聖女とは仮の姿(2)
何もできなかった。
どんなに力があったとて、的確に動けなければ意味がない。
恐怖と混乱に、血の気が引く。
何かを思う間もなく何かにあたっては身体が回転し、おそらくは雪に突っ込んだことで視界が暗転した。
衝撃による痛みは加護のお陰かまったくなかったが、頭はくらくらしているので、実際はかなりの強さだったのだろう。
(状況を、確認しなきゃ)
そう思って身を起こそうとしたが、雪が上から容赦なく落ちてきて阻まれた。
「──うぐっ」
起点の上部にいたからか、それはすぐに止まったが、静寂は短かった。
すぐにそこかしこでうめき声や悲鳴が上がる。
分厚い膜越しのように届くそれらをかきわけて、怒声が響き渡った。
「動ける奴は掘れ! 一人でも助けろ!」
その一言に、ぐらぐらしていた意識が覚醒する。
幸い、声が聞こえていたお陰で上下に迷うことはなく、力に任せて雪をかき分け、這い出した。
「ぶはっ、はぁ……はっ」
途中で見つけた意識のない一人も引っ張り出してから、大きく息を吸う。
地表に出られたことで、酸欠になりかけていたことを知った。
ラシオンは雪深い地域だ。
雪崩や落雪にあったとき、口や鼻が雪で詰まらないよう手や布で守るというのは、子どもでも知っている最低限の防衛手段だが、咄嗟に出来るかと言われたら、別問題だなと思い知らされた。
己をみっしりと囲った氷雪を押し退ける力が私になかったら、あっけなく窒息死していたかもしれない。
恐怖と酸欠で速まった鼓動を宥めつつ、周囲を見渡す。
しかし、深く吸い込もうとしていた息は、目の前に広がっていた光景によって詰まった。
散乱した物資と、砕け折れた木々、それらとの接触や落下によって負傷した人々。
所々に散る赤があまりにも鮮やかで、残酷だった。
「──っ」
覚悟していたつもりだったのに、あらぬ方向に折れた足を抱えて呻く者や、運悪く木片に腹部を貫かれた者の姿を目の当たりにして、震えを抑えることが出来ない。
しなければならないことがあるのに、頭が真っ白になった。
「声を出せるなら叫べ! 魔導師は無事か!? この際、魔法で吹っ飛ばしてもいい! とにかく雪の中から出せ!」
かろうじて難を逃れた──というよりは、なんとか動けるから動いている者達が、必死に救助や治療に当たっている。
その中には、イーニー様もいた。無事だったことに安堵したのもつかの間、口元が盛大に血で汚れている。
落下の衝撃で内臓を損傷しているのだと、容易に想像出来た。
回復薬を飲んだのか、治療を受けたのか、どちらも無視して激痛に耐えているのか。
経験したことのない光景を前に、覚悟とは別の何かが試されるようだった。
まず何をすべきかを正常に判断できなくて混乱しかけたとき、近くで声が上がった。
「誰か、この木を退かすのを手伝ってくれ! 下に聖女様が!」
その一言に、周囲の意識が一斉にそこに向かう。
怪我に呻いていた者すら助けるために立ち上がろうした姿を見て、呆けていた自分の情けなさを恥じた。
両頬を思い切り叩いてから、立ち上がる。
満身創痍の兵士達が数人がかりで退かそうとしていたところに割り込んで、木の幹を一息に押し退かす。
急に大きく動かしたことで、寄りかかるように力をかけていた数人を転がしてしまった。
「え? おわっ」
「あれ、聖女様!? なぜ、もう一人──」
物資部隊には、一人しかついていなかったらしい。
