている。なぁ、どうして戻ってきてくれたんだい? 僕のことなんて放っておいても良かったじゃないか。僕はマルスの荷物にしかならないよ」
「確かにバックの中には入りそうにもないな」
「冗談で言っているんじゃないよ」
「それを言うなら、お前はどうしてもっと餓死寸前になっていることを訴えなかったんだ? 物乞いのようにすがるのはプライドが許さないのか?」
「迷惑をかけたくなかっただけさ」
「迷惑? 死にそうになっているときにそんなことを考えているのか?」
「マルスだって同じようなものだったじゃないか」
彼はしてやったりという風に笑ったが、状況は全然違う。どう考えても、俺の方は彼が救世主のようには見えなかったのだから。
パチパチと木片が爆ぜる。形を留めず、煌々と明かりを灯し続ける炎。解き放たれた火花が刹那の命に羽を伸ばし、流線を描く。頭上にも無数の明かりが点在し、なかなかに玲瓏として明るい夜だった。探知計も魔物の接近を予期していない。昨夜は気が気でなく、まんじりとしてもすぐに眼が覚めてしまったくらいなのだが。
「こんな夜のために、僕は生まれ変わったような気がする」
スグルがぽつりと言った。
「実を言うと、こちらの世界に来てからもあまり気持ちのいい出だしとは言えなくてね。わけもわからないままこの世界に放り出され、あっけなく山賊のカモになった。それどころか、すんでのところで餓死寸前のところまでいった。自分の足で歩ける解放感を味わう余裕すら生まれなかった。結局どこに行っても、僕にはこんな生き方しかできないのかと諦めかけていたところだったんだ」
「……お前は変な言い方をするな。こちらの世界とか、この世界とか」
「……そうだね」
不気味に図太い音が立ち、どこか憐れっぽく夜に鳴いていた獣の声がぱたりと止んだ。不意にスグルの瞳は炎の揺らぎに囚われた。
「僕は元々この世界の住人じゃないんだ。僕は前にいた世界で死んでしまった。でも、――妙な言い方にはなるけど、目を覚ましたら僕は五体満足な他人の身体で生まれ変わっていたんだ。僕がいた世界とはまったく異なる世界で」
彼はおぼろげに笑った。
「どうだい? こんな話は」
「続きはないのか?」
「……信じるのか?」
「お前には独特のユーモアがある。しかし、つまらない冗談を口にするタイプじゃない。それくらいのことは見ればわかるさ」
「マルスが言っていたことが冗談だとは思えなくなってきた。君は天使そのものだよ」
「他人から言われると気持ちの悪い限りだな」
彼は土に指で何かを描いていた。絵とも模様とも似つかぬ何かだ。おそらく自分でも何を描いているのか意識していなかったのだろう。彼の意識はその何かとは別のところにあった。
こうしてみると、彼はおそろしく若い青年に思えた。彼の中にはまだ擦り切れておらず、他者や世の中への安直な失望や悪意に身を委ねず、幼い頃に抱いた心象風景のように護り切っているものがまだ確かに残っているのだ。
「……幸福ではなかったな」と、スグルは呟いた。
「僕には生まれながらに才能があってね、他人が苦労して身につけるはずの技量を、見ただけで真似ることができた。それにね、別に意図するわけではないんだが、人は僕のそれに特別な物を見出すんだ。天才だともてはやされ、ちやほやと賞賛されたが、はっきり言って僕にはよくわかっていなかった。ただよくわからないままに与えられた餌に食いついていた。両親が喜んでくれるならそれで良かったし、大の大人がほかの子供には見せない対応をしてくれるのが心地良くもあったからね」
「それはさっきの音楽のことか?」
「まぁね」
「なぁ、あれはなんなんだ?」
「ジャズだよ」
「ジャズ?」
「僕のいた世界で一番流行っている音楽さ。ある人はそれを夜の音楽だと言った。ある人は偏見と差別を笑い飛ばすためのほら話だと。色々な言説があるよ。高尚なものだと絶賛した者もいれば、俗悪的だとけなす人もいた」
「お前の哲学をインタビューされたことはなかったのか?」
彼は眉根を寄せて微笑んだ。
「残念だけど、そんな機会には恵まれなかったな。僕がその土俵に立っていられたのは、ほんの一瞬のことだったんだ」
俺はバックの中から葉巻を取り出した。空きっ腹には堪えたが、さしずめ口にできるものは何もない。
「僕はつけあがっていたんだ。横柄に振る舞ったし、そこらの若者と対等に扱われることに我慢できなくなっていた。その代償だったのかもしれない。事故に遭って演奏できない身体になってしまったとき、それまで僕の側にいた人はみな離れてしまった」
熱と煙と温い外気。死んだ村に留まっていると、自分の生気も緩やかに抜き取られていくような気がしてしまう。
「僕の記憶として最後に残ったのは病室から見える風景だ。窓の向こうで季節を変えていく風景や、次々と入れ替わっていく同室の人々や、忙しそうに駆け回る看護師の人たちや……」スグルは口を噤んで微笑んだ。「つまらない話になってしまった」
「これから面白くなるものだと思っていたよ」
彼にも葉巻を勧めると、恐る恐る火種に顔を近づけて煙を吸った。幾度か咳き込み、息を整えるのに時間をかけながら、試すように細々しく吸い込むと、やがて目を細めて上体をずらした。
「微妙な味がするね。舌も痺れる」
「無理しなくていいぞ」
「肺が驚いているだけさ。それに、ずっと憧れてもいた。同じ病室に葉巻に命を捧げた人がいてね。喫煙なんて許されない身なのに点滴まで外してよく隠れて吸っていたんだ。雨雪降っていても関係なく、毎日病院の裏庭に足を運んでさ。余命幾ばくもない病人にそこまでさせる味とはどういうものなんだろうと興味があったんだ」
「腑に落ちたか?」
「正直、どうしてあそこまで必死になっていたのかはわからないままだな」
「ほかに夢中になれるものがなかったんだろう」
「……だろうね」
彼はもう口に葉巻を運ぶことはなかったが、何か大事なものでも握り締めているみたいに離さなかった。
「明日は早く出発する。そろそろ眠った方がいい」
「……そうだね」
俺たちは言葉も交わさぬまましばらく目を開けていた。俺は彼に聞きたいことがあったし、もう少し自分の話をしてくれてもいいと思っていた。よくわからないが、もう一度あの演奏を聴きたいとも思った。どのみちこの空腹で寝付けもすまい。しかし、煌々と燃える熱が沈黙を温め、微睡む眠気と混じり合っていくと、俺はいつの間にか眠っていた。
始めに痛みが走り、耄碌が襲った。まぁまぁの恨みを持つ相手でなければ投げつけられないであろう大きさの石が後頭部にヒットしたのだ。俺は一瞬、白痴の世界を彷徨った。それでも、反射的にマチェットを抜いていたらしい。相手は悪態をつくだけで、それ以上近づいてこようとはしなかった。
「このド腐れウンコ野郎が! どの面下げて戻ってきたんだ!」
頭蓋骨が砕かれたのだと思った。それくらい痛かったし、なんなら一生分の反吐をぶちかました床の上で仰向けになって永眠したくなるような気分だった。足はふらつき、喉がつかえるようで声も出せなかったが、何とか憎しみを分かち合うように口角を上げてその場から逃げ出すだけの余力は発揮できた。
「なんだったんだい、いまのは? 浅からぬ因縁があるようだけど……。いや、それより大丈夫かい? 血が出ているんじゃないのか?」
彼は服の袖を伸ばして俺の後頭部に腕を伸ばした。
「問題ない」俺はその腕を振り払った。「いま言えることは、正義はあちら側にあるということだけだ」
ユークリウスの入口近くに着いた際の出来事だった。往来があるのはわかっていたが、まだ自分の悪評について高をくくっていた部分があったらしい。俺を見るなり表情を豹変させたそいつの顔に俺は見覚えはない。
俺たちは木立を縫い、その影に隠れた。街の入口にはなかなか頑丈そうな門扉がそびえ、いかにも鍛え抜かれた身体の門番が数人立っている。入場するにはそこを通るしかないし、見張り台のシフトは抜かりなく組まれている。
「お前は先に行っていいんだぞ」と、俺は言った。
「何もお前までいわれのない罪を背負うことはない」
「関係ないよ。元々、正義のヒーローに憧れる子供でもなかった」
木立が影を作り出している。さらさらと吹き渡る風が足下をさらい、緑葉をからかっていた。ひどく頭が痛み、疲れてもいた。が、不思議と倦怠感はない。別にスグルだって王都にこだわる必要はないんだろう。
しかし、俺はバックの中からフード付きのマントを取り出して被った。俺から見れば、それはうす汚いボロ布でしかない。薄くて軽い、雨風を防ぐ用途としてはあまりに頼りなく、被ったところで耐寒性もくそもなかった。しかし、目の前にいる誰かはいつも驚愕に表情を犯されることになる。
「ちょっと待ってくれ……。僕の目がおかしくなったわけじゃあるまいね? 君の顔が変わったように見えるんだが……。いや、違うな。そうじゃない。君は浅黒で端正な顔つきだった。初めは行商人というよりどこかの御曹司かと思っていたよ。でも、どうだろう……。そんな印象はちらりとも感じられなくて、なんというか、上手い言い方が見つけられないが、いまの君は顔のない人に見える」
「顔のない人か。気楽でいいな」
「説明してくれよ」
「一言で言えば魔法だよ。俺自身は何も変わっちゃいない。このフードを被った人間の印象を変えるんだ。だから顔が変わっているというより、俺という人間全体の雰囲気をぼやかし、極限までゼロにしているんだ。いまの俺の顔は、俺を見ているそいつが薄くなった印象を補完するために勝手に一般的な人間のイメージを作り出し、その空疎な輪郭に当てはめているに過ぎない。騙せるのは第一印象でしかないんだが。よくよく観察すれば、俺という人間の輪郭が戻ってくるはずだ」
「……すごいな」
彼は俺の顔を詳細に観察し、無邪気に瞳を輝かせた。俺にもこんな時代があったのだろうか。
「僕はマルスが目の前でフードを被るのを見ていたから、君がそこにいるということを知っている。でも、頭ではわかっていても認識の扉が閉まったままだったよ。ともすれば、君が誰なのかわからなくなってしまいそうだった」
どこにそれだけの感情の器があるのだろうと思ってしまうほどに、彼は感嘆し、うわごとの如く呟き、きらきらとした瞳で目の前の奇跡なるものに見入っていたが、不意に思い出したように言った。
「待ってくれ。魔法は王族かその血を引いた貴族にしか使えないものじゃなかったのか?」
「俺の魔法じゃない。このマント自体に魔法が施されているんだ。だから誰が使っても同じ効果が得られる。その探知計みたいにな。さぁ、もういいだろう。そろそろ中に入ろう。門番の奴らと丁寧なご挨拶を交わさなくちゃな」
