王立騎士団・第三部隊隊長の失態
マールス・スピ・ヴィリキュイ。
ヴィリキュイ侯爵家の次男であり、王立騎士団、第三部隊の隊長を務める赤髪の男は、一つ深呼吸をしながら、顎を指先で撫で擦った。
寝ている隙に妻のエネジアに顎髭を剃られそうになったため、なんとなく手が確認してしまうのだ。
そんなチョロ髭、剃り残しみたいでみっともないとエネジアは言うが、マールス本人はこだわりと信念を持って整えている。
(なぜこの髭の格好良さがわからないんだ? それになにも、大物討伐がある日にやんちゃを起こさなくても)
夫の髭を無断で剃ろうなどと、侯爵夫人らしからぬ暴挙だが、その破天荒さが気に入って求婚したのだから仕方ないとも言える。
実際、朝の悶着は結局のところ、マールスの肩に入っていた力を抜くのに大いに役立ってくれた。
だいぶ気温も暖かくなり、短い夏の気配を森の空気に感じられるようになってきている。
そろそろ外套を薄いものに替えてもいいな、とマールスは木の陰に身を潜めながら思う。
マールスの背後ではハジュールが、弓の弦の張り具合を調節している。
湿度による弦の緩みを直しているのだろう。彼は魔導銀を引き延ばしたものではなく、砂漠鯨の髭を加工した弦を好んで使っているからだ。
(手間がかかるほうが、愛着も湧くか)
ついでと向かいの木の陰に視線を向ければ、秘蔵っ子のセルツェがマールスの心配をよそに平素な顔で耳を澄ませていた。
褐色の肌に、黒い髪。黒い隊服を着ると闇に沈むような色彩の中で、アイスブルーの瞳が静かに輝いている。
(まだ騎士になって半年も経ってねぇのに、肝が据わってんなぁ)
元冒険者なので魔物討伐に慣れているのもあるだろうが、元より感情の読みにくい男なので、マールスはこの年若い男の本音を探るのにいつも苦労していた。
ここ最近になってようやく、雪林檎が好きなのだと気づいたときは、なぜか無駄に感動してしまったくらいだ。
それだって表情で気づいたわけではなく、数ある携帯食の中から必ずそれを選ぶからだが。
(騎士になれたことは喜んでる──と思うが)
数ヶ月前、巣を一つ潰し損ねて大繁殖してしまった霜牙兎の討伐協力の要請を冒険者ギルドから受けたとき、ギルド側から派遣されてきた冒険者の一人が、セルツェだった。
耐久戦とも言えるその討伐任務で、黙々と戦闘を続ける集中力や持久力に加え、剣の腕も非常に優れていたので、目についていた。
それだけだったなら、マールスも「優秀な冒険者がいるな」くらいで流していたが、セルツェは魔導師としてでも充分通用しそうなほど、魔法にも長けていたのだ。
その才能を目の当たりにして、確保しないわけにはいかない。
なぜ、希有な才能を有しながらも騎士職に就かず、冒険者として生活していたのか。
思いがけず複雑だった事情を初めとして紆余曲折はあったが、マールスは自分でも驚くほどの勢いで団長を──そしてなによりセルツェ本人を説得し、無事に第三部隊所属の騎士として迎えたのだった。
常に人手不足の第三部隊に彗星のごとく現れた優秀な新人を、他の騎士達も受け入れ、可愛がっている。
とても整った容姿をしているのに、この国では珍しい肌色や態度のせいか意外なほど女にモテないのも、好感を得ている理由だろう。
実際、入隊当初は「人手が足りないのに広報係でも入れたのか」と嫌味を言われたマールスである。
未婚の隊員達は魔物討伐部隊としての人気を、自他共に認める美貌の騎士であるヴェーチルに総取りされていることで、少しだけ、ほんのちょっぴり、繊細になっているのだ。
(言うほど他の連中もモテてないわけじゃないと思うんだがなぁ)
ヴェーチルが目立つせいで、目が曇ってるらしい
それに気づいた奴から結婚するんだろうなと思いつつ、マールスは気持ちを切り替えるようにゆっくりと瞬きをした。
セルツェがいる木の更に奥、その更に奥にも、無数の気配が息を殺して、マールスと同じように気配遮断の魔法が付与された外套に身を包んで潜んでいる。
首都の西側にあるハヴェンの森北東部で、瘴気濃度の上昇が観測されたと第四部隊から知らせがあったのが、三日前。
即座に第三、第四の精鋭で確認に向かわせ、通常の三倍以上ある大角猪の個体が発見されたのが昨日の早朝。
その翌日──つまりは今日。第三部隊から十人、第四部隊から五人も人員を確保できたのは、多忙を極める魔物討伐部隊からすれば、非常に運が良かったと言えた。
そこに聖女二人とマールスを加えた十八人が、今回の討伐部隊の編成内訳である。
大角猪は魔法こそ操らないが、頭部にある凶悪な双角が非常に厄介な魔物だ。
分厚い皮と筋肉に覆われた巨体から繰り出される突進を止めることに失敗すると、悲惨なことになる。
