いまさらだけど、本命チョコ渡します
今年のバレンタインは週半ば、ウィークデー真っ只中であるということを知ったのは、母からのLINEだった。
“今年は2月に三連休が2回もあるけど、バレンタインの日には引っかからないのよね。”
“ところで、あんたはいつこっちに帰ってくるの?おばあちゃんも、明日には入院先から退院するし、あんたに会いたがってるわ。今月どっかで顔を見せに帰ってらっしゃい。”
「いやー……帰らないし。」
ワンルームアパートにありがちな狭いキッチンの前で、私はスマホに向かって呟いた。
現在の時刻は22時前。残業をこなし、やっとの思いで仕事から帰ってきたところだった。
「なんて返そうかな……休日出勤、はこの前も使ったし、友達の結婚式って理由は、さらにその前……」
仕事着のスカートやらニットを脱ぎ散らかしつつ、帰らないための理由を考える。
なんでこんなに実家に帰りたくないのかって?
それは、遠いからお金がかかるとか、荷造りが面倒とか、母の結婚を急かす小言からの逃避とか……色々である。
だけど一番の理由は、実家の隣に住む、幼馴染の翔に会いたくないから。
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一歳上の翔とは、親同士も仲が良かったためか、小さい時から兄妹のように育ってきた。小学校から高校まで同じで、ずっとずっと一緒だった。
だけど、翔が社会人になって2年目の頃、突然、可愛らしい彼女を連れて、田舎に帰ってきた。
“栞にだけ言うけど、彼女と結婚するつもりなんだ。”
お互いの親にも、当の彼女にも隠れて、こそっと嬉しそうに、はにかみながら伝えてくれる翔を見て、なんだか胸がザワっとした。
最初は、単なる驚きだけだと思ってた。翔だけ先に、人生の次のステージに上がってしまうっていう焦りだ。
表面上はもちろん、”良いね、可愛い彼女さん。応援してる”。そう返したけれど、その言葉がどうにも宙に浮いてる気がしてならない。
答えが出ないモヤモヤとした感情が何なのか。
それは翔と彼女が人目を忍んで手を繋いでいるのを見かけた時に、はっきりとわかった。
ああ、私、嫉妬してるんだ。
しかも、相当。
それから数ヶ月後、翔と彼女の結婚式に招待されたけれど、仕事を理由に欠席した。
まだ、私の中では翔への気持ちに区切りがつけられなかったから。
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そんな出来事から数年たった現在。
もう、翔はとっくに結婚してしまっているのに、私はまだ気持ちに踏ん切りがつけられないでいる。
もこもこ生地の部屋着に着替えて、ミネラルウォーターを一口。さっきまでお腹が空いて仕方なかったのに、翔のことを思い出したら、水だけでなんだか満足してしまった。
母からのLINEへの返事に迷いながら、いつまでたっても引きずってしまう自分が悔しくて惨めで、だんだんと涙が溢れてくる。
おそらく幸せに暮らしているであろう、彼ら夫婦を直視できない。
心の底から祝ってあげられない。
なんだって翔はわざわざ家業を継いだんだ。
奥さんだって、田舎の二世帯同居なんて嫌に決まってるじゃん、多分。
結婚してまでずっと隣にいないでよ。
「あぁもう……何してんだ私。」
もう二度と伝えられなくなってしまった感情は、めきめきと音を立てて、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを歪めていく。
声をあげて泣くこともできない。泣くときまで、素直じゃないのか私は。
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ひとしきり泣いて、どのくらい経っただろう。
アパートの外からは何の音もしなくなり、ひんやりと肌寒さを感じてきた。
「あれ、もう1時か……」
ミネラルウォーターを持っていたはずの右手はいつのまにか、果実酒の入ったグラスに変わり、気づけば1瓶まるまる空になっていた。
呑んだ後片付けもそこそこに、電気を消して、スマホを片手にベッドに寝転ぶ。
「翔には会いたくないけど、おばあちゃんには会いたいんだよな……」
ここ1年くらい入退院を繰り返している祖母。帰るたびに気丈に振る舞ってはくれるが、あと何回、その元気な姿が見られるのだろう。
今回はタイミング良く退院して、家にもいるんだもんな……
酔っ払った頭ではあったが、やっぱり決めた。
おばあちゃんに会いに、実家に帰ろう。
母のLINEに、”今度の連休、1日だけ帰るよ。”
と返した後、私は力尽きたように眠りに落ちた。
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ヴーヴー、ヴーヴー。
手の中から振動を感じる。
眠い目を擦って、手の中にあるスマホを見るとLINEのメッセージ通知だった。
ああ、お母さんかな……
そう思って、通知を開くと、目に飛び込んだのは見慣れない文体だった。
“久しぶり!元気か?今度、こっち帰ってくるんだってな。”
は……?