ユークリウスは特別な街だ。整備された石畳に真新しい新築の家々が目を引く。商売に立つ従業員の顔にはまだ初々しさが残っていて、そこら中に期待と野心の粉が舞っている。文化、教育、商業、国益、軍事、風俗……。生活水準は十分すぎるほど保たれているが、これでもまだ復興途上だというのだから驚きだ。もちろん、不満はあるだろう。インフラに対して王権の魔法に寄るところが多く、その分の献上金も高くかさんでいるはずだ。それでも、行き交う人々の顔はまぁまぁ幸福そうに見える。少なくとも昼間の酒盛りが陰鬱な空想に沈みこんでいるほどではない。
王都の外周は壁に囲まれていた。決して大きな街ではない。小高い丘に登れば王都の全容を見渡すことなどわけないはずだ。もちろん、そんなことをしても王都について知ることができるのはごく一部の部分でしかない。どれだけ性格の悪い奴でも、笑顔を浮かべている限り勝手に相手の方が騙される。
俺はまずバックの中身を軽くすることから取り掛かった。非凡な宝石類を売り、たらふく飯を食う。そうしないことには何も始まらなかった。腹を満たした後で再度腰を上げるのは難しかったが、なんとか眠気をなだめすかしてスケルッツの酒場に辿り着いた。木目調のこぢんまりとした店構えは、土を掘り返し砕石に明け暮れる労働者が団体で詰めかけるには適さない。物静かで陰気――もとい、思慮深く落ち着いていると噂される客層が主に扉を開く。あるいは、俺が連れてこなくてもスグルなら勝手に常連客になっていたかもしれない。
ベルが鳴ってもノモスは良い顔をしなかった。カウンターの向こうでちらりと顔を上げただけだ。といっても、彼が誰かに笑顔を向けているところは見たことがないのだが。
「閉店中の看板が見えなかったのか?」
「なら、鍵くらいかけておけよ」
ノモスの敵になるのは生涯において避けておきたいことの一つだった。だからこそ、近隣の住民は開店前にスケルッツの扉をノックしたりはしないのだ。俺は神父の慰みを盗み見た不敬人のようなものだった。必要最低限のテーブル席と、広く間隔を開けたカウンター席。酒のボトルや艶やかに磨かれたグラスは俺を咎めるようにむっつりと黙り込んでいた。正直に言えば、俺は声が震えないようにするので精一杯だった。静寂に愛されたこの空気は、彼が抜かりない采配と気配りを施すことで生まれるものだからだ。俺は彼の静寂に対する好意を踏みにじったことになる。
「相変わらず小綺麗にしているんだな。あんたみたいな顔は、残忍な傭兵を幽閉する地下室くらいでしか見たことがないってのに」
彼は何も答えなかった。
「一人で店を切り盛りするのは大変なんじゃないか。あるいは、見かけほどではないのかな? むしろあんたにとっては客が来ない方が幸せなんじゃないかと思うぜ」
「この間人を雇ったよ。あんたには関係ないことだが」
「へぇ?」
酸いも甘いも吸い尽くしたという表現がぴたりと当てはまるのだろう。年相応に刻まれる皺に反して、未だに張りを失わず、老獪で思索的な印象を醸し出す肌。もしくは、潰された片目の謎を求めて訪れる客もいるのだろう。火遊びはもうこりごりだと溜め息交じりに告げる声音も、誰かを夢中にさせてしまうのだから切りがない。気怠げな瞳も、彼の領域の盲点になることはない。羽虫の懸命な羽ばたきすら見逃してはくれないのだろう。整然にして清潔な店内には、彼が許す命しか留まることができない。
「独り身でいることを止めたとはね」
彼が押し黙っていると、神様さえ沈黙してしまいそうだった。
「あの人には君の姿が認知できているのか?」と、スグルが耳打ちをした。
俺は被っていたフードを外した。
「無意味な駆け引きは省略しなくちゃな。どうだろう? この店に新しい風を入れてみる気はないか? 俺はこの店にぴったりなエンターティナーを仕入れてきたつもりだぜ?」
「お前はこの街を出ていった方がいい」
ノモスはぴくりとも姿勢を変えていなかった。俺のことも、エンターティナーのことも見てはいない。
「話くらい聞くのが筋じゃないか?」
「同じことを二度言わせるな。俺がお前に言ってやれることはそれしかないんだよ」
「人から何度も同じことを言われ続けると、その言葉の本質が崩壊して意味をなさなくなると言ったのは誰だったかな――」
耳元の風切り音の正体に俺はすぐに気がつくことができなかった。吹き荒んだ疾風と唸り。後から認識できたのはそれだけだ。ノモスが腕を振り上げていることを疑問に思っていると、隣にいたスグルが青ざめた顔で息を呑んでいた。彼の視線の先には壁にナイフが突き刺さっている。脳みそが違和感の正体に気がついた、と同時に別の液体がどろりと溢れ出すようだった。舐めればきっと恐怖という味がすることだろう。
「次に同じことを言うときは、きっとこう変わっているだろう。あいつはこの街から出ていくべきだった、とな」
「……俺の死体を燃やすのは、さほど苦労しないんだろうな」
「そうだ」と、今度は俺にもわかるように別のナイフを取り出した。
「もっと言えば、隠蔽するためにお前の死体を燃やす必要もない。魔物共の巣に運搬するために、手伝ってくれる輩すらたくさんいるだろうよ。もちろん、俺がそうしたいといっているわけじゃない。必要であれば致し方なしと言っているだけだ」
「俺は俺の事情に従っただけだ」
「だったらなおさら戻ってくるべきではなかったな。この街はお前の味方じゃない。お前を歓迎することはもうできないんだよ。誰にもね。お前の席はもう取り壊されてしまったし、お前の名札を作ってくれるようなお人好しはもうこの街にはいない」
無意識に頭の後ろを掻いていた。傷はすでに塞がって、痒みに時折疼くだけだ。
きっとこのまま踵を返すのが正解なのだろう。小窓の向こうに見える人々が素通りしてくれるたびに、俺はそいつらの顔を盗み見る。知っている顔か、新しく移住してきた顔か……。俺はフードを被り直そうとして、止めた。鈍く光る銀色のナイフだけが俺を見ていた。
「……戻ってきたわけじゃない」と、俺は言った。
「世の中は不思議なことが起こるもんでね。ある日、行き倒れの男二人がばったり出会う。そのうちの一人の男はなかなかに面白い技術を持っていた。言葉で伝えるのは難しいが、俺はその音を聴いて、なぜだかこの店のことを思い出したんだ。昔懐かしいスケルッツの酒場をね。あんたに聴かせてやりたい――いや、こいつの演奏をもっとまともな場所で聴くには、ここがうってつけだと思ったんだ。だからさっきも言ったように、俺は人を紹介しにきただけなんだ。ユークリウスという街に詫びを入れて永住しようなんて気はさらさらないよ」
ノモスは初めてまともに俺たちに目を向けた。真意を探るような視線は俺からスグルに移り、また俺に移った。「俺はもう満足している」と、彼は言った。「これ以上手を広げる気はない」
「判断を下すには順序があるはずだ」
俺は有無を言わさずスグルに楽器を取らせた。彼は少しうろついていたように俺を見たが、やはり度胸というものが備わっている。彼の背筋はしゃんと伸び、たった一人の聴衆に相対した。少なくとも、丸腰で未知の旅路へ踏み出しただけのことはある。
ノモスはその楽器にいくらか興味を惹かれたようだった。几帳面に磨かれ、丁寧な輝きを放つその金色はスケルッツの空気によく調和している。スグルは気の合う友人に調子を尋ねるみたいにして音程を合わせ、指のかかり具合を確かめ、全体の感触を馴染ませていった。俺は近くのスツールに腰かけ、スグルのそんな儀式的な所作を目で追った。
俺はスグルの演奏よりノモスが彼のことをどう思うかだけが気にかかっていた。演奏中も彼は表情を崩さない。やや甲高く、静寂な空気に楔を打ち込んでいく演奏を、ノモスはどう感じる? 眉根もぴくりとも動かない。ぶ厚い門のような唇。感情の機微は、その瞳のずっと奥の方に閉じ込められていた。スグルがマウスピースを離した後も、彼はしばらく考えこむように何も言わなかった。
「……よくわからないな」と、ようやくノモスが口を開いた。
「そうか」
ここはたっぷりと時間を使うところだった。といっても数秒のことだったが、俺の舌が乾くには十分な時間だった。
「客に判断させるべきかもしれない」
「紹介料は負けておくよ」
感謝のあまり言葉も出なかったのだろう。なにはともあれ、命を見逃すだけの価値はあったらしい。
客の反応は芳しくなかった。興味本位に注がれた視線もやがては落ち着きもなくテーブルのグラスと演者を行き来し、ついには説明を求めるような怪訝な面持ちに変わった。熱気のようなものはなくはない。が、それはかなり限定的で、ふとしたことで簡単に白けた空気に変わる。例えば誰かが演奏中にドリンクを注文したり、パートナーが席を立って帰り支度を始めたり、無遠慮な会話が割り込んできたりすると、そこに感じられたはずの何かはあっさりと消滅してしまう。俺は彼のアドバイザーよろしく、座席全体を見渡せる位置に陣取ってそうした客の反応を眺めていた。といっても、俺にも種がわからないものをプロデュースしようはない。結局はそいつらと同じ顔をしながら聴いているだけだった。
スグルに気にした様子はなかった。彼の笑顔は小慣れていて、ステージ上での動作は潔く颯爽としている。スグルにとってはあまり重要なことではないのだろう。いまのスグルには音楽家という肩書きも、一族の名誉をかけて演奏をする必要もない。ともすれば、「トランペットって楽器はこうやって演奏するんですよ」とでもいうように実演しているみたいだった。俺は物足りなさを感じることもあったが、まぁ、何も言えまい。何を言いたいかもわかっていないのだから。
ステージに上がる機会を多くもらえたわけではないが、少なくとも俺たちは衛兵に「職持ちだ」と答えることができた。それに、スグルにはほかに熱を入れている奉仕活動があった。俺が路銭の使い方にあれこれ頭を悩ませながら帰宅すると、宿泊先の前に人だかりができているのを見かけた。主婦や子どもたちの興味本位な視線の先にはスグルがいる。昼間の名残を残す橙色のキツい西日が彼らの表情に生気を蘇らせていた。小粒な建物に挟まれた細い通路は陰影を濃くするだけだったから、その光の筋道は何かの啓示のようにも見えた。やがてどっと破顔と歓声が起こり、スグルは人形を手に照れくさそうに笑った。
「近所の子が人形を壊して泣いているのを見かけてね。直してやったら、たちまち噂が広がったみたいなんだ」
はにかみながらスグルが顛末を語った。
「何度か直してやっているうちに、人だかりができるようになったんだ。みな壊れていても、大事にしまっているものがあるらしい」