逆にいえば、動きさえ止めてしまえば仕留めるのは簡単なのだが、今回は通常個体よりも大きさが数倍ある。
何事もなく討伐終了──とはいかない可能性が高かった。
(昨日の昼に、第一班が戻って来てくれたのが有り難かったな)
ハジュールの班が、予定より三日も早く討伐任務を完了させて帰還してきてくれたことに、マールスは心の底から感謝した。
今回の討伐が無事に終わったら、第一班の連中を連れて美味い酒を飲みに行こうと決める。
マールスがそうやって気合いを入れ直したところで、折良く標的が川向こうから姿を現した。
昨日の早朝と同じように、川に水を飲みに現れたのだ。
巨体故に、習慣がしっかりと周辺に残っていてくれたことに感謝しつつ、マールスは外套から左手を出して挙げた。
瞬間、あらかじめ敷いていた隔離結界が発動される。
核に高純度の聖石を使用した結界の効果は絶大で、異変に気づいた大型大角猪が後退しようとした尻を焼いた。
「ヴォォオオ!」
「こっちだ! 間抜けめ!」
「来い! その角へし折ってやる!」
怒りの咆哮をあげた大型大角猪の前に、わざと大声を上げながら、第一班の剣士が重装備姿で躍り出る。
構えられた大盾は付与された魔法によって、独特の光を放っていた。
「ヴォオッ」
再び咆哮をあげ、大型大角猪は吸い寄せられるように大盾に視線を向ける。そのまま突進するための足踏みをすると、右の前足が僅かに川の水に触れた。
その隙を逃さず、優秀な第四部隊の魔導師による氷結魔法が発動した。同時に、物陰から一斉に残りの騎士達が飛び出す。
「足を狙え!」
「目を射ろ!」
魔法によって凍らせた前足を、鉄槌が容赦なく抉り砕く。同時に目を矢によって潰され、大型大角猪はたまらずその場に頭から倒れ込んだ。
凍った川の水を角が抉り、氷塊をまき散らす。
何人かがそれに巻き込まれて転がったが、大怪我を追った者はいなそうだった。
「隊長!」
呼ばれるまでもなく、マールスとて駆けだしている。
意図を察したセルツェが、マールスの行動を手助けするために腰を落とした。
組まれた両手に遠慮なく足をかけて跳ね上がり、加護を受けている精霊の名を囁いて抜剣する。
青緑に輝く剣身がマールスの跳躍とともに美しい軌道を描き、大型大角猪の首を見事に両断した。
それが下の氷も断つ前に、手早く納剣する。
魔物の血は空気に触れた途端に瘴気となって霧散するため、即座に聖女達が浄化魔法を唱える。
赤黒い霧が光の粒となって消えていく様は、いつみても圧巻だった。
「いやぁ、何度見ても綺麗な光景だな」
「本当に。出来れば見なくて済むようになりたいですけれどね」
背後からかけられた声にマールスが振り返ると、ハジュールが歩み寄ってきていた。
隣に立ってから、ふっと視線を下に向ける。足下で何かを確信したように、嘆息した。
「ああ、本当に彼は優秀ですね」
「うん?」
「セルツェですよ。後で酒でも奢ってあげてください。隊長の尻拭いをしてくれたようですから」
「ああ? 尻拭いってなんだ尻拭いって」
「川の氷、絶対に切れてましたよ。崩れる前に補強して貰えてよかったですね? 崩れれば第四の方々が気づいてやってくれたでしょうが、確実に何人かは流されてましたよ」
「うっ」
マールスが所有する精霊剣は、マールスが第三部隊の隊長になるための後押しとなってくれたが、切れ味が良すぎるのが玉に瑕だ。
その扱いにまだまだ修練が必要だと思い知らされる日々だ。
「……お前らにも苦労かける。俺がもう少し、こいつと仲良くなれればいいんだが」
「責めたわけではないですよ。そちらの気まぐれな姫君に、何度我々の命が救われたことか」
「……そう思って貰えていることが救いだ。さて、なんとかご機嫌をとりつつ、解体を手伝わないとだな」
「そうですね。あの巨体ですから、手際よくいかないと。隔離結界が保つ間に終わらせないと、余計な魔物が寄ってきてしまいま──」
言葉半ばで、結界の外側に視線を滑らせたハジュールが目を見開く。
その所作に反応してマールスも素早く振り返ると、結界の近くに、別の大角猪が姿を現していた。
そして忌むべき事に、その個体も通常の二倍ほどの巨体を有しており、何かを捜すようにうろついている。
「すでに分体してたのか」
「みたいですね。大角猪は群れませんから」
マールス達以外も存在に気づいたらしく、一部がざわついている。
指示を仰ぐような視線を感じながら、マールスは必死に頭を働かせていた。
大角猪程度の知能では遮断結界の違和感に気づくことはないだろうが、大型を見逃すわけにはいかない。
結界があるうちに内側に追い込んで、同じように討伐するのが最善だが、魔物は元が同じ個体であればその存在を吸収できるのだ。
分体とは、文字通り存在そのものを分裂させるそれだ。
