皆はそれを、真実の愛という
「望み通りになったのでしょう?なにがご不満?」
しんとした室内には可憐な少女の声が響く。
かわいらしい、とも思えるその声はどこか冷たさを孕んでいる。
ここは、国内有数の貴族家の応接間だ。奥向きではなく対外的に必要な部屋なだけあり、慣れないものからすれば、椅子一つとってみても、その価値と価格を思い浮かべ座ることをためらいそうなものが置いてある。そこに当主と相対するように波打つ金の髪をそのまま垂らした少女が腰を据えていた。
その美しい少女の容貌は、当主とどこか似通り、血縁関係があるものと察せられる。
だが、そんな彼女は彼やその隣に座る夫人、そしてその反対側に座る跡継ぎに対する態度が非常に冷ややかだ。
「望みだなんて」
「あれだけこの国の慣習に背きながら、なにもおっしゃらないのですもの、アルバー卿もそのような考えをお持ちなのでしょう?でしたら、私がこういう結論をだすなど当然想像できそうなものでしょうに」
「そんな、他人行儀な……」
「ご安心ください、もうすでに籍は抜けております。正真正銘私はこの家門の人間ではありませんわ」
その言葉に当主と嫡男が立ち上がる。
「レイチェル、何を勝手なことを」
「あら?それが望みなのではなくて?」
「そんな、そんなわけはないだろう!」
激高する当主を尻目に、レイチェル、と呼ばれた少女は涼しい顔をしている。冷たい、とも怒っている、でもなく、どこか感情が切り取られたような表情をしている。
「この国は、とても仲が良い夫婦神から始まった、ということはもちろんご存知?」
話の転換についていけずに、二人は座り直す。
小首をかしげたようなレイチェルは心底どうでもいい、という視線を二人に寄越す。
「その教義からこの国では男女ともに不貞行為は非常に疎まれる、ということもご存知でしたよね?」
この国は、その風土からも夫婦を中心とした家族を非常に重要視する傾向にある。それは、跡継ぎが絶対に必要な王家にも当てはまり、複数人兄弟がいた場合は独立させ、何かがあったときの代替となるべくその血脈を保存するような体制が整えられている。このアルバー家もその一つであり、当主はずいぶんと低いが継承権を与えられている。
王家は跡継ぎが一人おり、その婚約者がこのレイチェルであり、どこまでも他人行儀な彼女はこのアルバー家の娘だ。
だがアルバー卿と呼び、まるきり対峙するかのように会話をするレイチェルと彼らはとても血がつながった家族には見えない。
「でしたら、なぜ殿下に苦言、いえ、忠言の一つも差し上げませんでしたの?」
レイチェルと王子の婚約は家柄を考えてずいぶんと前から水面下で進んでいた。あまり早いうちの婚約は情勢の変化に対応できなくなるため、あくまでも婚約を前提にした王家とアルバー家との付き合いとなる。それでも当事者の二人が仲が良くなることにこしたことはなく、二人の交流はおおっぴらではないものの、それなりに取り持たれていた。
レイチェルは頼りになる少し年上のお兄さんとして、一人っ子の王子はかわいい妹分としてレイチェルのことをかわいがっていた。年を重ねるごとにそこには信頼と尊敬が加えられ、このままいけば、と周囲の誰もが安堵していた。
そこに不安な影が射したのは、もう二年前のこととなる。
この国では私的な学園がいくつも存在し、その中でも歴史のある寄宿舎を抱える学園に男性の高位貴族が通うことが通例となっている。王子も代々の王族に倣い、その学園へと進み、卒業した後には膨大な魔力をさらに制御するために魔法を司る専門の学園へと進学した。
そこで、彼は「真実の愛」を抱く少女と出会いを果たした。
その物語はあちこちで語られ、まるで英雄譚のように好んで少女たちの口の端に上っていた。
それは、王子の真実の愛の相手が平民であり、魔力の発現によりその学園へと通うようになった少女だったからだろう。
少女に自らを仮託し、夢物語を語る。
それはとても甘いもの、なのかもしれない。
当事者であるレイチェルを除けば。
「殿下に何かがあってはと、なんどもお伝えしましたが、聞こえていらっしゃらなかったのかしら」
覚えのある当主は黙り込む。
当然、記憶はある。
娘、レイチェルは当主である自分に幾度も殿下の周囲に注意を払えと、進言してきたことを。
とるに足らない平民の小娘と懇ろになる。
この国の慣習や教会の教義に反するような態度をみれば、苦言の一つや二つ、たとえ相手の立場が上だとしてもしなければいけないのが当主なのにもかかわらず、彼は沈黙していた。
そう、ずっと王子の態度を黙認していた。
それは、このアルバー家全体であり、夫人も嫡子もそれに倣って笑ってレイチェルに応えていた。
若いうちの火遊びぐらい大目に見ておきなさい、殿下は必ずあなたと結婚するのだから、と。
その度にレイチェルは打ちひしがれ、そして王子はレイチェルの苦言程度では態度を改めることはしなかった。
それは、王家にしてもそうだ。
若いうちのことに、それほど悋気にならなくてもいいだろう、と王妃に諭され、そのような狭量な態度ではとても王妃は務まらない、と説教までされる始末だ。
その度に、レイチェルは内面では涙し、取り繕うようにその場を立ち去った。
