邪竜の住処
「そろそろ出るぞ。準備はいいか」
マールス隊長の声で、場に緊張感が増す。
隊長は己の部下の顔を一人一人確かめるように移動して、最後に俺の前に立った。
「セルツェ、よく眠れたか?」
「はい」
即答すると、なぜか苦笑いされる。
肩に手を置かれ、ぽんぽんと叩かれた。
「いつもと微塵も変わらないお前を見ると、気が安らぐな」
それはどういう意味かと問おうとしたところで、地面が軽く揺れた。
誰もが息を殺し、俺自身も腰帯にある剣の柄に手を伸ばす。
それを掴んだところで、後方から声が上がった。
「雪崩だ!」
声を裏返らせながらの警告が届いた瞬間、雪煙の中から魔物の群れが現れ、野営地に飛び込んできた。
雪崩鹿だ。
魔力も瘴気も少ないため、魔物としての脅威はあまりないが、だからこそ気配に気づきにくい。
そしてその特性を活かして獲物に近づき、蹄から発生させる衝撃派で雪崩を発生させ、獲物の自由を奪って狩る。
奴ら自身はその気になれば雪を蹴散らして走れるので、雪崩は障害にならないのだ。
「左右に散れ!」
「次を起こさせるな! 一撃で仕留めろ!」
「留まるな! このまま上に向かう!」
あちこちで指示が飛んだが、指示などなくとも動ける者達の集まりだ。
群れの数は相当だったが、常に上方を位置どりながら、掃討することができた。
「被害報告!」
ソンツァ殿下の声に、各班の隊長が答えていく。
ほとんどの班が軽傷者のみだったが、野営地後方の警備にあたっていた兵士二人と、聖女が一人行方不明になっていた。
「位置からして、最初の雪崩に物資部隊がまるごと巻き込まれている可能性が高いです。そして、物資部隊を呼び止める女性の声を、複数人が聴いていたと報告がありました。おそらく、不明の聖女も、物資部隊と共に雪崩に巻き込まれたと思われます」
淡々とされる報告に、誰もが沈痛な面持ちをしていた。
俺は俺で、報告者がザモークさんだったことで、不明の聖女が誰だか察っせてしまい、拳を握り込んだ。
そしてそれは、彼女を気にかけていた者達も同じだろう。
「雪崩の先は崖になっており、物資部隊及び不明者の安否は不明。伝達器での呼びかけに応答はなし。現状での救援は今後の計画に大きな支障を来すため、推奨できません」
「ご苦労。お前の提案に、私も同意する。せめて救援を呼んでやりたいが、ここからでは城の本部に伝達器の声は届くまい──。全員の体制が整い次第、このまま邪竜の住処へ向かう」
「はっ」
ルナー殿下の決定に、各班の隊長が一礼し、己の部下の元に戻っていく。
きびすをかえしたマールス隊長と、目が合った。
「──行くぞ」
「はい」
数多の言葉を互いに飲み込んで、隊列に戻る。
背後から、ザモークさんが信号弾の指示を出している声が届いていた。
降雪にかすむ空では望み薄だが、誰かに届くことを願うしかない。
ザモークさんの淡々とした声音が、彼の押し殺した絶望を物語っている気がした。
「大丈夫か?」
不意に声をかけられて、はっとする。
マールス隊長の瞳には、俺への気遣いが滲んでいた。
「お前は顔に感情が出ないだけで、心は優しい男だ。態度でも平静でいられると、逆に心配になっちまう」
「それは……彼女を助けに、崖下に向かってもいいと?」
「だめだ」
「……俺にどうしてほしいんです?」
促したくせに即答で否定されて、戸惑う。
目を瞬かせていると、マールス隊長は己の目元を手で覆った。
「すまん。今のは、最悪だ。お前の心情がどこにあるか確かめて、俺が安心したかっただけだな」
「ああ、なるほど。大丈夫です。彼女の事は心配ですが、今後の戦いに支障がでるような精神状態ではありません」
「……理由を聞いてもいいか」
「無事だと確信しているので。それどころか、たぶん無傷ですよ」
「は?」
「俺としては、そのまま下に残って欲しいですけど、追いかけてくると思います」
俺の言葉を何度か反芻するような間を置いてから、マールス隊長は小さく息を吐き出した。
何かを察したような顔で、とんと背中を叩かれる。
「そうだな。きっと、そうだ」
己に言い聞かせるように呟いてから、他の部下達に声をかけに行く。
去り際に向けられた優しすぎる眼差しが、少し引っかかった。
(任務に集中するために、逃避してるわけじゃないんだがなぁ)