一部の魔物の増殖方法の一つで、下手をすると有性生殖する種類より質が悪いこともある。
分離させた個体を吸収することで、強くなったり回復したりするからだ。
処理の終わっていない大型大角猪を横目に、マールスは眉間に皺を寄せた。
「大盾一名と、遠隔三名で班を再編制して、あの個体を結界周辺に留めろ。魔導師二名は、再び遮断結界を張る準備をしてくれ! 現在の結界が消失するのと同時に、追い立てて閉じ込める! 残りは解体に全力を注げ!」
マールスの指示でざわめきが治まり、すぐさま指示に従って人員が動き出す。
編成に手間取る様子があれば名指しようと思ったが、それはマールスの杞憂だったようで、脳裏に名を上げていた者達が当然のように動いていた。
「うーん。俺の部隊最高」
「馬鹿なことを言っていないで、貴方は不測の事態に備えていてください」
再編班の遠隔の一人として動き出したハジュールが、矢筒に手を伸ばしながら背後を通り過ぎる。
それを横目で見送ろうとしたとき、バジュッという音とともに視界を一瞬奪うほどの閃光が奔った。
「なん……」
「ヴォアアアッ」
マールスの声を、大角猪の咆哮がかき消す。
まだ微かに霞む視界を瞬きで補いながら視線を向けると、この場に留めておかなければならないはずの大角猪が猛然とどこかへ駆けだしていた。
「なんっ」
さすがに意味がわからず動揺を口にしたマールスの脇を、黒い風が駆け抜ける。
「追います。方向がまずい」
ぼそりと残された呟きがなければ、それが尋常ではない速度で駆けだしたセルツェだと気づくのに時間がかかったかもしれない。
同時に、マールスは残された言葉の意味に戦慄した。一匹と一人が駆けていった方向の空では、白い雲が時折歪んで見えている。
首都ウルイプカを護る防護結界の、空間の歪み。
頭で理解するより先に、体が動いていた。囁いた風精霊の名が、マールスの体を軽くする。
第三部隊の中で、大角猪に追いつく脚力を発揮でき、また止められる力を持っているのは誰か。それは本人達が誰よりも知っている。
「再編、及び第一班は俺に続け! 第二は聖女様の役割が終わり次第、護衛して追従! 残りは解体に専念。余裕があれば合流しろ!」
叫ぶように指示を残し、速度を上げる。
全員が聞き取れたか怪しいが、傍にいたハジュールが復唱するだろう。
そう確信して、マールスは見失いかけていた背中に追いすがった。
「何が起こったのかわかるか?」
脇について声を掛けると、セルツェは眉間に皺を寄せた。
「いいえ。ですが、位置的に聖石があった場所かと」
「……割れたのか!」
閃光の理由に思い当たり、マールスの顔にも苦みが奔る。
おそらく、二度目の遮断結界の準備を急いて、発動していた結界への魔力操作を誤ったのだろう。
瞬間的に湧いた責めを奥歯で噛み殺して、マールスは大角猪の尻を追うことに集中した。
あの規模の遮断結界を、高純度とはいえたった一つの聖石の補助だけで展開し続けてくれていたのだ。
しかも、切れたらもう一度張りなおせと無茶ぶったマールスの指示に、結界を維持していた魔導師は二人とも頷きしか返さなかった。
無茶をこなそうとしてくれていた気概を、どうして責められようか。
あの二人の失態に言及できるのは、正しく彼らを導ける、第四部隊の隊長だけだ。
「……網?」
「ん?」
何かに気を取られてぼそりと呟いたセルツェの言葉を聞き漏らし、マールスは横を見たが、すでに黒髪の男の姿はそこになかった。
「お、わっ」
遅れてきた瞬間的な加速の余波に煽られて、一歩よろめく。
風精霊の加護を足に纏っていなかったら、尋常ではない転び方をするところだったが、悪態は喉奥で引っ込んだ。
視界の先で、細い氷柱が何本も地面から鋭角に突き出ていたからだ。
セルツェが己の体を強引に前進させるために使った痕跡を横目に、後ろに叫ぶ。
「絶対に門壁に近づけるな! 結界の前で仕留めるぞ!」
届くかわからない命令だったが、言わないよりはマシだろう。
そしてマールスもまた、部下達に分けていた加護を自らの足に総て集めた。
セルツェの痕跡を追って、少し開けた場所に飛び出す。
そこで目にした光景に、マールスは驚愕した。
瞬間に湧いたのは、部下の愚かさに対する怒りだ。
あんな無茶な加速などするから、標的との位置関係を見誤ったのだと思った。
(ばっか野郎が!)
怒りのままに怒鳴り、踏切り、間抜けな部下を助けるための一撃を振り下ろす。
すぐに聖女が追いつくとわかっていたから、マールスは部下を叱りつける言葉を吐こうとした。
しかしそれよりも先に小柄な少女の姿が視界に入り、失態を犯したのは己の方だと知る。
セルツェは魔物との距離を見誤ったりなどしていない。
騎士として、その瞬間に出来る最大限のことをしただけだったのだ。