「商売にした方がいい」
俺は宣伝文句をこしらえていた。『退屈さと倦怠感に呻く昼下がり。もしもあなたの身の回りに壊れているものがあればラグラックというボロ宿を訊ねてみませんか。どんなものでも、どんな状態でも、まさしく天が施しを与えるが如くたちまち直してみせます。平民は金貨一枚、くそったれの高級取りは金貨十枚。なお、イカれた頭は治せませんのであしからず』
我ながらパンチの効いた宣伝文句だったが、俺が口を開く前にスグルが遠慮がちに口を開いた。
「いや、できれば売り物にはしたくないんだ」
スグルはさらに萎縮するような声音になった。
「マルスの言いたいことはわかる。でも、なんというか、あの子たちのことを裏切りたくないんだよ。明日も約束してしまったし……」
「別に誰もお前のことを責めていない。そもそも、お前の能力があってこそのことだしな。ただ路銭の稼ぎ方に問題があるだけなんだよ。スケルッツの演奏だけじゃすぐに底をつくだろう。お前も気づいているんだろうが、俺はこの街じゃ働けない事情がある。お前に別の手段があれば別だが、せっかく使える力があるのにそれを利用しないのはもったいないだろう」
俺にとっては意外なことだったのだが、そこに吹き込んだのはよそよそしい沈黙だった。何を思ったのか、俺はそれを誤魔化そうとするように短く笑い声を発してしまったくらいだった。しかし、お互いにその沈黙を受け入れてしまった後だったし、同じ解決策が思い浮かんでいたことを承知しないわけにはいかなかった。いつまでも男二人がこんな風に軋んだベッドに腰かけて、ろくすっぽものも置けない小さな足置きみたいなテーブルを間に挟んで向かい合う必要はないのだと。俺たちが泊まっている部屋は半地下にあり、人々の雑踏は上から過ぎていく。まるで二人の囚人が空に憧れるかのように天井を見上げて、ちぐはぐに過ぎていく雑踏を聞き取っていた。
「……僕の力はアブノーマルなものだし、大々的に宣伝してしまうと面倒なことが起こるかもしれない。もちろん、いまよりもっと人が集まるようになったとして、そこで起こる揉め事の方が大きくなったらまた考えるよ。ただ、当面の間、僕は近所の便利屋さんでいたいんだ。恥ずかしいし理解してもらえないかもしれないけど、僕はそんな奴になることを夢見ていたんだよ。気が利いて、使い勝手が良く、いつもにこにこして頼み事を聞いてくれるような奴にさ」
こうやって正面から彼のことを見つめていると、やはりどこかあどけなさが残っていた。俺は頭を掻き、喉につっかえるようなほこりっぽさを吐き出すように言った。
「無償で扱うには便利すぎるけどな」
その日来店したのはあからさまにそれとわかる酔っ払いだった。それ以上の価値がなければわけはなかったが、その男にはほかに「高名な学者」というネームバリューがあった。きっと恐れるほどではなかったはずだ。一瞬そわっとした空気が流れたものの、誰一人声をかけようとはしなかった。取り立てて芸のない、他人の意見や風潮を補足したり反論したりすることが仕事の男だ。師匠よりも賢明な従者二人は肩を貸し、申し訳なさそうにしながらテーブル席に彼を落ち着けた。
「お水をお持ちしましょうか」と、気を利かせてウェイターが言った。
「酒だ」
「生憎、お出しできる方が見当たりません」
ウェイターについては一言触れておかなければならない。好奇心に溢れる瞳は目の前の泥酔客のために厳しい光を湛え、好戦的ともとれる口調を取っている。勝ち気な表情に似つかない嫋やかな黒髪は一つにまとまり、背筋に流線を描いていた。まるで月明かりを反映する川面のように、仄暗い照明を浴びて。しゃんとした立ち姿。身長は低かったが、簡単に押し引きできぬ一本の芯が通った振る舞いだった。おそらくは彼女の趣味だろう。カウボーイのような獣皮のジャケットとショート・パンツ。編み込みのロングブーツを履いていた。
「酒を出さない酒屋がどこにある」
「ここはお酒を嗜むお店であって、お酒に溺れるお店ではありません」
学者は思いのほか快活な笑い声を立てた。
「たしかにここには救命具も置いていないようだ。ただねお嬢さん、あんたは一つ思い違いをしている」
「なんでしょう」
「私は・酔っ払いでは・ない」
会話が不可能だと悟った瞬間だった。不承不承にウェイターは奥に引っ込みざるを得ず、ノモスは酔い覚ましのスープを作る羽目になった。あの男ですら、ときには相手の立場を尊重することもあるのだと俺は半ば新鮮な気持ちで一部始終を眺めていた。具合が悪かったのは、この後にスグルの出番が控えていたことだ。
酔っ払いがスグルの演奏にちょっかいをかけることはしばしばあった。相手の頭にはない芸能を披露するときに現れる反応は多種多様だ。奇異の目で見つめる者、端から劣等と決めつける者、深く考えこんでしまう者……どれもわからない反応じゃない。かくいう俺も彼の試みを上手く表現できる言葉を知らない。しかし、不可解なことには、相手がそれを侮辱と受け取り、怒りのトリガーとなってしまうことだ。その学者がその内の一人だった。彼は赤らんだ頬をさらにかんかんに火照らせ、聞くに堪えない怒号を発した。
「それを止めろ! なんだ、それは? なぜそのような……。えぇい、まだ耳がキリキリする。いったい何を考えているんだ? どうしてそんなねじ曲がったことを……。やたらめったらにキィキィホイホイ、ここは場末のサーカス会場なのか? 売国奴だって、もっとまともな演奏をするさ」
一気にまくし立てたのが幸いし、学者は嗚咽を漏らし肩で息をした。そのまま呼吸の仕方を忘れてくれていた方が俺たちとしては都合が良かったのだが、学者は口元の粘つく涎を拭いながら言った。
「君は音楽を聴いたことがないのだろう?」
とろんと据えられた目がスグルに向けられている。ときに知的とも言えなくもない人間を狙う悪霊に取り憑かれた目だった。
「三十二年前に聴いたそれを私は忘れないでいる。凄惨な魔物の大群の襲来があったあの年だ。すべてがなぎ払われ、絶望に朽ちた日々に覆われた悲痛な過去だ。話に聞いたことくらいはあるだろう? 語り継ぐことでしか報われない、それらの日々のことを」
言われるまでもない。俺は代金をカウンターに置き勝手に酒瓶を取った。ノモスは気づいていたはずだが、ちらりともこちらを見なかった。
「まさしく地獄絵図だったよ。悲鳴と狂気が街を呑み込み、絶望の大渦に足を搦め捕られていた。魔物の大群はあらゆるものを破壊し尽くしていた。目につくものをすべて荒野に返し、我々の魂の存在すら許すまいとするように。まるで絶対的な無力感を我々の根底に植え尽かせんとすることが目的かのような暴虐だった。目に見えるものだけではない。私たちが寄りかかっていたシステムや、常識や、良心といったものも破壊の対象だった。私にできたのは逃げること、隠れること、祈ること……それくらいだった」
学者はしとど言葉を続けた。いまやステージ上の主役はその学者に奪われ、スグルは教師に叱られた子どものようにトランペットを握った手を下ろし、きつく口を閉じていた。責任を感じる必要などどこにもないのに。しかし、俺はスグルに声をかけなかった。
「逃げおおせることはできなかった。その目に捕らわれたとき、私は根源的な恐怖に突き刺された。死の恐怖ではない。もっと別種の、存在証明が根こそぎ奪われるような恐怖だ。全身が硬直し、頭が真っ白になり、あらゆる思想や祈祷も無意味になった。魔物の目に浮かんだ私への――人間をいたぶることへの興味が、私をただの愚物に変えてしまったんだ。奴は神より絶対的な支配者だった。私はそれを認め、奴の作り出した影の中で赤子のように縮こまることしかできなかった。
私はほとんど生きた心地がしなかったし、実際には死んだも当然だった。私自身が生き長らえることを諦めていたのだから。だが、やがて不思議なことが起こった。私の中からすっと何かが抜け、身体の硬直が解かれるのを感じたんだ。正確に言えば、身体は固まったまま動かなかったが、その身体を俯瞰的に見下ろす私が生まれ、その私は至極冷静にことの状況を判断しているのだ。何かを考えているというのとは少し違う。私の魂が私の身体から離れ去り、最後のお別れのために私を見下ろしているという感じだった。その影にいた一瞬ほど、永遠を感じたことはない。
なぜだかはわからない。魔物は結局、私から興味をなくしたようにどこかへ去っていった。後には一人残され、私を見下ろしていたそいつもついには私自身の元へは帰らずにどこかへ去ってしまった」
学者が酒の存在を忘れてくれているのはありがたかった。きっと自分のステージに酔っているのだろう。そう思えばいいのさ。席を立った賢い客はとてもスマートに会計を済ませ、一日の最後を台無しにしないことに成功していた。
「その後のことは史実通りだ。砂埃や、硝煙、焦土……どこに行っても血生臭さがこびりついていた。しかし、史実には個人的な経験が含まれているわけじゃない。あのとき、あの場にいた人間には、等しくそれを語る権利があるというのに。あの頃の私はまだ学問に目覚めたばかりで、ようやくまともな字が書けるようになった程度の新米でしかなかった。だが、あれには、あの有様には……あらゆる知識が墓場に捨てられていた。家族を亡くした子にかける言葉一つ見つけられず、希望の道筋なんてどこにも示してやることもできなかった。私は自分の無力さを痛感し、途方に暮れ――」
学者はそこではたと話を止めた。
肌寒い空気が流れ込んだ。客が店を出ていったときに流れ込んだ外気だ。学者は店内を見回したが別に気分を害したわけじゃなさそうだ。ウェイターが差し出したスープを理解不能なものに相対したかのように眺めていた。誰も続きを促さなかったし、学者自身もそのことをわかっていた。俺は酒を飲み、真新しい街灯を眺めた。
「いや、正直に言おう。私はもう何も感じることがなかったんだ。そんな光景を見ても、あらゆる戦場の苦悩に行きあっても。あの魔物がもう一人の私を掻っ攫ってしまったとき、私の何かは決定的に死んでしまったのだ。人の死や嘆きに立ち合い、慰めの言葉を掛けあっても、私の言葉や行動はどれも白々しく、虚ろだった。私は自分が何をし、何を与えようとも、そこには実感というものがまるで欠けていたんだ。
私は……いま思い返せばおぞましいことだが、心の安寧を瓦礫の山に見出すようになっていた。人々が時代をかけて積み重ね、構築してきたものですら、最後には無に返し、同じく潰えてしまうものだということに。私は街の残骸に心を同調させ、そこに生じる心の動きに甘えていた。私は安心していたんだ、心底ね。不健全な安寧が膨れ上がっていた。自分の中にいた浅ましき化け物が、解錠された扉に腕をかけて大きくあくびをしているかのようだった。そいつがいつから私の中にいたのかはわからない。しかし、そいつは消えてしまった私の代わりに私のあらゆる感情を操作するようになってしまったんだ」
