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日本医学の最高権威であるT大病院第五外科臨床科には天才と呼ばれる外科医であり研究医がいた。
坪倉晋太郎教授。
外科手術、臨床試験と並行して大学でも教鞭を執る天才外科医である。
坪倉は普段は正道の授業を行うが、 今日はT大のある教室で選ばれた生徒たちの前で特別講義を開いていた。
……モニターに映し出されるのは異端の研究成果である
一心不乱に生徒たちは坪倉の講義に耳を傾け、その研究結果に刮目する。
「……よって遺伝子に別種の生物の改良因子を取り込むことによって従来の身体に意図的に変異を起こし、違った生物に進化させることが可能となる
先般アカザルにこの手術を施すことにより、形質的な変化が認められた」
動画にはアカザルの頭を切開し何らかの術式を施される様子が映される。
ある動物に別の動物の遺伝子を組み込もうというのである。
それは従来のまともな科学者なら思いもつかないような異端の術式であった。
生徒の一人が手を上げ、坪倉の許可を受けて質問する。
「先生、動物の遺伝子を人や他の生物に組み込むことなんて可能なのですか?」
「ああ、この動画が答えだ。見たまえ、アカザルの脳幹に蜘蛛の遺伝子を改良した因子を組み込む事で指先に器質的な変化が生じているだろう?
まるで蜘蛛のようではないか……
その他にもごく少量ではあるが、口から糸を吐くなどの生態の変化を見せた。
このアカザルは術後1時間ほど生存の後死亡。
私の1029体目の術例である」
正に悪魔の研究──
坪倉の淡々とした説明にある生徒は恐怖を覚え、またある者は興味を覚える。
先ほどの生徒は後者のようでありまだ質問を続ける。
「……先生、この手術と研究には何の意味があるのですか?」
訝しげに尋ねる生徒に坪倉は微笑んで答えた。
「動物の因子を取り込むことにより身体の強化、不治の病の治療に応用できると私は考えている。
私の論文はまだ仮説であるが、君たちの代で私の研究が完成することを願う」
講義が終わり、坪倉は機材を片付ける。
坪倉の特別講義を受ける生徒の反応は様々である。
……しかし坪倉は紛れもなく天才であるが学会からは決して高い評価を受けている訳ではない
誰も自分の研究や実験を理解できない。
だからこそ坪倉は医学界では天才と呼ばれるとともに「異端」との影口を叩かれていた。
ある日、坪倉はとある人物に招かれ料亭の奥の席についていた。
短く後ろ髪を刈り上げた丸眼鏡の大人しめだが鼻の形が整ったその青年は坪倉に慇懃に頭を下げる。
「お目にかかるのは初めてになりますね。改めまして私は高遠浩介と申します。ひと月前までマサトセット大学の研究員を務めておりました。
こちらは狭間正介さま。ご存知ですよね? 狭間財閥の総帥であられる方です。
先生、本日はお越し頂きありがとうございます。お忙しい中ご足労頂き誠に感謝します」
マサトセットの高遠といえば飛び級で同大を卒業した理学と医学の天才と呼ばれる著名な研究者である。
また、紹介を受けた白髪を伸ばし、口髭と顎髭を蓄えた袴姿の老人が挨拶する。
「私からも礼を言う。坪倉教授、貴方には期待している。今日は話だけでも聞いていただきたいのだ」
白髪の老人は狭間財閥総帥、狭間正介。
日本の政界と金融界を影で牛耳るフィクサーと呼ばれている黒い噂の絶えない男である。
最近は医学研究の分野に興味を示しているという。
坪倉は2人の熱心な誘いに負け、本日ここまで赴いた。
グラスの水にすら手をつけずに2人をじっと見つめながら坪倉は重い口を開く。
「……伺いましょうか あなた方のお話を」
坪倉の目を見つめ返すと白い髪を撫で上げ、狭間は薄い笑みを浮かべた。
「単刀直入に言う。我々はあなたの提唱する遺伝子工学を取り込んだ医療研究を進めるチームを結成し、研究を進めたいのだ。もちろんプロジェクトにはあなたの知識と頭脳を必須としている。
……私は狭間財閥の総帥である!
大学病院とは比べ物にならない給与と報酬、そしてポストも用意した。
どうか我々の研究所の所長に就任していただきたい……!」
坪倉は狭間という老人に不快感を覚えた。
紳士ぶった態度の裏に隠された狂気を感じ取ったからだ。
しかし、すかさず爽やかな笑みで高遠という優男は坪倉の思考に介入する。
「…….先生 私は坪倉先生の論文は全て読ませていただきました。あなたの論説にとても感銘を受けた研究者の一人であります。
先生! 我々は良き理解者になれると思いませんか?
狭間様は新しい研究所への投資を惜しまないと仰ってくれています。
研究への理解もある方です。
我々3人で共に医学を発展させましょう‼︎」
坪倉も高遠の論文をいくつか読んだことがある。
なるほどマサトセットの天才と呼ばれるだけのことはあった。
そして彼らの研究には相通じるものがあった。
また、異端と言われる自分の研究に投資しようというのだ。
当初断ろうとこの場に臨んだ坪倉であったがこの時点で心が揺らいでいた。
暫し考え込み坪倉は2人の顔を見比べ口を開いた。
「……とてもいいお話だが即答は出来かねる 2、3日待ってください」
すると、何か言いたげな狭間に目配せして高遠は慇懃に頭を下げ爽やかな笑顔を坪倉に見せた。
「分かりました。色良いお返事を頂けることをお待ちしておりますよ」
食が進まず小鉢を一つだけ食べて退席した坪倉は自宅に帰るととある家具を退け、現れた扉の横の機械にパスワードを打ち込む。
小さく電子音が鳴ると扉が開き、中へ入ると地下への階段があった。
坪倉家地下15メートルには秘密の地下室がある。
特殊な冷凍庫を開くと凍り付けの美しい少女が死んだように眠っていた。
これは彼の唯一の肉親で故人である実兄の娘であり、彼女は16の頃に事故で脳死状態に陥ってからその兄の手により冷凍保存され生き長らえていた。
坪倉は眠り続ける彼の姪に向かって語りかける。
「……兄さん、莉里。私は今日まで君たちのために頑張ってきたよ。 ……彼らの誘いに乗るべきだろうか」
そう、坪倉晋太郎の異常とまで言われる研究は、全て姪である莉里を脳死から復活させるという彼の兄の妄執を受け継いだ言わば狂気の産物なのだった。