「………はあっ?!なんでこいつ……」
眠い頭がどんどん冴えてく。メッセージの差出人は、ここ数年会っていない翔だった。
だいたい何で帰るって知ってんのよ、お母さんにLINEしたの夜中だっていうのに……
そう思ってスマホの時計を見ると、朝の6時。アパートの窓からも、ほんのりと明るくなりつつある夜明け空が見えた。
こんな朝っぱらから何かと思えば……
ああそうだ、翔は朝のランニングが趣味の、陸上バカなやつだった。だから、早番出勤のうちのお母さんと出くわしたのかも。
ほんと、翔は昔からなーんにも変わってなさそうだな。
“そうだよ、おばあちゃんに会いにね。だからそんなに長くはいないけど。”
事実、1日はおろか日帰りするつもりだった。おばあちゃんも多分長くは起きていられないだろうし、私がいると無理をしてしまう可能性がある。
それに、翔に帰省を知られたのならなおさらだ。絶対顔を合わせたくない。
そんな私の気持ちを知る由もない翔は、呑気にこう返信してきた。
“長くはないけど帰るは帰るんだろ?駅まで迎えに行ってやるよ”
だから会いたくないっていうのに、この男は……
って知るはずないか。私の気持ちなんか気づいてもないだろう。
“いいよ、奥さんに悪いから。バスでもタクシーでも何でも帰れるし”
やれやれ。ここで気づいてくれ。そう念じながら送信した文字には、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
“ああ、言ってなかったか。俺離婚したんだよ。”
“だから気にしなくて大丈夫!”
立て続けに飛んでくる、お笑い芸人のOKスタンプ。
ほんと、こういう呑気なとこ何にも変わってない。
……。
……ん?
「っていうか、離婚て何?!」
私は思わずベッドから起き上がって、声に発した通りの言葉を入力していた。
なによ離婚って……あんなに仲良かったじゃん。
めちゃくちゃ可愛いらしい、都会のお嬢様みたいなコだったじゃん。
それが離婚って……
無意識にぎゅっと握りしめていたらしいスマホから、鈍い振動を感じ、画面を見る。
なぜだろう、手にじんわり汗をかいてきた。
“結婚して1年もたなかったわ。出ていかれた。田舎は嫌だってさ。”
田舎は嫌……。ああ、まあたしかに、都会から来た人には慣れるの少し時間が必要なのかもな……
でも……
“翔は何にもフォローしてあげなかったの?そりゃ、奥さんだっていきなり田舎暮らしじゃ慣れるのも大変だっただろうに……”
と入力して送信しようとしたところで、先に翔からメッセージが届く。
“ていうのは建前でさ。本当は忘れられない元カレがいて、そいつと元サヤになったっていうのが実際のとこ。”
“は?”
思わず反射的に返してしまった。
すると、またも即座に返信が返ってくる。
“俺と付き合って結婚して、わざわざこんな田舎まで来たのも全部、その元カレを忘れるためだったんだとよ”
な、な、なんてこと……。
あのコ、あんな可愛い顔して、そんなむちゃくちゃな……いや、あんな可愛いコだからこそ出来る芸当なのか?
しかし、これが全部本当なら……ちょっと、翔がかわいそうだ。
嘘、ちょっとざまあみろって思った。
私に隠れてこそこそ女の子といちゃつくからだ。
……なんて、こんなことをすぐ思ってしまうから私はきっとモテないんだな。
色んな感情と言葉が頭の中をかけめぐり、どんな風に返そうか迷っていると、さらに翔からメッセージが続く。
“というわけで、俺は立派なバツイチ独り身男だから、なーんにも気にするな!どんとこい!”
