卵と角
先ほどまでの吹雪が嘘のように途絶え、そこは光に満ちた暖かな場所に様変わりしていた。
風雪を防いでいた氷の壁を崩して、あたりを見回す。
広がった視界には、空気と同じように激変した光景があった。
赤黒く脈打っていた鉱石は水晶のように透き通り、淡い水色に輝いている。
散り始めた暗雲の隙間から陽光が差し込み、降り積もった雪と鉱石がそれらを乱反射して眩しいほどだった。
「終わった、のか……?」
放心気味に独りごちつつ、腕の中にある華奢な体を仰向けに抱え直す。
顔にかかっている髪を梳き退かそうと額に触れたことで、ラフィカが安堵から気絶したわけではないとようやく気がついた。
「ラフィカ? ラフィカ!」
名を呼びながら、頬、首筋と手のひらを滑らせる。
どこに触れても額と同じように冷たく、恐ろしいことに脈も弱かった。
「魔力枯渇か!?」
彼女にはあり得ないと勝手に思っていた己を呪いつつ、ローブの内ポケットを漁る。
結果的に腰のポーチにあった魔力回復薬の蓋を親指で弾いて、見たこともないほど青白くなった唇を指先でこじ開けた。
ゆっくりと瓶の中身を流し込み、飲み込ませる。
幸いなことにゴクリと嚥下してくれたが、症状が好転する兆しがない。
大抵は、多少なりとも体温が戻り、呼吸も安定するのだが、ラフィカのそれらは相変わらず冷たく、弱々しかった。
「まさか、足りないのか?」
焦って自分が持っていたものも与えようとして、それが無意味なことに気づかされる。
(そうだ。聖女は己の魔力しか受け付けない!)
冷や汗が止まらなかった。
とにかく、急いで下山しなければ。
ようやく思考がそこに行き着いて、ラフィカを抱え上げる。
だが立ち上がったところで、ぐわんっと視界が揺れた。
「──っ」
強い目眩のようなそれに、膝から力が抜けそうになる。
寸での所で踏ん張ったが、再び脳が揺さぶられるような衝撃に見舞われ、俺は堪らず片膝をついた。
ラフィカだけは落とすまいと、両腕に力を込める。
「なん、なんだ……!?」
先ほどとは違う冷や汗が、背中を流れ落ちる。
目眩を払うように頭を振ったが、その感覚が薄れることはなかった。
むしろ、どんどんと強まっていく。
ぐわん、ぐわんと、頭蓋骨の中で何かが激しく反響している。
目を開けていられなくなり、きつく瞼を閉じると、酷い吐き気と共に、頭部がジンジンと痛み出した。
正確には、頭部にある──角が。
誰が見ても赤斑の角の装飾品だが、俺にとって、それは体の一部だった。
母と、成り行きで打ち明けたマールス隊長しか知らない、俺の秘密。
母に発見されたときからすでに、俺の頭には、この角が生えていたそうだ。
魔物の呪いだと教えられ、幼い頃は必死に隠し、忌避してきたが、これのお陰で他者より抜きん出て魔力が多いと気づいてからは、開き直って利用してきた。
普通の人間ではないと俺に知らしめる以外は無害だったそれが今、強い痛みを伴って発熱している。
魔導具に見せるために飾り付けていた金細工が、バチンと音を立ててはじけ飛んだ。
その衝撃も霞むほどの熱と痛みに、思わず頭を抱え込む。
「う……ぐっ」
膝からラフィカがずり落ちたが、地面に落ちる衝撃を和らげるために、僅かに支えることしかできなかった。
「なん、なん……だ、これ……は」
こんなところで頭を抱えながら脂汗をかいている場合ではないというのに、未知の事態に身体がわななく。
頭部は燃えるように熱いのに、不安と恐怖にか、四肢は冷えていた。
「──っ、くそっ」
恐怖と痛みと混乱、そして焦燥から、いっそこの角をもぎ取ってしまおうかと掴む。
ぐっと握り込んだところで、後頭部で何かがパヅンと弾けた。
最初、脳がとうとう破裂したのだと思った。
しかし一瞬の静寂を経て、激しく波打っていた湖面が凪ぐように、痛みと目眩が引いていく。
荒くなった己の呼吸音に混ざって、何かが聞こえた気がした。
「なん、なんだ……?」
角は相変わらず熱かったが、思考に余裕が戻る。
瞬きの合間に、また、何かが聞こえた気がした。
再び湖面に小石を投げ入れられたような不安に、身体が強ばる。
波紋は次第に大きくなっていったが、再び目眩や頭痛に襲われることはなかった。
意識して呼吸を深くしつつ、本能的に耳を澄ます。
『────! ──!』
やはり、誰かが、何かを言っている。
(俺に向かって、何か言っている?)