誰かの驚きを無視して、雪に半分埋まっていた聖女を引きずり出す。
とにもかくにも、頭部が無傷だったことに安堵する。
綺麗な黒髪の、若い聖女だ。
聖女同士で軽く自己紹介しあった時、初めてニフリトと会ったときにもいた人だと気づけたので、私の印象に強く残っていた。
「聖女ナジャ! しっかりして!」
名を呼ぶと、微かに瞼が震える。息を吸おうとして、盛大に血を吐いた。
「大変──。第三の加護・治癒」
強く手を握り、全身に行き渡るよう魔法を発動させる。引き攣っていた聖女ナジャの呼吸は、見る間に落ち着いた。
わっと、周囲から安堵の声が上がる。
「──あり、がとう。聖女ラフィカ」
生真面目そうな面差しを裏切らず、私の名を迷うことなく呼ぶ。
聖女ナジャは呼吸を整える間に、周囲を見渡して表情を険しくした。
「私は中・軽傷者を。貴方は重傷者をお願いします」
即座に己と私の力量で仕事を割り振りながら、立ち上がる。
「行動に支障のある中・軽傷者は私の元に! 治癒を受けて救助を急いでください」
はきはきと指示を出してはいたが、握ったままだった聖女ナジャの手は震えていた。
きっと、私の手も震えている。
けれどその恐怖が、互いを奮い立たせた。
互いに目を見合わせてから、それぞれの役割を果たすために動き出す。
私は真っ先に、イーニー様の元に向かった。
他にも重傷者はいたが、戦闘能力の高い者に、周囲を警戒してもらわなければならない。
(この騒ぎと血の臭いに、寄ってこないわけが──)
「魔物だっ」
まるで舞台劇のようなタイミングの良さで、誰かが叫ぶ。
木の枝に積もっていた雪が、揺さぶられて落ち、枝葉の隙間のそこかしこから、霜猿の鳴き声が響き渡った。
弱った獲物を前に、喜々と興奮している。
それに気を取られた隙を突くように、魔氷熊が飛び出してきた。
負傷して逃げることが出来ない兵士が、悲鳴を上げる。
「うわぁあ!」
兵士と鋭い爪の間に滑り込んだのは、イーニー様だった。
「──っぐ」
剣によってかろうじて軌道を逸らされた前足が、斜め下に振り下ろされる。
それと同時に、イーニー様も吐血して片膝をついた。
その頭を囓り取ろうとした牙が、境界に出現した結界によって弾かれる。それはあっけなく砕けたが、彼を一撃からしっかりと護った。
「聖女ラフィカ! 治癒を!」
聖女ナジャの声に、はっとする。
己の判断の遅さや間抜けさに、怒りが湧いた。
(経験も足りない。根性も足りない。馬鹿! 間抜け! 細かな判断が出来ないなら、せめて動きなさいよ!)
怒りのままに、腰帯から聖杖を掴み取り、強く握り込む。
(治癒も再生も、施される側の体力を消耗させてしまう。この後の事を考えれば、すべての負担を私の魔力で請け負ったほうがいいわね)
女神エレジアに感謝しつつ、私は杖を地面に突き立てた。
「慈悲深き女神エテルノよ、その眩しき光をここに。第五の加護・蘇生!」
効果を最大限にするために、言霊を一言一句唱えてから発動させたそれを、聖杖が範囲魔法として展開させる。
眩い光のヴェールが負傷者を包み込み、瞬く間に癒やしていった。
同時に、まだ雪に埋もれている者達の延命も果たせていると信じたい。
一度経験しているからか、急上昇した体温に戸惑いはしなかった。
むしろ、範囲は広がったというのに、前回より楽にすら感じる。
(身体が慣れてきてるのかしら?)