喉の奥が焼けつく。俺は小瓶を逆さにして残りを飲み干し、いっそのこと酩酊に身を任せることができたらと思った。
「なぁ、そんなときなんだよ。その音楽が聞こえてきたのは」学者はそこで再びスグルの方を向いた。学者が彼のことを忘れていないのは意外だった。
「君、いまの王都を復興させたのは誰なのか知っているか?」
「……ロック家だ」と、俺はスグルの代わりに答えた。
「そうだ。あの魔物の襲来に、当時の王族はまったくの烏合の衆と化した。指揮を執らず、収拾をつけられず、いの一番に逃げ出した輩さえいた。何を隠そう、それが国王その人だったんだから驚きだよ。誰も犠牲にならなければ笑い話にすることもできたのだろうがね。結局、その愚鈍な直系は肩書きとして存在し続けていたが、ついには名実ともにロック家が王の地位に着いた。遅すぎたくらいだ。彼らが最後まで気高く戦い、誇りを強く持ち、血潮を浴びた人たちだったし、明晰で温かな眼差しを持った人たちだったのだから――」
学者は恍惚するような視線を泳がせた。
「あのときのことをよく覚えている。崩落した街の中で、彼らが行った魂の救済としての音楽を……。言葉にすることはできない。言葉にしてしまうと、そこに含まれる大切な意味合いが抜け落ちてしまいそうになるんだ。救済。いや、まさしくそうだとも言えるし、心の琴線が震え、世界と共鳴したかのような……やれやれ、どうしてこんな言葉しか出てこないんだろうな。どうしてあのときの感情を言い表すたったの一言が存在し得ないのだろう? あれを聴かなければ、私は永遠に魂の暗黒に引き摺りこまれたままだった。だからこそ、私は……」学者は覚束ない視線をスグルに戻した。
「それを聴いてしまった後では、君のそれは音楽に対する冒涜のように聞こえる。君の音には敬虔な祈りも慈しみもない。君のそれは……歴史の否定だ。攻撃的で、音の響きがあまりに歪だ。音楽の神性をけたたましく潰してしまう」
「要するに、あんたは着飾った奴らのお淑やかな演奏が好みなんだろう」
学者はまるで初めて俺の存在に気がついたように目を丸くした。まるで置物が喋っているように見えていたのかもしれない。
「正しい奴らの正しい行いとしての音楽が」
学者はまるで眠ったように見えた。しかし、やがて首を横に振って言った。「どのみち、それはこの世界には馴染まんさ」
スグルはかなり物々しい空気に沈み返っていた。まったく仰々しいくらいの静けさだった。おかげで学者が去った後でも妙にちぐはぐとした緊張感が残った。
「あんなの、気にする必要ないですよ」とウェイターが言った。
「ね、ノモさん」
ノモスは店じまいをすでに終えていた。どれもが置かれるべき場所に滞りなく整理され、申し分なく磨き抜かれていた。これこそ魔法めいた整頓術だった。染み一つ、憂い一つ残さない。ただ人の存在が残した残滓だけが、行き場をなくしてうろうろとしていた。
スグルはか弱い笑みを帰路まで続けていたが、宿屋の扉のガタつきに俺が苦労しているところで不意に言った。
「あの人は音楽に救われたことがあるんだね」
ガタつきじゃない。オーナーはとっくに鍵を閉めていたのだ。門限もない代わりに救いもない。
「弱っていたところに優しくされたんで、コロッといっただけだろ」
「それでもさ。羨ましいくらいだ。僕にはそんな経験がないからね」
「お前がか?」
「意外かい?」
夜更けの静まりかえった時間に、わざとらしくガタガタと扉を言わせてみたものの返事はなかった。誰も文句すら言わなかったし、どんな物音すらも呑み込むような沈黙だった。俺たちの発した音や声も無に帰してしまうような夜だ。俺もそこまで意固地になれなかった。何故かそれだけのことでぐったり疲れてしまい、もうどうにでもなればいいという気分だった。ありがたいことにそこまで寒くもなかった。魂が静寂に屈する時間帯というものがあるのだ。
「お前たちにはそういう原体験があるもんだと思っていたよ」
「そんなものはないさ」
彼は俺と同じように背中を壁につけて座り込んだ。
「そんなものはない。僕は手癖で上手いこと誤魔化してやっているだけさ。あんなことはもう絶対にやらないと誓っていたはずなんだけど」
「生前の話か?」
「生前の話だよ」と言って、彼は笑った。
「ねぇ、自らの誓いを守らない人間のことを弱い人間って言うのかな?」
「なんだ、それは? ……まぁ、そういう考えもあるだろうな」
「きっとそんな人間はこの世界では生きられないんだろうね」
路地に吹き込む夜の空気は頼りなく、家々の屋根が切り取る夜空の世界は狭苦しかった。彼はトランペットを取り出して構えたが、それを鳴らすことはなくだらりと腕を下げた。「このシビアな世界ではさ」
俺は彼の間違いを訂正することもできたし、差し障りのない返事で慰めてやることもできた。だがどれも適当ではない気がして、結局のところは夜のしじまに唾を吐きかけてやることしかできなかった。まったく眠くはなかった。寝る気もなかった。目が開いている限り、俺とスグルが明日を迎えることはない。平等に与えられるのは夜のこの静けさだけで、日差しの記憶はとうの昔に捨ててきてしまったかのように思えた。
俺たちを起こしたのは宿のオーナーでも近所の悪ガキでもなかった。目の前にいたスケルッツのウェイターは呆れたような顔で俺たちを見下ろしていた。
「直してもらいたいものがあるんだけど」
スグルはまだ眠りから目覚めてはいなかった。たとえ目の前の楽器がスグルのものと同類であることを感じ取っていたとしても、俺は彼をすぐに起こす気にはならなかった。
「こんなところに男二人で住んでいるの? 気持ち悪いわね」
ウェイターは部屋に入るやいなやそう言った。まず間違いない。何を隠そう俺が一番そう思っているのだから。
獣皮のジャケットは背丈に似合わず重厚感があり、触れずともその上質さを物語っていた。くびれを包み、やけに目立ったリング状のベルトを腰に巻いている。黒のハーフ・パンツにロングブーツ。カウボーイ・スタイルのシルクハットは頭の後ろに回し、そんな格好に似つかない長剣を差していた。ろくに面識のない男の部屋に上がり込むには適した格好ともいえる。
「まさかあなたたち、そういう関係じゃないでしょうね」
「俺たちが別れるには圧倒的に路銭が足りないのさ。あんたがこの状況を打破してくれればいいんだが」
「私にそれほどの力があるとは思えないけど、店の看板娘がいきなり演奏側に回ったらお客さんは面白がるでしょうね」
「一過性で終わらなければいいんだが」
「あなたって一々皮肉めいたことを言わなくちゃ気が済まないのね。想像していたとおりだわ」
俺はベッドの上で仰向けになった。どっぷりと澱んだ黒い液体が身体中から絞り出されていくような疲労だった。
スグルも同じように瞼を重くしていたが、俺よりは数倍真面目に事を捉えているらしい。「顔を洗ってくるよ」洗面所に向かう足音が、夢の中で響く太鼓の音のように遠のいていく。
ウェイターは足置きに腰を下ろし、興味深そうに辺りを見回した。何もない。雨風を凌ぐだけが売りで、壁と天井がついていることに感謝しなければ罰が当たってしまうと思わなければならない。石造りの壁は冷え冷えとして敵意剥き出し。上階の客に罪はなくとも天井はよく唸った。コンクリートの床に、いまにも悲鳴を上げてバラバラになりそうなベッドが二組。ゴワゴワとした寝心地に、もはや野営の星が恋しくなった。花瓶一つ置こうという気配りがどこの誰にもないおかげでありのままの寒々しさを保っている。圧迫感はなかなかのもので、自分という存在を思い上がらせないようにするにはうってつけの部屋だった。ぜひとも国王のおこぼれにあずかる貴族連中を招待したいものだ。
「ねぇ、あなたは何をしている人なの?」
俺はウェイターの問いかけを上手く認識できず、首を傾けた。
ウェイターはベッドのわきにしゃがみ、寝そべっている人畜無害な獣を観察するかのように頬に手をやっていた。真っ正面からこちらを覗き込む瞳は、逃れようのないほどの潤いに満ち、薄暗い視界の光源と代わっている。
「なんだって?」
「なんだかあなたの顔を初めて見たような気がする」
「いつもは変装しているんだよ。仮面をつけていたことに気がつかなかったか?」
「気にくわない言い方が板についていること」
「俺のせいじゃない」
彼女は呆れたように目を離したが、ほかに興味を引くものはなかったらしい。
「あなたってマスターとどういう関係なの?」
「何度か殺されかけたことがあるよ」
「マスターは正義の人だからね」と、くすくす笑った。
「で、本当は?」
「別に嘘は言っていない。ただ、もちろん敵対しているわけじゃない。彼は俺の中に許しがたいものを見出しているんだろうが、俺も彼のすべてを気に入っているわけじゃない。俺がこの街に住んでいたとき、実は何度かスケルッツの酒場に立ち寄ったことがあるというだけなんだ。それだけの関係で愛憎入り交じるところまではいかないだろう」
「それでも、ただの客というわけじゃないんでしょう?」
「彼にとってはそうなんだろう。でなければ、出会い頭にナイフを投げつけられたりはしない」
「いったい何をしでかしたのよ」
「それは僕も気になっていたんだ」
洗面所から戻ってきたスグルはいくぶんすっきりとした顔になっていた。時間をかけて剃ったのだろう。顎裏には若干血が滲んでいた。
「なにしろ、この街の住民はマルスに例外なく恨みを抱いているようだったからね。街に入ってすぐ、かなりひどい罵声を浴びせられたよ」
「スケールの大きいこと」
天井に向き直ると、余計に頭がふらついた。
「昨夜はろくに眠れなかった。招かれざる客のせいで」
「まったく、どこに行ってもああいう人はいるものなのね」
俺たちは自然とその言葉の続きを待っていた。彼女はとても良い性格らしく、もったいぶって立ち上がった。このうらぶれた宿屋では、彼女の存在はかなり奇異に浮く。カチャカチャと鳴るベルト、コツコツと存在を主張するブーツの足音。彼女が予想できなかったのは、我々が度を超して暇だったということだ。彼女は観客の質の低さに呆れるように溜め息をついた。
「さて、どこから話せばいいのかしら」と、彼女はむしろ挑むように言った。
「それは――」
「まずは君のことを教えてくれないか」
俺はスグルのペースに合わせた。