“どんとこいって何。ほんと意味わからない。”
何年振りだろう、翔と会話を交わしたのは。
なんでこんな少しのやりとりだけで、気持ちがふわっと温かく元気になった気がするんだろう。
次にどんなメッセージが来るんだろうって、微かな期待と緊張感が、眠かった私の頭をどんどん覚醒させていく。
“つーか、単純に会いたかったの!何年会ってないと思ってんだよ!”
そりゃあ私が避けてましたからね、とは言えないけれど。
なによ、会いたかったって。既婚者だったくせに。
私はそんな気持ちを交えつつ、意地悪く言葉にする。
“私だって仕事とか彼氏とのデートとかで忙しいんですー。バツイチさんとは違ってね笑”
まあ、彼氏なんてここ半年はいないのだけど。
翔を好きだと認識してからは、どの人も長続きしなかった、というのが本当のところだ。
“うるせえ!”みたいな軽口が返ってくるかと思いきや、10分経っても返信が来なかった。
思いのほか、私の言葉が効いてしまったのかな?
バツイチさんは、ちょっと言いすぎたかな。
なんてことを思いつつ、朝の支度をするためにベッドから立ち上がると、長い振動音がする。
スマホを拾いあげて画面を見ると、それは翔からの着信だった。
驚きつつも、ここで出ないのも悪いと思い、少し緊張しながら応答ボタンを押した。
「も、もしもし……?」
「よお、久しぶりだな。」
低めだけど、カラッとした声。昔から変わらない、翔の声だ。
「どしたの?朝から。」
「バツイチさんは土曜日も仕事だから、もう準備してんの。」
そう言いながら、ガシャンと瓶同士が触れる音がする。そっか、もう家の仕事してるんだ。
そして、私が言った”バツイチさん”を根に持っているらしい。
翔は、私の返事を待たず”ところで、”と切り出した。
「お前、いつ帰ってくんの?迎えにいくから、日にちとか詳しい時間教えて。」
「んー、まだチケットも取ってないから、何時かはわからないよ。分かり次第連絡するけど、遅くなりそうだったらタクシーで帰るつもりだし。」
「駅からタクシーとかいくらかかると思ってんだよ、金は大事だぞ金は。俺なら無料タクシーしてやるって言ってんのに。」
はあ……。だから私まだあなたに会うの気まずいし、緊張するんだけど。言わないとわからない、か。
「だから……久しぶりに翔に会うの、なんか緊張するから!もう大丈夫だから、迎えとか!」
「お、おう、なんだそういうことか。」
翔は私の勢いに押されつつも理解はしてくれたようだった。だけど、迎えにはどうしても来ると言う。
しばらく迎えに行く・要らないの応酬をした後、私がついに折れてしまった。
「もう、ほんとしつこいんだから。いいって言ってるのに。仕事もあるんでしょ?」
「しつこくて結構。仕事は終わってからでも、その合間にでも行く。俺はお前に聞きたいことが山ほどあるんだよ。家に着くと、親たちがお出迎え〜で、きっとそれどころじゃなくなるだろうから。」
そう話しながら、車のエンジンをかける音がする。これから朝の配達に向かうのだろう。これ以上、長く話して仕事の邪魔をしたくない。
「わかった。じゃあ、迎えをお願いするよ。時間わかったら連絡するから。」
「おう。あ、あと、バレンタインのチョコ!俺、酒入りのやつが欲しい!」
「はー?もうしょうがないなー。じゃあなんか見つけて買ってくよ。」
「テキトーに選ぶなよ?お前の彼氏に選ぶつもりで、彼氏にあげる以上に良いチョコな?」
「彼氏がどうこうとかわかんないけど……とりあえず用意してくよ。」
まさか30歳近くになって、本命チョコを渡すことになろうとは。
なんか皮肉だなあと思いつつ、もう電話を切ろうとした時、やっぱり少し意地悪な気持ちが顔を出す。
「本命チョコなんだから、ちゃんと受け取ってよね。」
「……は?本命って……」
「じゃ、また連絡するね。続きは会ってから。」
なんだか電話口で、喚いている声がした気もしたけれど。ちょっとくらい、ヤキモキさせちゃってもいいよね?
甘くほろ苦いチョコレートと一緒に、私も気持ちを伝えよう。
荷造りも早々に、私はいつもより明るめのリップをつけて、駅へ向かった。