「あ、足がくっついた……?」
誰かが、戸惑いの声を漏らす。
しかしそれは、優位が消えかけていることに気づいた霜猿が動いたことで、再び混乱に転じた。
「うわぁ」
「ぎゃっ」
咄嗟に動けなかった者達が、飛びかかられて押し倒される。
その背後から更に氷牙狼の群れが現れたことで、傷が癒えたというのに兵士達は怯んでしまっていた。
「第一の加護・浄化!」
浄化を発動し、周囲の魔物を一瞬怯ませる。
「聖女ナジャは結界を! 土と氷を扱える魔導師は救助を優先、他の者は魔物の排除を!」
私の言葉に反応したのは、聖女ナジャと一部の兵士だけだった。
未だに動けないでいる兵士達を、聖女ナジャの結界がかろうじて護る。
攻撃を受けていては結界の範囲を拡大できないため、救助が遅れてしまう。
歯噛みした矢先に、大角猪が氷牙狼を蹴散らしながら新手として現れた。
真っ直ぐに、私に向かって突き進んでくる。
「こ、こんなの無理だ」
「殺されるっ」
「馬鹿を言うな! 聖女様を護れ!」
魔氷熊の首をなんとか落としたイーニー様が、私の方に駆けつけようとしながら叫ぶ。
間に合わないと悟った手が剣を大角猪に向かって投擲し、見事に片目を潰したが、大角猪の勢いは止まらなかった。
「うわぁああ!」
「馬鹿なことしないで!」
やけくそのように私の前に飛び出してきた兵士を突き飛ばす。
間抜けに雪に突っ伏した兵士を跨いで、真っ直ぐ突き進んできた大角猪と対峙した。
いつかは、護衛の騎士が私の代わりに貫かれた。
いつかは、セルツェが盾となって貫かれた。
「もういい加減、その角にはうんっざりなのよ!」
完全な八つ当たりだが、同種族だったのが運の尽きだ。
悔しさや怒りを目一杯込めて、私は聖杖で大角猪を横殴りにした。
まず間違いなく、この魔物の三倍はあった魔氷熊を殴ったときよりも力んだ気がする。
当然のように片方の角が砕け、頬骨が砕け、殴られた勢いのままに巨体が吹き飛ぶ。
横殴りにしたので、それは少なくない数の他の魔物を巻き込んで轢き潰し、十メートル先にあった巨木をへし折って止まった。
「へぁ……?」
雪から顔を上げた兵士が、間抜けな声をあげる。
それを無視して、私は晴れ晴れとした気持ちで額の汗を拭った。
「ふぅ、やっぱり私みたいなのは、考えるより動くべきね!」
奇妙な静寂の中、殴った際に抜け落ちたらしいイーニー様の剣を拾う。
「貴方は、一体……」
走るというよりは戸惑いの足取りで側に来たイーニー様に、柄を差し出した。
「さあ? 聖女なんじゃないですか」
強い魔物と戦いたかったのも、騎士になりたかったのも、一人でも多くの大切な人を護りたかったからだ。
理由が明確になってからは、自分の肩書きがあまり気にならなくなっていた。
けれどさすがに、他の人たちから見たら、私は聖女の皮を被った別の何かに見えるのかも知れない。
「え、と……あの」
言葉に詰まったイーニー様に肩をすくめつつ、周囲を見渡す。
少し前の自分を思えば言えた義理ではないが、未だに呆けている者が多くて、苛立ちが湧いた。
揃いの兵服姿が、記憶にあるミルクーリー騎士団の兵士たちの勇猛な姿と、あまりにかけ離れているからかもしれない。
(……さっき死にかけたんだもの、仕方がないか)
「戦えないなら戦わなくていい。だけど、救助には参加して! 大丈夫。貴方たちは、私が護る!」
そう言い置いて、再び視線を魔物に戻す。
魔物達とて、いつまでも動揺してくれてはいない。
事実、聖女ナジャに狙いを定めた霜猿が、結界に飛びかかろうとしていた。
それを殴り飛ばしたところで、爪先からびゅるっと瘴気混じりの毒が放出される。
霜猿という名で呼ばれてはいるが、その生体は生息地が違うと言うだけで苔猿と同じだ。
「浄化!」
被りそうになったそれを浄化で消し飛ばそうとしただけだったが、思いのほか威力がこもっていたらしく、範囲内にいた霜猿が真白の炎に包まれた。
それは数秒のたうちまわった挙げ句、絶命する。
その死体から瘴気がまき散らされることは、当然ながらなかった。
(強力な浄化は、魔物への攻撃になる?)