「ユウカよ。ただのユウカ。確かに長々と一から事の顛末を語るわけにはいかないわね。寝不足の観客を前にしているのならなおさら。この世界に来たのは大体半年くらい前だったかな。あるいは、命日といった方がいいのかもしれないけど。色んなことが衝撃的すぎて、いまもこれは死後に見ている夢の一部なんじゃないかと思うことがあるわ。でも、それならそれでいいかって適応しちゃってる。というか、楽しんでいるわね。普段はハンターとして活動しているの」
「ハンター? ウェイターじゃないのか?」
彼女はにやりと笑って勢いよく剣を抜いた。
瞬間、スグルは反射的に手の平を前にやった。烈火のような発光。俺は別の意味で驚いていた。「半年だって?」彼女の周りに顕現した印は、国王が認めた少数精鋭のハンターであることの証だった。
まるで炎の精が窮屈な籠から解き放たれたかのようだった。あるいは、それは彼女の迸る生気が表出したような紅であり、絶えずはためくヴェールを新たに身に纏ったかのようだった。彼女の周りの温度は確実に一度か二度上昇し、空気の流れも変わっていた。本物の炎に見紛うほどに鮮明で、空気中の淀みを絶やし尽くすような熱気を帯びていた。
「これは……なんだろう。これも魔法の一種なのかい?」
「国王から直伝に付与される証なんだ。誓紋と呼ばれている」と、俺は言った。「と言っても、誓紋にも濃淡があってね。ハンターと認められている者でも、半人前は半人前らしい誓紋しか顕現しないんだが……。やれやれ、どうしてウェイターなんかやっているんだ?」
「それって職業差別? 私はこっちに来てからは自分の好きなことしかやっていないわよ」
彼女が剣を振り上げれば、紅のヴェールも号令を掛けられたかのように素早く追随した。どうやら並外れた能力らしい。誓紋が彼女のペットになることを喜んでいるみたいだ。
「どういう仕組みなんだい?」
「魔法なんだから種も仕掛けもないわよ」と、彼女がおかしそうに言った。
「もっと言えば意味もないわね」
「意味ならあるさ。国王に認定されたハンターとしての自負や矜持を促し、その責務を強く自覚させること。派手な見世物のおかげで、誰が見てもお前たちが頼れるハンターであることが丸わかりだ。逆に言えば、お前たちに逃げ道はなくなるわけだが。魔物の大群が押し寄せたとき、こぞって戦える者から逃げていった過去を持つこの国らしい。ハンターは名誉職になったんだよ。国王が全ハンターに通達を飛ばせば、剣を抜かなくても強制的に誓紋が顕現するぞ」
「へぇ、そんな意味があったのね」
「説明は受けたはずだぞ」
「そんなの一々聞いてないわよ。メッセージスキップしていたようなものだったし」
「メッセージスキップ?」
「ハンターといえば自由と冒険の体現者でしょ? 責務だの名誉だのは衛兵に任せなさいよ」
「衛兵が守るのは国で、ハンターが守るのは人だ。そこには大きな違いがある」
「ふぅん」と、彼女は気のなさそうに相槌を打った。「まぁ、人助けなんて言われなくたってやるけどね。ハンターだろうがウェイターだろうが関係なく」
この世にいる人間が、そう断言できる者だけならいいのだが。彼女が長剣をしまうと、誓紋も煙のように消えた。
「なにしろ、前世では人助けなんて善行が頭に浮かびもしない境遇にいたんだから」
さて、これからようやく身の上話になろうかというときだったのだが、完全に眠気が限界を迎えて意識が途切れてしまった。目が覚めたときには(そんな意識はもちろんなかったのだが)、追憶の段階は当に過ぎ、かなり打ち解けた談笑へと移り変わっていた。彼女の笑い声は高く響いた。気さくな調子でスグルが軽々と冗談を打って返す。少し前までお互いに第三者の顔をしていたことが上手く呑み込めないほどだ。
「あぁ、目が覚めたかい?」と、スグルは笑顔を引っ込めぬまま言った。
「驚いたよ。どうも僕らの会話には噛み合わないものがあるなと思っていたんだけど、なんと僕たちは違う時代からこの世界に呼ばれていたらしいよ」
「同じ世界の異なる時代と異なる国」
「そう。国も違っていたんだ。これがどういうことかわかる?」
「なんだろうな」と、俺はあくびをかみ殺した。「戦争はまだ終わっていないってことか?」
「言葉だよ。言語の壁がないんだ。これはこの世界の人たちの言語についてもそうなんだ。僕らはここに来たときからすでに君たちの言葉を聞き取れるようになっていたんだよ」
「なんていうか……わかるのよ。直感的に。私自身は別の言葉を喋っているという感覚はないんだけど」
「そりゃ良かった。おかげで罵詈雑言も響くわけだ」
「きっとこの世界にはバベルの塔がないんだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「神様みたいに魔法を使える人たちがいるんだもの。わざわざ天まで届く建造物を建てる必要がなかったのよ」
「だってよ、神様」と、俺はスグルに向かっていった。「やめてくれよ、天使様」彼女の顔を見て後悔した。おっさん二人が戯れるほど気色悪いものはない。
スグルが咳払いして言った。「気になっていたんだけど、君には何かないのかい? ……特別な力が」
彼女はまたもったいぶった笑い方をした。「どうしてそう思うの?」
「なんとなくね。そういう仕組みなんじゃないかと思っただけだよ」
「あなたはよく仕組みを気にするのね」
彼女は壁際まで距離を取り、足置きに向かって腕を伸ばした。「少し離れていた方がいいかもしれないわね」あまりに軽々しくさりげない忠告だったために、俺はベッドの上から退ける気もなく彼女の所作を眺めていた。知らないわよ、というように彼女はかぶりを振り、「バン」と悪戯を仕掛けるように発声した。
唐突な破裂音とともに何かが飛び散った。あるいは、それは俺の心臓だったのかもしれない。四方に散った破片が俺の頭を掠め、すぐさま飛び退くことになった。子どものようにはしゃいだ彼女の笑い声が、その爆音とセットになって結びついた。
「爆発魔法ってやつ? が使えるのよ」
「使えるのよ、じゃないが」
気の毒な標的になったのは足置き君だった。まったく浮かばれない生涯だったことだろう。木っ端微塵の成れの果てと化して跡形もなくなってしまうと、あれはあれでなくてはならないものだったように思わされるから不思議だ。
もっと憐れだったのは俺のベットだった。巻き沿いをくらったらしく、情けない軋みの一泣きを最後に脆くも崩れ落ちた。
「あらら、範囲を限定させるのが難しいのよね、これ」
そんなもの部屋の中で使わないで欲しい。
「なんというか……君は根っからの戦闘民族みたいだね」
「人をサイヤジンみたいに言うのやめてよ。選択肢の中から選んで得たわけじゃないんだから」
スグルは染みついた習慣のごとく破片を拾い集めていた。前世は音楽家というより、王族お抱えの掃除人だったんじゃないだろうか。
「……でもそうね、前の人生の経験や思想によってこの世界で得られる能力が決定されるのなら心当たりはあるわ。なぜならあの頃は、すべてのことに嫌気が差していて手当たり次第に何もかも破壊してしまいたいって思っていたんだから」
彼女はスグルと同じように破片を拾った。
「その点、あなたの能力って素敵よね。紛れもなく善にある能力だもの」
スグルは意外そうに目を丸めた。
「まったくパッとしない能力だよ。魔物に襲われたって僕には何もできやしない」
「そんなことないわよ。みんなから必要とされる能力だわ。現にあなたはこの街のちょっとした有名人になっているのよ。衛兵やハンターなんかより、よっぽど誰かの役に立っているじゃない」
「……そうだろうか」
俺は邪魔にならないように部屋の隅に散っていた破片を拾った。
「ねぇ、あなたはこの世界に来てから何かと戦ったことはないの?」
スグルは俺の方をちらりと見たが、俺も破片を拾うのに興が乗ってきたところだった。「ないよ」
「もしかしたら、あなたも強いかもしれないわよ」
「僕が? あるわけないさ」
「わからないじゃない。きっと異世界から来た人間はステータスが優遇されているのよ。じゃないと、重度のインドアだった私がハンターになんてなれるわけないんだから」
「試してみるのもいいかもね。そんな機会があれば、だけど」と、彼は立ち上がって腰を叩いた。
「それにしても君の考え方はとても面白いよ。時々よくわからない言葉も出てくるけど」
俺たちは長い時間をかけて一カ所に破片を集めた。
「こういうのをマッチポンプって言うのよ。知ってる?」
「あんなことやらなきゃ良かったってことか?」
「大体合ってる」
スグルが意識を集中させると、微少な光の粒が発現し始めた。その瞬間にはどうも無意識に黙ってしまうものだ。仄かに、やがて彼の掌に満ちていく光彩。
「まるでお祈りみたいね」
「神よ、行き過ぎたデモンストレーションを許し給え」
「……綺麗ね」
頬に差した赤みは隠しようがなかった。スグルは表情を取り繕って立ち上がったが、どうしようもなく気恥ずかしい沈黙に俺までむず痒くなった。
「さて、その調子であれも直さなくていいのか?」
二人は初めてそのことに気がついたように、ユウカが持ってきたヴァイオリンに目をやった。
ユウカの演奏には華があった。剣を持つ彼女が炎だとすれば、楽器を奏でる彼女は春風だった。彼女は自己紹介代わりに短い曲をさっとやった。注目を惹き付けるには十分な一幕だった。
俺がその楽器を最後に見たのは三年前だ。神聖な気分をかさ増しするには適した楽器で、王家のイベント事には必ず多くの弾き手が声を掛けられる。上手く弾ければ、確かに上品で艶やかな音色だ。着飾る連中の中には必ず一定数の熱心な愛聴者がつく。どれだけ神に裏切られても国は神を崇め、賛美するのをやめないのだ。この国にも讃楽隊なるものはまだ存在する。
しかし、彼女の演奏はそれとはまったく種を異にするものだった。カツカツ、とブーツの靴底が床を叩く。右に左に身体が揺れ、見え隠れする黒髪が荒れ狂う。荒波にもまれているかのような挙動はおよそ祈りを捧げるには向いていない。見ず知らずの楽器を演奏されているみたいだ。だが、誰よりも真摯だった。何よりも熱情的だった。高く、流麗になびき、去っていく音色に余香が漂う。それを追いかけ、手放し、新たなアイデアに生まれ変わる……。どれだけ音が迸ろうとも、絶対的な気品が消えないのは楽器の由縁か、彼女が培った技術なのか。それと実直に向き合ってきたのであろう彼女の核を、俺はいま目の当たりにしていた。
影響を受けているのは観客だけではなかった。迎合するスグルの音色にもそれが現れている。
