眠りを妨げるもの
進むごとに濃度を増していく瘴気に、嫌でも緊張感が増していく。
山に入ってしまえば魔物から身を隠すような術は無意味になるので、皆が皆、今回のために新しく支給された外套を身に纏っていた。
瘴気に反応してうっすらと白く輝いているのは、大気に混じる瘴気を浄化しているからだ。
ラススヴェート様とカナリス姉さんが、完成させた外套。
数十の素材を組み合わせた糸と、魔導銅糸を縒り合わせたもので編まれており、強度と魔力伝導率が極限まで高められている。
少ない魔力で最大限の効果が発揮できるように仕上がっているため、その分、三重に魔防魔法が刻まれており、更に私が提供した聖石もとい、聖粉末をコーティングしているので、瘴気対策もバッチリな代物だ。
ちなみに、聖女や王子、隊長格の人たちのものには真魔銀糸が使われており、さらに防御力が上がっている。
そして私のローブには、恐ろしいことに真魔銅糸が使われていた。
姉の贔屓が天元突破どころの騒ぎではない。
まさかそんな貴重なものを協力の報酬として要求したのかと青ざめたが、自分で作ったのだと言われて、脳が理解を拒否した。
混乱する私に、ラススヴェート様が補足説明を付け加えてくれたおかげで、ようやく事実として飲み込むことができたが、未だにちょっとよくわからない。
一番ただの布きれを纏っていてもいい存在が、一番防御力が高い装備を纏っているという矛盾。
ラススヴェート様はそれが協力の条件だったのだから構わないと言っていたが、他者が絡まなかったことで理解しはぐっていた妹贔屓の本気度に、若干引いてしまった。
天才には変人が多いと聞くが、姉は引きこもりなだけで普通だよな──と思っていた私の暢気さといったら。
姉さんの偏りっぷりも、しっかり天才のそれだった。
(私に出来ることは全部やった。後悔はないわ。いってらっしゃい)
出発の前、なんでもないように、カナリス姉さんは言った。
けれど、溺愛されている妹だからこそ、わかってしまう。
何かを覚悟しているような、運命を受け入れているような響きが、そこにはあった。
(いったい何が、カナリス姉さんにあんな顔をさせたのかしら)
達成感と憐憫と、少しの未練。後悔はないと言いながら、硬く握られた両手は暫く離れなかった。
(大丈夫よ、姉さん)
私が無事に戻ることが、なによりもカナリス姉さんへの報いになる。
それだけは、考えなくともわかる。
だからこそ、私はこの状況で、誰よりも素晴らしいローブを身に纏うことへの罪悪感を、義務にすり替えることができた。
ローブの留め具になっているブローチを、そっと握る。
そうやって決意を新たにしていたところで、前方がざわついた。
事態を把握するまえに、炎が複数の人影の輪郭を包む。
聖女が上げた悲鳴に被さるように、誰かが叫んだ。
「雪毛玉だ!」
ビリッと空気に緊張が走る。
魔導師達が素早く放った炎がぼぼぼっと絨毯のように大きく広がり、それによって照らされた光景に、誰かが「ひっ」と息を呑んだ。
それもそのはずで、物資を運んでいる部隊の半分が、雪毛玉の群れに飲み込まれている。それから逃れようとする者達を、更に大量の群れが追いかけていた。
雪毛玉。
直径十センチから二十センチほどの、見た目は本当にただの雪玉の魔物だ。しかしそれらは数千匹ほどの群れで行動し、獲物を取り囲むことで窒息死させる。
それがいま、数千どころか数万と思える量で、なだれ込んできていた。
一気に隊列が乱れ、あちこちでパニックが起こる。
氷山の生態系から襲撃を想定されていた魔物の中で、雪毛玉は最悪と言える種だった。
巨体で凶悪な魔物が凶暴化しているより、小物の集団がその数を増しているほうが恐ろしかったりするものだ。
「散るな! 固まって下を向け! 聖女を護れ!」
後方に迫った雪毛玉の先頭を大剣で振り払いながら、ザモークさんが叫ぶ。その間に、しっかり私を懐に抱き込んでいた。
他の冒険者も、我に返ったように顔を庇うように俯いたり身を丸める。
「マリーナフカ!」
「わかってるわ!」
返事と同時に上から炎が上から降り注ぎ、私たちを飲み込もうとしていた雪毛玉が焼き散らされていく。
外套の防御力に物を言わせた、強行手段だ。