落としてしまったラフィカを抱え起こしつつ、警戒に視線を彷徨わせる。
しかし、そこには輝く空間があるだけで、己の呼吸音だけが妙に響いた。
「誰だ。どこにいる!」
人影も気配も掴めない不安から、思わずどこへともなく呼びかける。
すると、唐突に間近で音が弾けた。
『────よ。──なん──、──て!』
ぶつ切れのそれは、魔力の薄い場所で使った伝達器からの音声に似ていたが、まったく違うものだと確信できる。
なぜなら、耳からではなく、頭の中に直接響いていたからだ。
「なんだ? ……お前は、誰だ」
ラフィカを抱えて立ち上がり、未知の存在に背後を取られないようにと岩壁に移動しようとしたところで、ようやく声が言葉として形を成す。
『──をしている! はやく──を我のところに連れ──い!』
敵意ではなく強い焦燥を感じさせる声音に、戸惑う。
『我の声が聞こえていないのか!? おい! おい! はやく!』
「貴方は、誰だ。どこにいる!」
『下だ馬鹿者! はやく彼女を連れて、我の元に来い!』
叱責につられるように、下を見る。
足下じゃない馬鹿者と再び罵られて、慌てて視線を彷徨わせた。
そうしてようやく、水晶の根元に転がっていたそれに気づかされる。
瘴気を浄化しきったことで消滅したと思っていた、邪竜の卵だった。
先ほどまでの比ではない警戒心が湧き、後ずさる。
『馬鹿、なぜ逃げる! 傍に来い!』
「馬鹿を言うな! 誰が邪竜の言葉など聞くか!」
『だっ誰が邪竜か! いや邪竜か! 邪竜だったが、今は違う! とにかく、後で説明してやるから、お前の魔力をよこせ!』
この卵は、何を言っているのだろうか。
そんなことを、するわけがない。
(よくわからないが、俺を来させようとしてるということは、今はまだ動けないということだ)
ならば、今すぐここから逃げるべきだろう。
なにより、一刻も早く、ラフィカを他の聖女か医師に診せなければならない。
そう判断し、もう一歩下がろうとしたところで、思いがけない言葉が脳内に響いた。
『頼む、エメランの子! 我の声は今、お前にしか届かぬ。お前にしかその娘を助けられぬ! 信じてくれ! 早うせねば死んでしまう!』
無視するにはあまりに逼迫した声音と内容に、心臓が跳ね上がる。
思わず、ラフィカの顔を見下ろした。
わずか数分で肌は蝋のように白み、呼吸が更に弱くなっている。
ここで判断を誤れば彼女が死ぬと嫌でもわかり、身体が震えた。
「ラフィカ。ラフィカ! 死なないでくれ!」
唾を飲む音が妙に胸元に響き、瞬きの回数が増える。
相変わらず熱い角が、思考を煮るようで煩わしかった。
『頼む。その娘は魔力ではなく、生命力が枯渇しかけているのだ。ここでは、我にしか助けられん!』
魔力回復薬を飲ませても症状が改善しなかった理由として、説得力のある言葉だった。
ゆらり、と俺の心の中の天秤が傾く。
しかし、この卵は間違いなく邪竜だったのだ。
何百年にもわたり、この国を──世界を苦しめてきた存在。
だがしかし、迷いながらもこの卵が、邪竜ではない別の何かのような予感も、確かにあった。
(どうする。俺は、どうしたら──)
迷う。焦る。迷う。
こんなにも優柔不断な自分を、知らなかった。
だが決断しなければ、この腕の中の温もりを失ってしまう。
「──一つだけ、教えてくれ。邪竜ではないなら、お前は何だ」
答え次第で決断する覚悟を決めて、間抜けに横たわる卵に問う。
卵もそれが重要な問いだと理解したのか、そんなことはどうでもいいと、退けはしなかった。
息を吸うような一拍を経て、脳内に声が響く。
『我が名は氷竜スィンスス。魔神の呪いに蝕まれ、邪竜と成り果てていたが、本来は氷雪を司り、この地の地脈を守護するために在る、元素生物だ』
だいぶ終盤にさしかかってきたような、そうでもないような。
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