「あいつらがやっていることがようやっと理解できた気がするよ。要はあいつらは生きているってことなんだ。いかんともしがたく死んだ過去があってもなお」
彼らのスピードは加速し続けていた。あまりに速くなりすぎて、まるで窒息してしまいそうだった。そこには確かにアンバランスなものがあった。音域の高い二つの楽器が、ハイスピードで音色を入れ替わり立ち替わりしているのだ。耳も疲れてくる。しかし、そこには何か聴き逃せないものがある。いまここで何かが生まれ出でようとする熱。それを止めることは誰にもできなかった。大きな影響力があると知りながら、いままで固い殻に閉ざされて窺い知ることのできなかったその中身が、いままさに溶解し、放出する――そして、生まれ続けているものを俺たちは聴いていた。耳を塞ぐことはできなかった。理解より先に血肉の脈動を感じた。
スグルの目は血走っていた。頬が上気し、不可解なほどの力強さでトランペットを吹き鳴らし続けている。それはユウカも同じだった。彼らの経験や記憶や、培った技術が共鳴し、昇華され、否応なしに爆発していた。
カウンターに置いた手が張りついている。照明がやけに眩しく、滲むと一際光が増した。
演奏が終わっても誰も言葉を継げなかった。汗を振りまく彼らも何も言わなかったし、言葉を受けつけない静寂が降りていた。こんなときこそ俺の出番のはずだった。何か、何か……。ぼんやりとした思考を晴らしたのは、誰かが鳴らした音だった。
ノモスだった。ノモスが拍手をしていた。それにつられるように観客からまばらな拍手が鳴り、それらがようやく賞賛だとわかるほどに大きくなると、二人はようやく肩の荷が下りたように微笑んだ。俺は一番ドベで流れに乗り、拍手を送った。
「ありがとうございます」と、ユウカがヴァイオリンを片手に深くお辞儀をした。
「これは私たちの国ではジャズと呼ばれていました。といっても、この演奏方法がどう呼ばれているのかなんてことはどうだっていいことなんだと思います。あなたたちに何かが響いたということが、私たちにとっては何よりも喜ばしいことです」
彼女はシルクハットを外して壇上に置いた。それだけで彼女の印象は大きく変わった。大人しく、淑やかな眼光まで垣間見えた。
「正直に言って、私はもう音楽から離れたいと思っていました。この世界に来て真っ先に思いついたことは、音楽を捨てることでした。自由に生きること。この世界では、それができる土壌が整っていました。五体満足で、特殊な能力を持ち、私は強かった。世界には見たことのないものが溢れていて、あらゆる不思議とワクワクにたくさんで出会うことができた。もう二度とヴァイオリンを持つことはないだろうとさえ思っていました――」
俺は久方ぶりに馴染みの酒を注文した。「勝つことが決まっている勝負を眺めているのは気持ちが楽でいいね。どれだけ飲んでも罪悪感がない」
ノモスは何も言わなかった。俺は構わずに続けた。
「勝因は何といってもあの子だ。いったいどこで拾ってきたんだ?」
「演奏中は喋らないんじゃなかったのか?」ノモスはこちらを見ずに言った。「気にくわない客だとぼやいていたはずだが」
「演奏の邪魔をする人間のことだよ。この前の学者みたいにな。密かに与太話をするくらいは何でもないだろう」
いつもの俺なら降りていたはずだ。無駄だとわかっていながら、二の句三の句を継ごうとあれこれ頭の中で考えたりはしない。ただどういったわけか、俺はこの場の沈黙を拒絶したがっていた。
「情が移るのはわかる。あんたもそろもろ引退してもいい頃合いだもんな」
ノモスは何も答えなかった。
「あんたにとっちゃ娘みたいなものなんだろうか。ユウカがバカ強いのも頷けるよ」
彼女らの自分語りが終わっていた。置物に話しかけるくらいなら聞いておけば良かったと思った。
先ほどとはまったく趣が異なる演奏だ。スムーズで、落ち着きがあり、長くゆったりとした旋律をなびかせている。俺はなんなら目を瞑ったりしてみようかとした矢先、思わず腰が浮いた。
唄だ。ただ、それは讃楽隊が口を揃えるコーラスとは全然違う。もっと自由で、気負いなく、柔らかな唄だった。
観客の目の色が変わった。俺たちは一発でそれを受け入れてしまったのだ。その空気の揺らぎを心地の良いものとして体感し、受容していた。
俺は我慢できずに手近のボトルから酒を注いだ。「お前はとっととこの街を出た方がいい」だが、こんな気分のときには得てして水を差す輩がいるものだ。
「やれやれ、いま言わなきゃいけないことか? 愛娘のステージを楽しめよ」
「そのままここに腰を落ち着かれたら困るんだよ」
彼は口を潜めたりはしなかったが、俺たちの会話を盗み聞いているやつなどはいなかった。
「どのみち、長くはここにいられないことはわかっていたんだろう」
「いまじゃなくたっていいはずだろう」
「早く見切りをつけろ」と、ノモスは命令するように言った。
「一生その薄汚いフードを被り続けるつもりなのか?」
俺は演奏に意識を集中させようとしたが無理だった。「小言はせめて酒を飲み干してからにしてほしかったね」
「いまも昔も、俺はお前の味方じゃない」と、ノモスは口にした。
「お前がそれを求めていたのだとしても、俺は酔いを許せる場を提供していただけだ。ここはお前の家じゃないし、俺はお前の家族でもない。お前に対する意見は他の奴らと何も変わらない。この街を去っていった人間の名簿にお前の名前を見つけ、こいつにだっていいところはあったんだと、感傷的な奴らに向けて言ってやることはできる。お前が何がしかの証を求めているんだったらな。だが、お前がこの街に留まっている以上はそれもできない。いまとなっては、お前に酒を出す義理もなくなってしまったんだよ」
「お代はこれで良かったかな」と、俺は席を立った。
「先月から値上がりしたよ」
「あいつらの演奏で十分元は取れるだろう」俺はそのまま店を出た。音楽はするりと扉の隙間を抜け、やがて信じがたいほどに遠くなった。
街の中心区はまだ賑わいを残していた。いまから勝負服を新調するには遅いが、宿屋を予約する余地はまだ残されている。ディナーを取り囲む両者は取り澄まし、頭の中で夜の算段を立てていることだろう。
ハンター協会はひと月の帳簿を整理するのに追われていた。稼ぎを終えたものたちは掲示板に集い、情報を交換し合っている。明るい話題はなさそうだ。どれも深刻な顔で、討伐依頼の増えた掲示板を睨んでいる。そうすることで少しでもこの状況から脱出できる糸口を見出そうとしているみたいに。
香水と汗の匂い。気をよくした者のリズム、酩酊を迎えるリズム、重荷を下ろそうと急いて酒をあおっているもののリズム。あらゆる人種が中心街に集っていた。肌の色も、身なりも、目的もかなり雑多だ。夜を望むテラス席は満杯で、誰もがその日のパートナーと思い思いの時間を過ごしている。高笑いも、嬌笑も、嘲笑も、哄笑も一緒くたになり、抽象的な雑音の中に取り込まれる。そこにいるはずの人々の存在は遙か彼方に追いやられ区別などつかなくなる。こいつらも俺の顔など見分けられないように。
なんとなく魔道具店のショーケースを眺めていると、店主が話しかけてきた。
「あなた様はハンターを生業としている方では?」
「どうしてそう思う?」
「いえいえ、ただの当てずっぽうでして。ただ、身のこなしが他の方々と違うような気がしましてね」
何も答えないでいると、店主はそのまま続けた。
「どうです? こうした魔道具はここ王都でしか手に入らないものばかりなんですよ。どれだけ職人が精魂込めたデザインを施しても、実際に魔力を注入できるのは王族の方々のみですからね」
店主は飾られていた長銃を持ってきた。
「例えばこれは見た目こそ衛兵の方々が持っているものと似たようなものですが……」持ち手の部分がカートリッジ式に回った。色分けされた四段式となっており、彼はその内の一つに合わせて底の部分を押し上げると、カチャリ、何かがはまったような音がして引き金のロックが外された。
「撃ってみますか?」
「ここでか?」
「もちろん、人には向けないようにお願いします」
頭上に向かって引き金を引くと、赤い放物線が夜空に放たれた。柔らかくなだらかな放物線だった。赤みを帯びたその放物線は目一杯距離を伸ばして潰えたかと思うと、一瞬の沈黙の後、一斉に花開いた。光の粒が撒かれた後に出てきたのは翼を広げた二匹の獣だった。本物ではない。光の粒に象られた幻影の獣。その獣は宝石をばらまくようにして光の翼を優雅に旋回させ、遠くの空に消えていった。野次馬の歓声が鳴り、店主が代わりに引き受けて手を上げた。
「これは余興用ですがね」と、彼はこちらに振り返り言った。
「ほかのものはかなり実戦用のものですよ。同じように気軽にここで扱えば死罪は免れません。どうです? ほかは現場で試してみるというのは。しばらくの間お貸しすることもできますよ」
「あんたに向けて撃ってもいいのなら考えないこともない」
彼は一瞬ぽかんとした顔をし、大口を開けて笑った。
夜の闇が足りない。
裏通りに足を踏み入れたのは初めてのことだった。中心街を外れればどこにでもみすぼらしい住家の一つや二つに行き当たることはあるが、ことバーンスタイン通りでは少し格が違う。人相の悪い吹き溜まり、袋小路な不平と不満と不平等、どうにも拭いがたい掃き溜めのような匂い。それらがこの通りの脊髄であり、空気の要素になっているものだった。抗いがたい行き止まり感。王都の負の部分を一手に引き受けたような場所だ。といっても、大量の移民を受け入れて復興を果たした街だ。その頃から少なくない数の不穏分子も紛れ込んでいたのだろう。
売人がこちらを値踏みし、薄着の娼婦は客の葉巻に慰めを見出し、ボロ布で明日を迎えなければならない老人たちはこれ以上の不運に呼ばれぬように夜の隅っこでうずくまっている。俺は幾度も回り道をしなければならなかった。ことあるごとに鬱屈した暴力のリズムを鳴らす連中に出くわしたから。沸き立つ悪意や、不健全な情欲の匂いを嗅ぎ取れたから。
だが、俺は帰路を拒絶し、よりによって競売所に足を踏み入れることになった。看板も何もない無骨な外観からは、むしろ工場や倉庫のように見える。入館してすぐに黒服の男二人に止められた。他人を威圧するにはもってこいの男たちだ。彼らは赤子の手をひねるようにフードを取り外しにかかったが、ポケットから銀蓋付きの時計を取り出すと態度は豹変した。疑念や畏敬、保留の眼差しが二人の間を行き交う。俺は何も言わなかったし、彼らの仕事ぶりを労うこともしなかった。彼らもまた、口を噤んで銀時計を返した。待合室にいた人々は無遠慮に俺のことを見ていたが、歯牙にかける価値もないと思ったらしい。すぐに自分たちの関心に目を戻した。
