甲虫の死骸
幸せこそが、人間がその生涯の上で追求していく至上の命題となってから、義務教育の現場で子供らはこう学ぶ
第一に、人を殺す事は許されません
第二に、第一の例外として、個人の幸福の為の自殺であれば許されます
しかし、第三に、その死により他者の幸福を侵害してはなりません
誰にもその死を厭われない人間のみが自ら死ぬ権利を手にするのです
終了を告げるチャイムの音と共に彼らは異様さを含んで重く湿った教室の空気から解き放たれ、ほっと胸を撫で下ろす
そして、自分の胸の内に染み付けられた不安のような薄暗い澱みを他者に悟られぬようにとけらけらと茶化したように笑いあうのだ、まだ幼い彼らは
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男はその視界に映る情景がいたって普通な事に微かな違和感を抱きながら、電車に揺られていた
目的の施設は最寄駅から更にバスに乗り、それからバス停から20分ほど歩かなければいけなかったが、それは、ただでさえ、こういう施設が近くにある事は健やかにその生を謳歌している人間たちにとって不愉快であり、その為人家から離れた位置にある為だった
男は順調に事を進めて遂にはバス停から降りたち暫く歩いていたが、そこで日頃の運動不足と不摂生がたたり、頭痛と目眩に襲われた
ちょうど、すぐそこに人が去ったばかりのベンチがあったので、休憩をしようと腰を下ろす
明るい内に終わらせたいつもりではあったが、まだ夜までに十分に時間はあるので、少しばかり道草を食っても問題ないと判断したからだ
施設へ向かう道は街路樹が並び、男の座ったベンチにもちょうど木陰が出来ていた
男は、体を這う汗の感覚に顔を歪めたが、その不快感ももう得ることはないのだと気づいた
時たま漂う風がそれをうすらと冷やし、男は暫くそうしていた
顎から垂れた汗が足下へと落ちてコンクリートを黒く濡らし、その少し先に頭部が陥没した甲虫の死骸を発見した時、漸く男は重い腰をあげた
それは、この世に未練があるにも関わらず、一方的な死をもたらされたであろう地べたのそれが此方を非難げに睨みつけてくるような錯覚に陥ったからだった
男は先程よりも幾分勢いを持ってまた歩き始めた
ポケットの中には交通費のためにとっておいた数百円の全財産も消え、残るは申請に必要な免許証だけだった
しばらくして男は施設に到着した
流石に国が運営しているだけあって中々手入れのされた白い建物は、室内に入っても死を彷彿させる暗い重苦しいような気配はなく、どこか役所のような匂いが漂っていた
受付にある電子機器で申請を行い、待ち合わせ室で確認の検査が終わるのを待つ
先程とは違って、施設の中は冷房機が効いていて過ごしやすく、自分の他にも2、3人が申請が受理されるのを待って、横長の椅子に腰を掛けていた
特に何の感慨も浮かばなかった
ただ検査が終わりそれに伴って全てが終わるのを、壁に掛けられた時計の秒針が刻々と動く様を見ながら待っていた
しかし、男の申請は通らなかった
彼はその結果を最初茫然と受け取り、それから喚き立てた
何故だ、と
全て完璧だったはずだ
今日で俺は死ねる筈なんだと
バス停に向かう道の間もずっと、ずっと何故自分は許されなかったのかと考えあぐねていた
しっかりと引き継ぎをし、会社を円満に退職した
退職届けを提出した時には怪訝そうに此方を見つめられたが、それはこの社会からはよくあることで、兎も角、生来の気質から大して親交も深めなかったので引き止められる事もなく、考え直せと諭される事もなくスムーズに辞められた
親類の者がいないのも男にとって都合が良かった
誰も男の死を嘆かないからだ
半年前には部屋とクレジットカードも解約し、念の為それから今日までネットカフェを点々とした
もしも、部屋の大家が自分が死ぬ事を悟り、それを他人ながらに不愉快に感じた場合、申請が受理されない場合があるのではないかと気を回した為であった
流石に、半年も経てば、新しい入居者の方に目を向けるだろう
ならば、何故?
この後に行く宛もない男は、それでも追い出された挙句、そこに居座る訳にもいかず、とぼとぼと歩く様は負け犬のようであった
自殺幇助の施設はじわりじわりと遠ざかり、やがてもう視界には映らないところまできたが、それでも男は何故、自分は許されなかったのだとそればかり考え、悲嘆に暮れ、そして、昼間に座ったあのベンチの下に辿り着くと、そうとは気づかずにそこに座り込んだ
今後どうすればいいかなど考えなければいけなくなるなどとは思いもしなかった
今日、明るい日差しの下に全てを終えようと、そればかりを考え生きていたのだ
3年間それだけを想って生きてきたのだ
別に悲劇的な何かがあった訳ではない
ただ、何となしに終わりにしたいと思った
そして、それが出来たら自分はなんて幸福なのだろうと夢想し、その想いを抱いたままに3年の月日を掛けて十分に綿密に計画を遂行してきた
それが水泡と化して、手の内からすり抜けていくのを
感じ、男は考えることをやめ、そこに座り込んで動かなくなった
次第に夜の闇が近づき、直ぐ横の自販機の灯りが暗がりの地面を縦に照らす
それでも、男はまだそこにいた
寧ろ、それぐらいしか何もない男にできる事はなかった
やがて、背景は濃厚な黒となり、生温い夜風が哀れな男を揶揄うように撫で回して出した時、男に声を掛ける者が現れた
それは、まだ学生の身分であろう女であった
こんな夜更けにと思うが、どうやら手に握られた手綱の先にいる生き物から、日課の散歩の途中と推測される
その女が男を見て、顔をはっとさせて声を掛けてきたのだ
無論、男は女に見覚えなどない
しかし、女はさも嬉しげに男に近寄ると、腕に掛けられた小柄な手提げから何かを取り出し、それを男の手に押しつけ、にこりと顔を歪めた
「忘れてましたよ」
その時足下にいたそれが、散歩の主導権は誰が持っているのかを明らかにしようと手綱を力強く引いたので、女は笑みを伴った軽い会釈をしたまま、去っていた
こら、と短く叱る女の快活な、しかし、それに対する愛情に満ちた声が男の耳に入った時、男ははっとした
押しつけられたそれは、革製のカード入れのようなもので、その中からは見知らぬ女が緩やかな笑みを讃えて此方を見つめていた
それを見て、しばらくして男は自分の奥底から自虐の感情が込み上げてくるのを感じ、そして、それを抑えることが出来ずに遂には狂ったような笑い声をあげた
久しぶりに動かした筋肉に顔が痛みの非難を挙げたが、男はそれでも可笑しさから笑みをやめなかった
先程の女のホッとしたような顔を思い出す
心残りがなくなり、安心したかのようなその顔を
こんな、こんなくだらないことで俺の死は邪魔されたのか
ちっぽけで仕方のない、あの女の気兼ね、しかも勘違いの為に俺は今日死ねなかった
そう思うと、我が身の憐れさに涙が出てきそうだった
実際、僅かにその瞳は潤んでいたように思えた
やがて、それは終わった
男はベンチから腰をあげた
虫の死骸はまだそこにあったが、男はそれに気づかなかった
ポケットが空っぽなお陰か彼の体は実に軽かった
2枚の四角いそれをその空間に押し込み、彼は歩きだした
ただ、元来た道を戻る事は無かった
手にしたそれを本来の持ち主に返すべく、駅前の交番へと向かった
そして、もう2度とその道を通る事は無かった
今日ではなかった男の話