大丈夫だとわかっていても、降り注いでくる炎の衝撃と熱気に、あちこちで小さな悲鳴が漏れる。
魔物の焦げる臭いと熱気に呼吸を奪われてどれほど経ったか。もう限界だというところで、今度は強風が下から吹き上がる。
軽い雪毛玉だけが燃え続けながら吹き飛ばされ、距離をとれたことで、更に強力な火魔法が追撃した。
さすがというか、討伐部隊に選ばれた魔導師達の判断力も魔法の威力も凄まじく、瞬く間に数を減らされた雪毛玉が散り散りに逃げていく。
ようやくザモークさんの懐から解放されて周囲を見渡すと、前方でも似たような対処がきちんとされており、乱れた隊列を直すための指示があちこちで飛んでいた。
前後で被害を確認し合った結果、物資の一部が燃えてしまったものの、人的被害は数人が軽い火傷を負った程度で済んでいた。
襲撃は恐ろしいものだったが、被害が最小だったことと、誰もが外套の素晴らしさに確信を抱けたことで、むしろ士気が上がったようだ。
過度な緊張に固まりがちだった空気が、ほどよいものに落ち着いた気がした。
「びびらされたが、恩恵もでかかったな」
再び進み始めた隊列の前方を眺めながら、ザモークさんが呟く。
周囲の誰もが頷き、眉間の皺を緩めたが、「だからって、油断しすぎるなよ」としっかり釘を刺されていた。
瘴気と冷気に囲まれての行軍なので、会話は殆どない。
だからこそ、雰囲気は大事だ。
私はなるべく後方に視線を向けるようにして、誰かと目が合えば微笑むことを心がけた。
聖女の笑顔が、この場にいる人達にとって、どれほど力になるか。
この短い旅の間に、痛いほど理解させられている。
厳しい行軍の中、私よりも体力的に厳しい他の聖女達ですら、なるべく笑顔を保とうと努力していた。
昨夜、天幕の中で泥のように眠っていた彼女たちを知っているだけに、その健気さと精神力の高さに畏敬の念を抱かずにはいられない。
聖女という存在の大変さや苦労を、手にした力の大きさゆえに深く考えていなかったことを、恥じる。
この行軍を通じて、私は私の浅慮さを思い知らされて、ちょっとぼこぼこだ。
でも、だからこそ、決意がより強固なものにもなった気がする。
どれほど進んだだろうか。
魔氷熊に降らされた氷槍の多さや結晶蜥蜴の堅さに翻弄されつつも、行軍は順調だったと思う。
順調すぎて、皆、足を進めることに集中していた。
鳴り響いた行軍を止める合図の笛の音にはっとして、顔を上げる。
その先には、不可思議な光景が広がっていた。
遠方からではよくわからなかったが、目の当たりにすると異様さが別格だ。
一キロほど先から一切の樹木がなくなり、氷柱がかわりのようにあちこちに突き立っている。
さらにその先にある頂は北側が大きくえぐれており、そこに邪竜の住処があることが窺えた。
氷柱は夕日を浴びて煌めいており、えも言われぬ美しさを演出していた。
畏怖を抱くのに、魅了もされてしまいそうな景色に、誰もが視線を奪われる。
それは前方部隊も同じだったようで、数分を経てから、野営の準備の指示が飛んだ。
つまり、ここが中腹らしい。
予定では真夜中までかかるはずだったので、思わず後ろを振り返る。
その動きに気づいたマリーナフカさんが、傍に移動してきた。
「外套様々ね。魔物への警戒ではなく、防寒に魔力を割くことができた。お陰でみんな、かなり体力を奪われずにすんだわ」
「天気にも恵まれたしな」
マリーナフカさんの言葉に、ザモークさんが付け足す。
山の天気は変わりやすい。
行軍予定は吹雪も視野に入れて組まれていたはずだから、それに見舞われなかったことで、かなり順調だったらしい。
「不思議だわ。山頂に行くほど瘴気にまみれていると思ったのに、ここは気味が悪いほど空気が綺麗」
マリーナフカさんの言葉に、誰もが息を呑む。
確かめるように口元を覆っていた布を下げて、深呼吸する者までいた。
そういえば、いつのまにか外套が瘴気を浄化しているときに発生する輝きもない。
清々しさすら感じる光景と空気に、誰もが複雑な気持ちを抱いたと思う。けれど、最期の夜に見る光景としては、これ以上ないものだったのだろう。
自由時間の殆どを、景色を眺めながら、仲間と語らうことに費やした者は多かった。
聖女を除いて。