地下は煙っぽく白かった。こもっている熱気は人の不快感を催す類の、他者の欲が混じる温度だった。それらを生み出している人々がたくさんいる。みなどれも装飾品をふんだんに使い、金回りの良さを醸し出していた。下卑た笑顔も見下した視線もくらったが、まぁ結局のところ俺も同類ということなのだろう。でなければ、公務でもなしにこんな場所に出入りしない。
売りには少女が出されていた。いや、少女というにはあまりに顔の輪郭が崩れ、人ならざる歪な光を目に宿している。皮膚は青く、頭身が噛み合っていない。骨格は似ていても、その比率がおそろしく異なっている。腕は不気味に長く左右の対象を外れ、裸身には凹凸がなくひどく平らだった。変形した指。爪は剥離し、薄く開いたままの口には歯がない。振りかけられた芳香とは別の匂いが混じっていた。
「魔物と人間のハーフだ」と、誰かが興奮気味に言った。
「ねぇ、ああいうの、見たことある?」
どうやら俺に言っているらしかったが、俺はその男の顔を見たくなかった。
「すごいよ、あれだけ人の形が中心になっているのは珍しい」
「買うのか?」
「とても手が出ないよ」男は猫なで声で言った。
「でも、すごい。見られただけでも良かった。ねぇ、この世には獣と魔物と人しかいない。それが種族のすべてなんだよ。その中にも色々分類があるけどね。でも、その境界を越えられるのは魔物だけなんだ。獣は獣としかセックスしないし、人は人としかセックスしようとしない。でも、魔物は違う。魔物は獣でも人でも関係ない。すべてを喰らい、蹂躙することを使命として動いているんだ」
「何が面白いんだ?」
「彼らこそ絶対的な支配者だと思わないかい? この世の頂点にあるのは魔物の方なんだ。人はシステムを作るのが上手い。徒党を組み、協調性を前提に法律を作り、それを統治することでこの世を秩序立てようとしている。でも、でもね、いまにそれは崩壊すると思うんだ。彼らの圧倒的な力、力の前ではそんな小細工は無意味なんだよ。あれ、あの子を見ていると、僕はすごくそう思うんだ」
「だが、馬鹿なやつらだよ」
少女の目がじっとこちらに注がれていた。恐ろしいほど微動だにしない眼だった。瞬くもなく、瞼も動かず、空虚で底の見えない一対の眼球が、釘で刺されたように固定されている。そこには俺がいる。その目の中に俺が映っている……。
俺は競売所を抜けた。強い吐き気がしたが、俺に憤る道理はなかった。
バーンスタイン通りを抜け、表に出た。街の景色が落ち着いて見えるようになるまではしばらく歩かなければならなかった。ひどく疲れていたが、なぜかまだ帰る気にはなれなかった。
あの店ではまだスグルとユウカが演奏しているのだろうか。
新しく建てられた教会前で、店じまいをしている修道女と目があった。彼女はとても弱々しく微笑みかけていた。とてもじゃないが目を合わせていられなかった。
徘徊しているうちに城門の前にいた。ユークリウスの顔とも呼ぶべき王の居城は、暗夜においていくぶん威圧的に浮かび上がる。前面に突き出たバルコニーと、沈黙を示すように閉められた大きな窓ガラス。白を基調とした堅牢な石造りの様式は月明かりに染まり、化物が大口を開くような影を伸ばしている。使用人部屋の小窓からはいくつか明かりが漏れ出していた。まともな統制力を働かすには睡眠と奴隷が絶対条件だ。国王が規則正しく生活を整えてこそ、腰を曲げて働く者たちにもっと働けと命じることができる。
左右対称に設置された花壇。夜風に微かに吹かれる花々は静寂に寄り添うように自分たちのリズムで揺られていた。リズム。そうだ、ここにもリズムはある。前庭の中央に設置された噴水はひっそりと口を閉じていたが、その気になれば路銀を噴出させることもできるはずだ。彼らがそれを高尚な趣味だと思えばの話だが。
城門は特殊な鍵で閉じられている。鍵をかけた本人の首根っこを掴まえて連れだし、目の前で解除の魔法を唱えさえなければ解錠できないタイプの鍵だ。城を取り囲む塀の高さはそれこそ魔法でも使わなければよじ登れない。俺は裏手に回った。見回りをしている衛兵とすれ違い、俺は思わずフードに触って確認した。
俺は何をしようとしているんだ? 裏手に回ってもただ城を取り囲む塀が続いているだけのように見える。ただ一カ所だけ小さな窪みがあっても、誰もそれが出入り口になっているとは思えない。
深紅のちらつく夜だった。頭の中ではずっとスグルとユウカが創り上げた音楽が流れていた。まるで風の音みたいにずっとそこで鳴り続けている。それは俺の意識の奥深くに引っ込んでいたものを絶えずノックし、鼓動の動きを早めていた。
俺は銀時計を取り出し、その窪みにはめた。カチャリと音がし、塀の一部に絵が描かれるようにして扉が現れる。多少力を必要とすることを除けば、普通の扉と変わらない。ピッキング技術のない不法侵入者にはありがたいくらいだ。
俺は自分の動機に理由をつけられないまま、使用人用の小口から中に入った。かなり慎重に扉を閉めたはずでも、僅かな物音がやけに大きく響いて聞こえる。息を潜め、目を凝らし、壁に手をやり、躊躇は足元に表れる。まるで自ら監獄にでも戻ってきたみたいだ。誰もが寝静まる夜半に、中途半端な感慨に釣られて他人の家に無断で立ち入る男。俺は記憶を頼りに進んだ。
漏れ出した明かりの一つは厨房だった。予測がついていたことではあるが、そこにいたのはファビアンだった。ここまでくると奴はもう病気なのだろう。彼が厨房にいなかったところを俺は見たことがない。一昼夜厨房に立ち続け、肥満な肉体をいかにも邪魔くさそうに引き摺りながら仕込みに格闘する。このような男は名誉やら報酬やらには関係なく、ただ永劫的に自分の能力を発揮できる場を求めているだけなのだろう。俺は物音を立てぬように注意を払ったが、口笛を吹いたとしても気づかれなかったかもしれない。
ありあまる応接室。空きの出た執務室。国王が変わったわりには中身はさほど変わっていない。趣味の悪い家紋が消え、高尚ぶった芸術品がいくらか外されたくらいだ。窓や部屋から漏れ出す明かりのおかげで、いくらか辺りを知ることはできた。絨毯が敷かれた螺旋の階段の、明かりが届かずに訪れる数段の闇。そこから二段、三段……また明かりが戻り、影が階下に引っ張られる。
「小悪党の匂いが消えないのね」
芯がありながらも、耳をくすぐるように響く扇情的な声音。思ったより驚かなかったのは、結局のところ俺自身がそれを望んでいたからなのかもしれない。
ロック家のご令嬢はいたく刺激的な姿だった。生地の透ける浅紅色の薄絹を一枚通しただけで、ほとんどその裸身をさらけ出している。胸の膨らみに応じて波を吹く薄絹が開いた小窓からの風で繊細なタッチを繰り返す。精細な彫刻品のようでありながら、その肉感は脳みそを直接コールする。引き締まった腰や、弓なりに流れる両脚や、目眩を起こしかねないくびれのライン。月色は浅紅を神秘的な装いに変えている。その肌の秘密が少し垣間見えるだけで言葉を失ってしまいそうだった。首筋には情事の跡が残り、微かな香りが漂っている。
それがユークリウスの王、セシル・ロックの姿だった。
「そんなところに突っ立ってないでこっちに来なさいよ」と、セシルが言った。「あなただって、こんなところに突っ立っていたって仕方ないでしょう」
俺は隣室に目をやった。いまは別の男があの上等な寝床を占有しているのだろう。弟か、まったく別の家系の男か。どのみち俺には知りようがない。
うすら翳る彼女の部屋はかなり危険な香りがした。同時に、たまらないほど夜の匂いが充満していた。俺は為す術もなく勃起した。ベッドに腰かけるセシルの方にしか目がいかなかった。
「遠慮なんていらないでしょうに」彼女が受け入れる素振りを見せるだけで、俺はあっけないほど頭が馬鹿になってしまいそうだった。
「あんたのような女が一国の王とはね。側近たちはさぞかし大変だろう」
「私のせいじゃないけどね」と、彼女はおかしそうに笑った。「あなたもそうだった?」
「強がりは言えない」
「あなたがここに寝てくれなくて残念だわ」彼女はベッドに半分だけ身を預けた。「少なくとも、その資格はあったのにね」
「お前は変わったな。いまでは人の上に立つのにいささかの躊躇もなくなったんだろう」
「誰のせいだと思っているの?」
彼女はむしろ面白がるように言った。
「あなたって本当に自分のことに責任が持てない甘ちゃんなのね」
音もなく片足を床に置き、彼女はすらりと立ち上がった。身構えようとしても、身体は強張ってまんじりとも動くことができなくなっていた。三日月型に上がる口角。頬にできたわずかな皺を、俺は見ていた。「あなたの子種が欲しいわ」耳元に彼女の存在があった。
俺の腕に添えられた両手は神経を弄ぶように手首まで下りてくる。幻想のように滑らかで、ひやりとした指先。名残惜しげに触れては離れ、絶望と歓喜を繰り返す。艶っぽい瞳。上目に捕らわれた小さな男。耳にかかった髪が一房落ち、何かを囁かんと小さな唇がわずかに開いたとき、俺はもう彼女の奴隷にならざるを得なかった。指を搦め捕られ、ベッドに導かれた。
「あなたがどれほどの人非人でも、純血には変わりないもの」
彼女は子どもをあやすように俺のマントを脱がせた。
「愛しい私の王子様。あなたはどうして逃げ出したのかしら?」
「器じゃなかったんだ」
「えぇえぇ、それは誰しもが認めるところだったわね。でも、少しは責務を感じないこともなかったんじゃなくて? いつからか、人が変わったように仕事するようになったじゃない」
彼女がベッドに仰向けになると、操られるように俺はその上に跨がった。不思議だ。あらかじめ決められたシナリオに従っているみたいだ。
「俺は変わろうとしたんだ」
「でも、変わらなかった。少しは騒ぎになったのよ。あのマルス家のご子息が見違えるくらい立派に働き出すんですもの。私も期待していたのよ、本当は。もしかしたらこのまま、何もかも上手くいくんじゃないかって――」
俺の頬を撫で、勇気づけるように微笑む彼女の奥底は、どこまでも暗く、深いところにあった。
「私は心底不安だったし、生まれを憎んでいた。犠牲になるためだけに美しくなくてはいけないこの肉体。あまりに分相応で身に余る重責。血を継いだ者としての運命が、人々の期待や、好奇の目が。私だってただ逃げたいだけだった。あのね、正直に言うと、あなたがどれほどの悪漢だろうが、暴君だろうがそれでも良かったの。――私が国王なんてものになるくらいなら。あなたがあのときだけでも側にいてくれたのなら、私の味方でいてくれたのなら、それだけであなたにすべてを捧げられたのに」
