静火が灯る夜
首都の北西へ二日ほど進むと、三つの峰が連なる氷山の麓へたどり着く。
スィンススと呼ばれる氷山の最も高い峰の山頂に、ラシオンが宿敵とする邪竜が棲んでいた。
山を降りてくることはないが、その存在が放つ魔力と瘴気は大気や大地を通じて他の魔物を強化させる。
しかし、魔物は邪竜の支配下にあるわけではなく、日増しに強まる邪竜の力を恐れて徐々に氷山を下り、森を離れるのだ。
そして、人里に近づく頃には、強すぎる邪竜の力に当てられて凶暴化しており、手当たり次第に人や動物を襲うようになっている。
特に厄介なのは分体するタイプで、邪竜が力を放ち続ける限り、常にない頻度で分体と融合を繰り返し、より力と凶暴性を増していく。
これらに手がつけられない状況になる前に、大元である邪竜を討伐しなければならない──というわけだ。
邪竜は再生するが、再び周囲の魔物に影響を及ぼすほどの力を放ち始めるまでには数十年を必要とする。
各国は邪竜討伐によって失った戦力をこの期間に補い、再びの戦いに備えなければならなかった。
(そうやって、二千年もの長い間、繰り返し戦ってきた)
邪竜が育ちきるまえに討伐すればいいのでは? と単純に考えてしまうが、その戦力がないのだ。
邪竜や魔物との戦いには瘴気を浄化できる聖女の存在が必須だが、その数は残酷なほど少ない。
戦場でも有効なほどの力を発揮できる者となると、更に減る。
人々は、邪竜との戦いの間隔を可能な限り引き延ばし、その間に新たな聖女の誕生を希い、生まれれば護り、育てなければならなかった。
一つ歯車が狂えば容易く絶滅してしまう運命の綱の上を、この世界の人々は歩いている。
「……そもそも、邪竜や魔物ってなんなのかしら」
思ったことが声に出てしまったらしく、向かいの揺り椅子に座っていたニフリトが、手にしていた本から顔を上げた。
スィンスス氷山への出発を明日に控えた、静かな夜。
ニフリトは自分の屋敷だと息が詰まるからと、私の家を訪れていた。
使用人達に悪気はないだろうが、まるで最期の一日だという体であれもこれもと世話を焼かれてしまい、たまらず逃げてきたらしい。
「ごめん。考え事してたら、声にでちゃった」
「いいわよ。少しお話ししましょ。本を読んではみたものの、全然内容が頭に入ってこないし」
ニフリトは軽く肩を竦めてから本を閉じ、椅子の背もたれに身体を預けた。
パチパチと、暖炉の奥で炎が爆ぜる小さな音がしている。
大分暖かくなってきてはいたが、今夜は妙に冷え込んでいた。
「確かに、魔物ってなんなのかしらね。私は、瘴気に適応した動物説が有力だと思っているのだけれど」
「動物の変異体ってこと? 確かに、姿が動物に近いものが多いものね。でもなんで魔物って、人間を優先的に襲うのかしら」
「人を襲うのは、邪竜の影響が強まってきてからの傾向でしょ?」
素朴な疑問を口にすると、ニフリトが即座に返答してくれる。
質問をして答えをもらったのに、私の口からはなぜか訂正の言葉が出てきた。
「違うわよ。元から、他種の魔物や動物よりも人間を襲う傾向があるわ。邪竜の影響が関係してくるのは、そこから更に聖女を優先的に狙うってことだったはず」
「そう、なの? 神聖魔力に反応して、人間の中でも聖女が優先して狙われるものなのだと思っていたのだけれど……。その傾向すら邪竜の影響だなんて、気になるわね。あとで貴方が読んだ本を教えてくれる?」
「ええ──と?」
どこから知識を得たのかと問われたことで、その源が思い当たらないことに気づく。
ヴィクトリアの時も魔物についてはよく調べていたが、そのときに読んだ本や論文から得た知識でもなさそうだった。
(いやだ私、なんであんなに確信を持って言ったのかしら)
「ラフィカ? もしかして、タイトルを忘れてしまったの?」
「……そう、なのかも? 思い出したら、教えるわね」
誤魔化しの返事をしつつも、内に湧いた疑問を振り払えない。
どこで得た知識だったかとしつこく脳内を漁っている途中で、ミルクーリーへ向かう途中、ニフリトの馬車を襲っていた雪割りの群れのことを思い出した。