ただ、事実を口にしただけ。
「そうだよな? ラフィカ」
信じてはいるが、心配ではある。
その不安を拭うように呟いた俺の言葉は、動き出した兵士達が雪を踏みしめる音にかき消された。
スィンスス氷山の山頂付近は、「時期」が近づくと赤く染まり始める。
それは飽和した瘴気が地表から滲み出て雪に混ざり、それを染めるからだ。
積雪の隙間から、固い岩肌が所々で露出している。
植物の類いは皆無で、ただひたすらに皮膚を刺すような空気が場に満ちていた。
野営地で感じた清々しさが嘘のように、冷たい瘴気が所々で渦巻き、その中から止め処なく異形があふれ出てくる。
繁殖型ではない魔物が発生する瞬間を、俺は初めて見た。
瘴気と魔力が凝縮されて実体を持ち、次から次に襲いかかってくる。
濃い瘴気に装備が負け始めている状況での、この戦闘は、俺たちが邪竜の住処に辿り着く可能性を危ぶませた。
我々の部隊は今回、早まった期日のせいで少数精鋭なのだ。
山頂付近での激戦を想定はしていたが、それは邪竜に近い事により凶悪さを増した魔物とのものであって、物量で押されるような事態は考えられていなかったのだ。
魔導師が魔法で足場を補強しようにも精霊が少なくてままならず、魔法の威力も大幅に削られている。
聖女達が瘴気の浄化を必死に行ってくれているが、それも長くは続かないだろう。
「ここで全員足止めされて消耗するわけにはいかない。三、四班は足止めに務め、五、六班は我々の援護を!」
「冒険者部隊は騎士団の援護と聖女の護衛につけ! 魔法用意!」
ルナー殿下の命令に即座に隊列が組み直され、次いで出されたザモークさんの指示によって、冒険者達がそれを補強する。
「一班は我々に続け!」
ソンツァ殿下の命令を受け、マールス隊長が一際大きな斬撃を後方に放つ。それらは一時的にだが瘴気と魔物を散らし、攻防を緩和させた。
その隙を逃さず、ただひたすらに山頂を目指す。
異物に反応するように、魔物がその場その場で湧いてくるが、道を切り開くぶんだけをなぎ払って進む。
結果として、足止めに残った者達が挟撃に遭うことになるが、それを憂う余裕などなかった。
俺たちは、余力を少しでも残して目的地に辿り着かなければならない。
邪竜の住処まであと数十メートルというところで、異変は起こった。
追いすがってきたタイミングで切り捨てようとしていた魔物への一撃が、空を切る。
それよりも前に、魔物が消失したのだ。
「なんだ?」
思わず足を止めた俺の疑問に被るように、前方で悲鳴が上がる。
視線を向けると、殿下達の護衛についていた騎士が血を噴いて倒れていた。
側にいた聖女の一人が、腰を抜かしてへたりこむ。
「聖女ニフリト、結界を!」
「は!」
「動ける者は、倒れた者を下がらせろ!」
ルナー殿下がへたり込んでしまった聖女を抱え、滑り降りるように引き返してくる。
それに続くように、ソンツァ殿下も騎士を二人引きずって来た。
殿を務めていた俺とマールス隊長にそれらを放り、再び残りを回収しに行く。
最後の者達と一緒に、聖女ニフリトも結界ごと移動してきた。
それ以上進むと消失するとわかっているように、下では魔物がうろうろと俺たちの様子を窺っている。
奇妙な静寂に、誰もが固唾を呑んだ。
「一体、何が──」
「ここを境に、魔力濃度が異常なほど上昇している」
ルナー殿下が、眉をひそめながら告げる。
「魔力濃度……? 瘴気ではなく?」
マールス隊長の言葉に、ルナー殿下は頷いた。
「生命力と言った方が正しいかもしれないな。瘴気がなければ、聖域と変わらないかもしれん。常人では、呼吸すらままなるまい」
「なるほど、平気なのは、守護を得て魔力耐性がある者達か」
ソンツァ殿下が頷き、平気だった顔ぶれを見回す。
国の守護精霊の加護を受けている、王族のルナー殿下とソンツァ殿下、女神エテルノの加護を受けている聖女二人、ヴィスキュイ侯爵家の守護精霊の加護を得ている、マールス隊長。
確かに、誰もが女神や精霊の加護を得ている者達だった。
(──俺、以外は)
内心の動揺を察したように、マールス隊長が俺を見る。
その眼差しは俺という存在を訝しむものではなかったが、なんとも言えない後ろめたさが胸に満ちた。
(……俺はいったい、なんなんだ?)