どこかで鐘が鳴るような音がした。あるいはそれは誰かの甲高い声のようでもあった。一瞬だけ、何かに怯える幼い彼女の顔に触れたような気がした。
「ねぇ、どうして逃げ出したの」
「純血じゃない」と、俺は言った。彼女の首がわずかに傾いた。
「俺の父親はどこぞの馬の骨ともわからぬ半グレ者でね。お前の言う種をそこら中にばらまいていた。腹から生まれたのは確かだが、母親の顔は知らない。そいつを豚小屋にぶち込んだ奴の話によれば、俺は首の骨を折られる寸前で小便を漏らしていたらしい」
「何の話をしているの?」
「俺は魔法が使えない。だから逃げた」
不意に頭の片隅で何かの映像がちらついた。取るに足らない、何かの場面ですらない映像。ただの風景、ただ目に映っていた眼前。しかし、それはずっと思い出せずにいた、かつて俺のものだった映像だ。いわゆる世界であり、証であり、記憶であるもの。
――切っ先。
突如眩いほどの光が発現した。銀色のはためきを纏う彼女はすでに扇情的な夜の女王ではなかった。百戦錬磨のハンターでも敵わない鮮烈な誓紋。民を選別し、死罪の宣告権を持つ一国の王の姿に変わっている。握られた剣先に飛び散った血液。俺の意識はまだその映像にあったが、鋭く裂けた皮膚と焼けるような熱がその執着を引き剥がした。俺は背中から転げ落ちていた。本能からか、ただの幸運だったのかはわからない。じくじくと痛む首を手で押さえると、生き物のようにぬめりとした血が指の間を這い寄った。俺はほとんど考えなしに走り出していた。
「あなたはこの街に戻ってくるべきじゃなかった。そうよね?」
粉々に砕ける窓ガラスの行列に俺の身体も加わっていた。首が、胴が、四肢がまだ繋がっていたことが信じられなかった。戸惑っている暇はなかった。振り向かなくともその斬撃を感じる。俺はテラスを飛び降り、負債を抱える身体に鞭を打って走るほかになかった。
やかましい警報が鳴る。起床と同時に罪人の首をはねても、目覚めの悪さを感じないように倫理観を調整された用心棒らが目覚めることだろう。マントはない。銀時計もない。オーケー、俺はそれらを元の場所に戻しに来たのだ。そういうことにしておこう。
俺は塀に向かって蹴りを入れた。確かに俺は魔法は使えない。しかし、可能性はないわけじゃない。ユウカが言っていたとおりだ。俺は城壁との距離を調整し、もう一度塀に蹴りを入れた。
銃弾が塀を撃ち抜いた頃には、俺は通りに出ていた。塀と城壁を飛び移りながら塀を越えたのだ。いっぱしのハンターのような着地とはいえなかったが、何とか頭は守り抜いた。世界が反転するような目眩がした。最悪の気分で膝を奮い立たせると、俺はまた走った。自分が走っているのか、ただふらついているだけなのか、死に向かっているのかもわからなかった。人の姿が見えると俺はとっさに血で顔を塗り、自分でもわけのわからない言葉をぶちまけながら走った。狂人のように。あるいは、狂人として。
意外なことにスケルッツにはまだ明かりが灯っていた。鍵はかかっていたが構いはしない。俺は扉を何度も叩き続けた。やがてノモスが扉を開け、俺は転がり込むようにして中に入った。
「やんごとなき事情というやつさ」
俺は血に塗れたシャツを指さしながら言った。
「長居はしない。ただ、ほんの少しでいいから俺の不運に付き合ってくれ」
ノモスは相も変わらずの無愛想を顔にはりつけていた。まるで煮ても焼いても味の出ない瀕死の獣が厨房の片隅でうずくまっているのを眺めているような目つきだった。俺は壁に寄って足を投げ出した。切りつけられた首の傷口はすでに塞がりかけている。ほんのあと数ミリ深く入っていたら頸動脈に達していただろう。
「義理はないと言ったはずだが」
「頼むよ」俺はなけなしの誠意を絞り出して言った。「ほかに行く当てもない。一晩だけでもいいんだ。迷惑はかけないよ」
ノモスは中立的な態度を崩さなかった。あるいは、意固地なのは俺の方だった。招かれざる客なのはわかっていたし、憐れみを乞う物乞いのような真似をしているのも俺自身だ。しかし、宿屋に戻ることはできなかった。真っ先にスグルから同情的な視線を向けられると思うと堪えられなかった。
ノモスはカウンターに引っ込み、俺に向かって布巾を投げて寄越した。
「何があったのか聞かないのか?」
ノモスは何も答えなかったが、喋るなとも言わなかった。
「王様にどつかれたのさ。参ったね。あんな女との逢瀬を毎日楽しめる身分にあったってのにさ。王の身分を放棄したことを初めて後悔したよ。猿になってりゃ良かったんだ。お飾りの王冠被って、猿みたいにただやってりゃあ良かったんだ」
店の中は静まりかえっていた。これだけドクドクと火傷するような熱が体内を巡っているのに、この目に映る世界のすべては冷え切って、まんまと俺を見放したように構えている。
喉元にあるものが干上がるまですべて出し尽くしたかったが、けったいな理性に阻まれていた。そこにあるのは自己憐憫の溜まりだったから。いくらなんでも、それが俺のすべてだとは思いたくなかった。
鉄の匂い。それが切りつけられた痛みを思い出させる。
「あんたも俺と同じイセカイジンなんだろう?」
返事はない。本当にここには俺一人しか存在していないみたいだ。
「散々なものだった。死んだと思ったらわけのわからない国の王として次の人生が始まっていた。しかもその王は私利私欲にしか目が行かない上に根が小心者で、能なしと名高い最低の王だった。傑作だったのは、転生の契機が暗殺だったってことだ。殺したはずの王様が生き返ったんだから、刺した奴はさぞ驚いたんだろうな。一目でわかった。側近中の側近だった。いまにして思えば解雇してやることもなかった。奴は正しいことをしていたんだからな」
俺はふらつきながらスツールに這い寄った。布巾を持つ手は震え、わけもないのにカウンターを何度も往復して拭いていた。
「なぁ、あんたもそうなんだろう? あんたと俺はきっと同じだと、一目見たときから勘づいていた。やはり生まれ変わった奴というのは他の奴らとは違う匂いがするもんなんだよ」
ノモスは感情の読み取れない目で俺を見下ろしていた。「なぁ、そうなんだろう?」俺はこの上なく情けない声を出していた。涙を意識したのは、それこそ前世まで遡らなければ記憶もない。
「あんたには何かできることはあるのか? 俺はようやくわかったんだ。というか、いまはっきりとわかった。俺は傷の治りが異常に早いんだ。どうだい? なんと羨むべき身体だと思わないかい? やはりこんなものは魔法とも何とも言えない。むしろ、俺はこの身体と引き替えに魔法が使えなくなったみたいなんだ。笑えるだろ? あんたはどうなんだよ? なぁ?」
ノモスは葉巻に火をつけた。この店に煙が立つのは初めてのことだった。
「あいつらの働きは目覚ましいものだったよ」
「あいつら?」
「おたくの連れとユウカのことさ」
「……あぁ」
「そのせいで閉店が長引いてしまった。だが、それに見合うくらいのステージだったよ。久し振りに気分が高揚した。純粋な心の震えなんてものを感じたのは、もしかしたら初めてだったのかもしれない」
我々の間を浮遊する煙がくねりとふらつき、音もなく消えていった。
「お前はどう思う? あいつらの演奏について」
「わかるかよ」俺は吐き捨てるように言っていた。「あんなもの俺にわかるわけないだろう」
俺はカウンターの上で拳を作り、硬く指先を握り締めていた。なぜノモスがこんな仕打ちをするのか、俺にはわからなかった。
しなびた静寂に煙を吐きつけ、ノモスは言った。
「確かに俺もお前と同じだ」
まるで初めからわかり切っていた事実を、歴史書の一文から拾い上げるようにノモスは言った。
「昔は軍に所属していてね、敵兵に頭を打ち抜かれて命を落としたんだ。いまとなっては人間同士で戦う戦争があったなんて信じられないけどね。記憶にある俺が本当の俺自身だったのかもよくわからなくなっている。別人になったいまだからこそ、そんなことを思うんだろうが。ここにいる俺は――ノモスという男が元々何をしていた人間なのか深くは知らない。ただ、残されていたものから、どうやら店を持つことが夢だったらしいということがわかった。だから俺はそいつの夢を継いでやることにしたのさ」
「その調子だ」と、俺は言った。「もっと喋ってくれていいんだぜ」
「これ以上は何もないさ。すべてを語りきるなんてことはできないし、そうする必要もない。ただ、俺はノモスという男の人生を継ぐことを受け入れただけなんだよ。別に俺だって望んでそうしたわけじゃない」
「一国の王と、酒屋の店主を同列に語るなよ」
「お前にはわからないさ」
ひどく不鮮明な映像が蘇った。きっと過去の映像だったが、それはすでに色を持たず、ひどくぼんやりとして濁っている。無理に思い出そうとするとさらに映像が滲んだ。
俺はもう過去を思い出せなくなっていた。不都合はなかったし、こちらにきてからの悲痛の方が切実だった。強烈に脳裏に刻まれるのは、この世界に来てから体験してきた物事でしかない。
それでも、俺はそこにいる不憫な男に声をかけたくなった。道ばたにくたばって息も絶え絶えになっている男に。まるでゴミでも見るような目をした人々の顔が過ぎていった。俺は助けを求めなかったし、誰も俺のことを助けようとしなかった。彼らの顔は汚れ、それらの住処も薄汚れた壁に囲まれ、空でさえ下水処理場のように濁っていた。そんな世界で一人、誰にも見留められず、誰にも気づかれることもなく、か弱く最後の息を漏らして死んでいった男に俺はなんて声をかければいい? 何と言ってやれれば救われたんだ?
「だったら逃げれば良かったんだ。もっと穏便に潔く退位する方法なんていくらでもあった。現にお前は逃げ出したじゃないか。王としての責務を放棄し、盗人に成り下がり、お前だけの人生を求めてこの街を出た。なぁ、だったら戻ってくるべきじゃなかったんだよ。誰がお前のことを許せる? 国を見捨てて自分本位に逃亡したお前のことを。戻ってくることになった理由さえ、お前の慰みより後回しなんだろう?」
口角を上げてみせることはもうできなかった。頬の筋肉がやけに重かった。
俺はただノモスの吐き出した煙を目で追っていた。それも潰えてしまうと、俺は何かを見つめていた。
ことりと、グラスが置かれた。水面にあの頃と同じ血まみれの男が映っている。
「せめてもの義理だ。望みもしない世界に呼ばれてしまった同士としての」
俺は手をつけなかった。布巾を横に置き、足を引き摺るようにして店を出ると、俺は再び街を出た。