(順調とはいえ、さすがに厳しいものね)
皆が皆、身を寄せ合うように眠っている。
眠りに落ちる間際まで、決意に満ちた顔で、互いを励まし合っていた。
決戦への恐怖に苛まれていないのは良いことかも知れないが、突き抜けてしまっただけのような気もする。
明日の朝もう一度、危機に瀕した際、己の死を受け入れないようにと警告しなければ。
そう思ったところで、小声で争う声が天幕越しに聞こえてくる。
入り口に寄って耳を澄ますと、警護に立ってくれていた騎士達と、誰かが揉めているようだった。
「頼む、あんたらだってわかってるだろう? これが最期なんだ。恐ろしくて眠れない。せめて聖女様に祈らせてくれ」
「馬鹿を言うな。死を覚悟してここにきたのだろう。お前の心の弱さを埋めるために、聖女様を煩わせるなどあり得ない。ただでさえ、行軍で疲弊しておられるのだ」
「俺だって、俺だって覚悟して来た。だが、だが……」
「自分の天幕に戻れ。落ち着かぬなら周囲の哨戒でもしていろ。他者に迷惑をかけるな。役に立て」
「うぅ……そう、そうだな。すまなかった」
「待って。私でよければ」
小声でそう告げながら顔を出すと、護衛騎士の二人が目を見開いた。
「いけません! お休みになってください」
思わず声を張り上げかけて、慌ててトーンを落とす。
あわあわとしている間にするりと天幕から出て、声が天幕に響かないよう、数歩離れた。
「聖女様!」
「大丈夫よ。私、後覚醒の聖女で、元は冒険者だったの。だから、体力は他の聖女の何倍もあるの」
「そういう問題では……!」
「大丈夫だと、私は言ったわ」
念を押すようにもう一度告げると、食い下がってきていた右の騎士が押し黙った。
煩悶するような表情を浮かべつつ、最終的には短く嘆息する。
「聖女様の、お望みのままに。ですが、決して無理はなさりませんよう」
「ありがとう。さあ、焚き火の側に行きましょう。私を通して女神に祈ったら、きちんと寝てくださいね」
「ああ、聖女様。ありがとう、ありがとうございます!」
その男は深く頭を下げるなり、てらいもなく涙を流し始める。
この場にいるということは、歴戦の冒険者のはずだ。そんな男がこんな風に泣くなんて。
しかし彼自身も、直前になって恐怖に怯え始めた自分に戸惑っているようだった。
焚き火に近づくと、眠る前の一時をそこで過ごしていた者達が隙間を空けてくれる。
そこに聖女である私がいたことで、誰もが目を見張っていた。
その視線の集中砲火を浴びても気にせず、男が私の前に跪づく。
「俺の──私の言葉に耳を傾けてくださり、心より感謝いたします。何も怖くなかった。本当に何も怖くなかったんです。妻には先立たれていたし、娘は嫁に行った。だから、この先生まれる孫のために、命を使おうと覚悟しました。──なのに、聖女様もご覧になったでしょう? 夕焼けに輝く、素晴らしい景色を。あれを見た瞬間、わけもわからず怖くなった。厳しい行軍の合間に起こる魔物との戦闘。その興奮と高揚に埋もれていたはずの感情が、あの景色に洗い出されてしまったのです」
途端、怖くてたまらなくなってしまった。
死を覚悟している。けれど怖いのだと、男が語る。
いつの間にか、周囲にいた者達も、男の言葉を真剣に聞いていた。
おそらく皆、同じ気持ちだったのだろう。
だから眠らなければならないのに眠れずに、火を囲んでいたのだ。
「すみません、長々と。それにこんなのは、祈りじゃないですね」
感情を吐露したことで落ち着いたのか、男は気恥ずかしげに立ち上がると、視線を下げる。
そこで始めて、私の背の低さや若さに気がづいたように、狼狽した。
「俺は、なんて情けない。聖女様のほうが、俺などよりよほど恐怖を抱いておられるだろうに──」
「いえ、別に」
彼の同情に、即答する。
「緊張はしていますが、怖くはないです」
「そんな。聖女様は、死が怖くはないのですか?」
「死は怖いです。でも、死なないので。皆さんもです」
ちょうどいいので、私たちを見守っていた人たちにも視線を巡らせる。
親に与えられた美貌を最大限に活かして、私は微笑んだ。
「貴方たちは、必ず護ります。誰一人、死なせません」
なんなら邪竜も私が倒す──と思っているが、さすがに口にはしなかった。