この国で、あの宗教で、正式な婚約者同士となって、このありようはかなり不可解でしかない。
やがてレイチェルは教会を頼るようになり、客観的に有様を彼らに語れば、彼らはもちろん憤る。中には苦言を呈してくれる高位神官もいたが、それらすら一笑に付された。
そして、いくら言葉を尽くしても彼女の真意は通じてはくれない。
友人たちすら、客観的な成り行きを話せばそのことに憤ってくれはするものの、レイチェルと王子、という個人が入り込めば、王子はすてきな恋をしている、と擁護へと立場を変える。
家にもどこにも味方がいない。
それは、レイチェルを追い込み、精神は疲弊していく。
おろそかになった交流を取り持つ気力もなくし、ここ一年は王子の顔を見てすらいない。
誕生日には義務的なカードが送られてきた、が、ただそれだけだ。
例の少女にはずいぶんと貢いでいるのだと、嫡子である兄から伝えられる有様だ。それも全く悪びれもせずに。
父、母、兄は、今まで自分がレイチェルに吐き出した言葉をもちろん覚えている。
だけれども、どうしてそんなことを言ってしまったのかはわかっていない。
今ならレイチェルの訴えに、家門を上げて王子を吊るし上げる自信がある。
だが、それはなされなかった。
いつもレイチェルをたしなめ、そして王子の真実の愛を褒めそやしていた。
「お望み、だったのでしょう?」
にやり、とレイチェルが笑う。
その笑みは、今まで見たことのないような笑みで、彼らは少しの間言葉を失う。
「お義姉さま予定の方にも、お兄様のおっしゃりようをすっかりと話しておきましたの。この家のそれが正解なのでしょう?」
口を開け、それでも言葉を発することはできずに、兄と呼ばれた青年が青ざめる。
「お話があるそうです。式の日取りのことでしょうか?」
首を傾げながらレイチェルは彼らを見据える。
兄の婚約者は、この家に相応しくどちらかというと保守的な家から選ばれている。貞淑で賢い妻になるはずの彼女は、そういわれれば王子の恋に否定的な言葉を口にしていた、と思い出す。
今でこそ、やったことのまずさを理解している彼らは、一瞬にしてレイチェルのことだけにかかずらうわけにはいかなくなってしまった。
このままいけば、レイチェルの婚約も兄の婚約も白紙となってしまう。
そんな危機感に、当主である父親は頭を殴られたような気となる。
熱に浮かされたような。
真実の愛、それを褒めそやしていた自分たちに唐突に冷や水が浴びせられる。
「まあ、どうなさったの?急にそんな真剣な顔をなさって。以前のように真に愛せる相手と出会えて王子がうらやましい、と浮かれておっしゃったらどうなのです?」
身に覚えのある言葉に、息が詰まる。
最もレイチェルに寄り添わなければいけなかった母親は泣きだす有様だ。
家門やら政治的なバランスからこの家の嫁に選ばれた彼女は、ただ何も考えずに当主に寄り添い跡継ぎと娘、という二人の子供に恵まれ、そこに何の疑義を挟む隙間もないような「幸せな」人生を送ってきた。この国に生まれついて、代々そういう教育を受け、夫の気持ちを疑ったこともない、いや、疑うということを想像すらしていない。それなのに、安易に娘にはそれを強いてきた。そして、今ではそのときの自分の気持ちを理解することができない。
まるで何かに導かれていたかのように、疑いもせず、王子と平民の娘の恋を応援していた。
それが自分の娘にどういう影響を与えるかをまるで考えもせずに。
「どのみち、子をなしたのですもの、殿下は結婚せざるを得ないのでしょう?」
唐突に、レイチェルの周囲の人間の熱が冷めたのは、王子の恋人の妊娠が発覚したことにある。
その瞬間、まるで夢から覚めたかのように、みな冷静になった。
婚約者がいる王子の平民の恋人の妊娠。
その短い言葉は、この国の貴族制度や宗教のありかたそのものにおよそ喧嘩を売っているようなものだ。
そのことに、本当に瞬時に皆気がついて、しまった。
何も知らない大多数を占める平民たちは、秘密にしておきたかったそれを知らされさらに熱狂し、真実の愛の二人を祝福している。
そして、そのことを知らせた人間を捜す暇もなく、王家は王子と彼女の関係を認めざるを得なくなった。
この国の宗教による圧力によって。
隠し通せることができれば、それはなかったことになったのかもしれない。
だが、嘆くこともできずに、そんなことは不可能となった。
逆にレイチェルの方は、婚約したことすらなかったこととなり。まっさらな令嬢として、現在存在している。
大多数の国民も、一度も顔を見たことのない高位貴族のお姫様のことなどもう思い出すこともないだろう。
「それでは、ごきげんよう」
レイチェルはきれいなお辞儀をして、彼らの前から去っていった。
何も言えない、両親と兄を残して。
王子の恋人は彼の妻となり、王子は臣籍降下した後、ひっそりと小さな領で暮らしていった。彼らの話題は徐々に国民の口にはのぼらなくなっていた。その代わりに、新たに王位を継ぐという筆頭貴族家の青年と、とても美しい令嬢の婚約話に夢中となった。
彼女が、以前真実の愛の話に於いて、脇役の悪女として配されていたことを、彼らは覚えていない。