母は何を知っていて、何を掴みかけているのだろう。
答えを今すぐに知りたい衝動に駆られたが、望みを叶える術はない。
今はただ、この先に俺も共に行けるという事実だけを、受け入れるしかない。
「聖女ニフリト、代わります」
不意の声は、へたり込んでいた聖女のものだった。
なんとか気概を取り戻したらしく、しっかりとした眼差しで、聖女ニフリトを見上げている。
「私はもうあまり魔力が残っておりません。行っても足手まといになりましょう。ですので、ここに留まり、負傷した者を守りながら、後方からの応援を待ちます」
「──任せます」
状況的に、足止めに残った者達が追いついてくる可能性は低い。
それでも、その僅かに賭けなければならない。
「助けが来たら、迷わず下山してくれ。これ以上に魔物も来られない以上、無駄死にする必要はない」
「……はい」
マールス隊長の指示に、聖女は固く頷いた。
「まさか、僅か四人で邪竜に挑むことになろうとは」
ルナー殿下が、口惜しそうに零す。
情報があれば、班ではなく加護持ちを上に進ませていたことだろう。
戦力を均等にわけたことで、それぞれの班に一人は加護持ちがいたはずなのだ。冒険者の中にも、それなりの人数がいただろう。
だがもう、再び下りて彼らを引き上げてくる余裕はない。
「下を向くな。今までの者達も、この状況を切り抜けて、国に平和をもたらしてくれてたのだ」
「ああ。ああ、そうだな」
ソンツァ殿下に励まされ、ルナー殿下が顔を上げる。
「行こう。私達も、使命を果たさなければ」
身を引き締め直すような一拍を置いて、歩き出す。
ふと視線を感じて隣を見ると、聖女ニフリトが俺を見ていた。
「なにか……?」
「……四人じゃなくて、五人よね」
ぼそりと呟かれた一言に、目を見開く。
俺に言葉の意味が伝わったとわかったのか、彼女の口端が不適に持ち上がった。
聖女ニフリトもまた、俺と同じように信じているのだと思うと、胸が熱くなった。
◇ ◇ ◇
そこは息苦しいほどに清浄で、同時に禍々しい空気に満ちていた。
遠目に見ても不可思議な場所だったが、いざその場にたどり着いてみると、より奇妙さが際立つ。
山頂付近を抉るようにして存在するそこは、想像よりも遙かに広かった。
地表には岩と鉱石が混ざっており、中心部から外に向けて、円を描くように水晶に酷似した鉱石が無数に突き出ている。
鉱石の内側に蠢く赤黒い輝きが瘴気であることは、疑いようもなかった。
どくり、どくりと、明滅するそれらを見ていると、空間そのものが体内であるかのような錯覚を抱かされる。
それらの中心に、邪竜はいた。
玉座のようでいて揺りかごにも見えるような空間に、身を丸めている。
侵入者である俺たちを無視して、眠っているように見えた。
「なぜ、動かない……?」
じりじりと近よりながら、ルナー殿下が呟く。
あまりにも静かで、攻め倦ねるような空気に緊張感が増した。
「手の内がわからない以上、仕掛けてみるしかあるまい! 行くぞ!」
ソンツァ殿下の言葉と共に、邪竜に紫電が降り注ぐ。
バヂバヂと表皮を弾けさせながら、邪竜が大きく身じろいだ。
驚いたように嘶き、羽ばたき一つで、まとわりつく雷を振り払う。
「どうやら、マジで寝てたらしいな!」
仰け反ったことで露わになっていた腹部に、マールス隊長が放った斬撃が炸裂し、大きな裂傷を作る。
龍とて鱗のない部分であれば、攻撃は通る。ましてそれが、強力な精霊の力を宿しているのであれば尚更だ。
「もう一発!」
更に追撃をしようと隊長が前方に跳躍したした瞬間、傷口から大量の瘴気が噴き出した。
「隊長!」
「ぐあっ」
直撃を食らい、隊長の外套が瞬く間に蝕まれる。
それが灰のように散る間際、青緑の閃光が隊長の身体を包んだ。
瞬間、その身体が弾かれるようにして後方に吹っ飛ぶ。
「マールス隊長!」
続こうとしていた俺に突っ込んでくる形で、一緒に吹っ飛ぶ。
かろうじて受け止めて転がったが、隊長の両腕は無残なことになっていた。
頭部を庇ったことで、瘴気を最も浴びたのだろう。肉が爛れて腐り、骨の隙間から液体のようにしたたり落ちていく。
「ニフリト様、治癒を!」
「ぐっ──っっ、ピリアペ!」
己の痛みを無視して、隊長が前方に向かって叫ぶ。
視線の先には取り落とした剣があり、呼び声に応えるように青緑に輝いて弾けた。
暴力的な風が渦巻き、場に満ちていた瘴気が吹き散らされる。
邪竜の身体から溢れた瘴気は散ったが、腹部の裂傷もすでに消えていた。
竜種の再生能力は元より高いが、邪竜のそれは速度もかなりのものだった。
しかし問題は、それよりも瘴気の方だろう。
「ははっ……なるほど、討伐部隊が全滅する理由はこれか」
ソンツァ殿下が、乾いた笑いを零す。
傷つける度に、あの濃度の瘴気が噴き出すのだ。
頸を落としたらどうなるかなど、考えるまでもない。
「俺の治癒はいい。それよりも、瘴気を浄化することに集中してくれ」
僅かな沈黙を遮るように、マールス隊長が聖女ニフリトに告げる。
彼女は一瞬表情を歪めたが、意を決したように静かに頷いた。
「どちらにしろ、凶悪な再生能力と膨大な魔力を有する竜が相手だ。短期決戦以外の道はなし!」
己を鼓舞するように、ソンツァ殿下が告げる。
それに応じるように邪竜が大きく翼を広げ、真っ赤な瞳を一際強く輝かせた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
雪山を爆走するラフィカを想像しながら、次回更新をお待ちください。頑張ります。
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