「……聖女様」
心からの慰めを受け取ったような声で、誰も彼もが祈るように目を閉じる。
だから私は、彼らを言葉で引っ叩いた。
「だから、無意味な恐怖に囚われていないで、さっさと寝てくださいね」
寝不足という、死亡率が上がるようなことをしないで欲しい。
だというのに、みんな凍り付いたように、その場で固まってしまった。
「私の声、聞こえてます? 解散。解散ですよ! それぞれの天幕に戻ってくださーい!」
焦ってみんなを促そうとした私の背後で、不意に誰かが笑った。
振り返ると、ルナー殿下が口元を押さえながら、その場に立っていた。
「殿下!?」
私の言葉に、全員がばっと立ち上がる。
挨拶をしようとした誰かを手で制し、ルナー殿下は全員を見回した。
「心を鬼にして、貴方たちにもう眠るよう命令しに来たのですが……私の出番はなかったようですね」
「そんな……その、殿下」
「私の命令よりも、よほど幸福な言葉を聖女から賜ったのですから、余計な言い訳などせず、しっかり休みなさい」
声音は柔らかいが有無を言わせぬ言葉に、全員が蜘蛛の子を散らしたように天幕に消えていく。
気がつけば、周囲には哨戒と警備にあたっている者達だけになっていた。
改めて、ルナー殿下が私に向き直る。
戸惑っていると、スッと手が差し出された。
視線に促されるまま手を乗せると、指先に口づけられて飛び上りそうになる。
驚きに目を丸くしている私を、いたずらっぽい顔で笑った。
そういう顔をすると、身に纏う雰囲気は違っても、ソンツァ殿下と双子なんだなと思わされた。
「ああ、すまない。深い意味はなく、敬愛を伝えたかっただけだ。この夜、この場に、貴方がいてくれたことに、心から感謝する」
「たまたまです」
「それでも、感謝している。どうか君も、しっかり休んでくれ。──我々を、護るために」
付け足された言葉に、ルナー殿下の抜け目のなさを痛感させられる。
そんなに言葉を交わしたことはないのに、私がどういう言葉を言われれば嬉しいか──従う気になるか、わかっているのだ。
私が怯むように眉尻を下げると、ルナー殿下は満足したように微笑んで、己の天幕に戻って行った。
その背を見送ってから、私も天幕に戻るために移動する。
途中、視線を感じて顔を向けると、セルツェが立っていた。
どうやら、付近の哨戒から戻って来たところだったようだ。
「こんばんは、セルツェ」
「こんばん……いや、今のはなんだ?」
「え?」
「なぜ、殿下が君に──その」
視線が私の手元を彷徨ったことで、何を目撃されたのかを知る。
私が手を持ち上げると、セルツェはじっと指先を睨んだ。
王子殿下の行動が、遠目に気になったのだろう。
「求愛されているように見えた? 残念、敬愛を示してくださっただけよ」
「敬愛……敬愛?」
「少しだけ、眠れない人の話し相手をしてたの。それに気づかれて、感謝してくださったのよ」
「──そう、だったのか」
どこか安堵したように、持ち上げていたままだった私の手に、己の手のひらを添えた。そのまま、おもむろに指先を親指で擦られる。
セルツェは手袋をしていたので、まるで拭うような仕草だ。
何をするのかと思って見守ってしまったが、さすがに予想外の行動だ。
「セルツェ?」
意図がわからず声を掛けると、はっと顔を上げる。
「いや、なんでもない。というか、もう真夜中を回っているぞ。君も寝ないと」
「え? ええ、そうね」
「天幕まで送ろう。はやく」
「え、ちょ、ええ?」
会話もそこそこに、天幕まで送られる。
護衛騎士が突然現れたセルツェを見て目を輝かせていたのが、印象的だった。
どうやら、セルツェは一部の騎士にとって、憧れらしい。
彼の実力を思えば当然と言えるが、なぜか私がこそばゆくなってしまった。
横になりながら、セルツェに触れられた手を見つめる。
国の王子様に口づけられたことより、彼に触れられた事の方がドキドキする自分に、少し情けない気持ちになった。
(そんな余裕はないのよ、ラフィカ。しっかりして)
まぁ、相手が王子だろうが、敬愛だろうが、気に食わないよね。
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