それは私にとって、偶然にもたらされた最高の知識だった。
物理で届かない範囲に、対処できる。
己の小柄さに内心で歯噛みしていただけに、解決策が出たことで、身体の芯に残っていた震えが、高揚に変わる。
「いつまで腰を抜かしている! 武器を取って戦え!」
先ほどの宣言の余韻も消えぬうちに、真逆とも言える鼓舞が口から飛び出してしまった。
兵士達にというより、魔物の群れに飛び込もうとしている自分への最後の一押しとして──だったので、許されたい。
幸いというのはあれだが、雪崩に巻き込まれたのは物資部隊だ。
作戦の重要性を考えれば、本隊は救助ではなく先に進むことを選ぶだろう。
物資部隊の退路を一秒でも早く切り開き、追いかけなくてはならない。
その一心で飛び出した私の背後で、イーニー様が叫んだ。
「なんのためにここにいる! 聖女様に続け!」
「うおぉ!」
イーニー様に続くように、誰かも叫ぶ。
それは瞬く間に広がって、雪降る山に響き渡った。
◇ ◇ ◇
背後が崖だったこともあり、脱出には不利な状況だったが、士気を取り戻した兵士達は予想以上に奮闘した。
その上更に、冒険者部隊が何組か駆けつけてくれたのだ。
伝達器も信号弾も紛失していた物資部隊の代わりに、崖上の本隊が応援を要請してくれていたのだ。
彼らの登場により、物資部隊は無事に危機を乗り越えることができた。
疲弊した身体に鞭打ち、誰も彼もが誰かの肩を借りるようにして、麓へ向かう。
ただ一人、それに混ざらなかった私に気づいたのは、雪崩に巻き込まれる前と同じように、殿を務めていたイーニー様だった。
雪と泥にまみれてもなお輝かしい美貌に、思わず笑う。
脈絡も無く笑った私に、イーニー様は目を瞬かせた。
「ごめんなさい、美しい人はどんなに汚れても美しいなと思ったら、おかしくて」
「褒め言葉なんでしょうが、今の貴方に言われると、少々皮肉ですね」
「え?」
思いがけない言葉に戸惑った私の姿を、イーニー様の視線が撫でる。
ぶしつけなそれではなく、促すような視線に釣られて己を見下ろしたことで、言葉の意味を理解した。
私のローブは、場違いなほどに真っ白だったのだ。
「いえこれは、ローブの防汚魔法と、浄化の影響で……!」
慌てて言いつくろおうとした私の言葉を、人差し指で遮ると、イーニー様は唐突に跪いた。
驚いて半歩下がった私の手を、引き留めるように掴む。
「感謝します、純白の聖女。貴方のお陰で、大勢が助かった」
掴んだ私の手に額を押し当てて、騎士が感謝を告げてくる。
しかしその一言は、私にとって何よりも鋭い刃だった。
「……感謝なんて……私は、私は誰一人」
死なせないつもりだった。
本気でそう思っていた。
そうできる力を得ていたとしても、状況がそれを許さないことがあるとわかった上で、それでもと誓っていた。
肉体から魂が離れるまでの時間は、あまりに短い。
そして私たちには、深く埋まってしまった者達を掘り出すための時間も、余力もなかった。
私ならば、時間をかければ掘り出せるだろう。
しかし彼らにはもう、蘇生の祈りは届かない。
弔うために掘り起こしてあげたいが、駆けつけなければならない場所がある以上、今ではない。
こんなはずじゃなかったと、己の無力さを喚きたい気持ちを抑えられているのは、やるべき事が──護るべき人たちがまだいるからだ。
「ごめんなさい。私には、まだやるべき事があるので、行きます」
「え? ……まさか、貴方」
驚きに見開かれた瞳が、私を見上げる。
私の行動を予測したのか、イーニー様が私の手を掴む力をぐっと強めた。
「無理でも、無謀でも……絶対に嫌。もう誰も、死なせたくないんです」
だから行かせてと言う前に、イーニー様の手は離れていた。
それを望んでいたのに、いざ許されると戸惑う。
「行ってください。私の気が変わらないうちに」
私の困惑をくみ取って、イーニー様が告げる。
それに促される形で、私は大きく頷いた。
背を向ける間際に見てしまった表情が、私の決意を更に固くさせる。
己の誇りと私的な願いに揺れる、迷子のような瞳だった。
(気合いが入る理由が、一つ増えたわね)
この状況で、騎士が聖女の単独行動を許すのは、殺すことと同義と取られてもおかしくはない。
誰一人欠けることなく戻り、彼の騎士の判断が正しかったのだと、証明しなければならない。
今回はホームランではなく、ゴロ。ただし当たったら死ぬ。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
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