邪竜の強い影響を受けていたとはいえ、本来の狩りとは異なる手段で聖女を襲撃していた様は、異様だった。
「貴方を襲った雪割りの群れ、覚えてる?」
「忘れるわけないわ。どうして急にその話?」
「ふと思い出して。馬車に群れで襲いかかっていたでしょう? それがとても異様で──」
「邪竜の影響とは別に、気になることでもあったの?」
「あの魔物って、本来は湖の薄氷を使って狩りをするのよ。それも単独でね。なのに群れで馬車を取り囲むなんて、あまりにも本来の生態とはかけ離れすぎてて」
「魔物に詳しいのね。あ、そうか。貴方って元冒険者だったわね。でも、そう言われてみると、確かに違和感はあるわね。普段単独で狩りをする魔物が、あんなに綺麗に群れで連携できるものかしら? それこそ、凶暴化しているなら余計に妙ね」
「そう! そうなのよ!」
的を射たニフリトの言葉に、思わず前のめりになる。
「まるで、そう動くよう命令されていたみたいって私も思ったの。でも、影響を与えている邪竜は、他の魔物を支配しているわけではない──のよね?」
「そう言われてるわね。支配下──庇護下にあるなら、邪竜を恐れて逃げたりはしないもの」
うーんと、答えを見失った私が唸ると、ニフリトも考えを巡らせるように虚空を見上げる。
暖炉の薪が崩れて、火の粉を纏いながら乾いた音をたてた。
「そもそも、なんで邪竜の影響が強まると、聖女への敵視が強まるのかしら。魔物にとって神聖魔法を扱う聖女が驚異なのはわかるけれど」
「凶暴化しつつ、知能も上がってる──とか?」
思いがけずしっくりくる答えに、目を見開く。
「あり得るわね。それなら、雪割りの行動にも納得がいくし」
「一応、明日報告しましょう。魔物達が、常より知恵が回るかもしれないと警戒することは重要だわ」
「そうね。魔物との戦闘に慣れている人たちこそ、不意を突かれる盲点だわ」
互いに頷きあって、会話が途切れる。
それが、前夜の語らいの終わりとなった。
スィンスス氷山の山頂にたどり着くまでにまだ幾夜もあるが、それでも、なんとなく特別な夜が更けていく。
玄関に現れたニフリトを見て、待機していた護衛の騎士がほっとした顔をしていたのが印象的だった。
最期だと思っている夜と朝を、屋敷で迎えて貰えないかも知れないと気が気ではなかったのだろう。
なるほどこれは、申し訳ないが息が詰まると、思わずニフリトに同情してしまった。
ニフリトの馬車を見送ってから、寝室に入る。
ふと視線を窓際に向けたら、二羽の小鳥が張り付くようにして室内を覗き込んでいて驚いた。
慌てて窓を開けると、我先にと手元に飛び込んでくる。
見覚えのある美しい造形のお陰で、ラススヴェート様が制作した伝書鳥だとすぐにわかった。
片方は太陽、もう片方には月の刺繍が施されたリボンを首に結んでいた。
心当たりのありすぎる双子の王子が脳裏を過り、眉尻が下がる。
太陽の方を指先にのせて魔力を通すと、その嘴から聞き覚えのある声が流れた。
まるで目の前で喋っているかのような音声の鮮明さに驚きつつ、耳を傾ける。
内容を要約すると、「万一の時には、ルナーを頼って離脱せよ」だ。
ちなみに月の方は、「万一の時には、ソンツァを連れて離脱せよ」だ。
さすが双子。考えることは同じな上に、互いの性格をよく理解している文面だ。
末の王子が生まれたことで、互いに参戦を決意した王子達。
運命を覚悟しつつも、互いを生き残らせようと画策するとは。
お互いにこのことを知ったら、自分の事を棚に上げて兄弟喧嘩を始めそうだ。
「ていうか、誰一人死なせないって言ったでしょうが!」
機密文書よろしく、伝言を伝え終わるなりリボンが燃えたせいで、美しい伝書鳥がちょっと焦げたではないか。
返答は望んでいないらしく、伝書鳥たちはは役目を終えたとばかりに本棚の上に陣取った。
伝言のついでに、くれるらしい。
「国家魔具師の製作した伝書鳥なんて、一生ものなのに。太っ腹ね」
色々と落ち着いたら血印登録をしようと思いつつ、窓を閉じる。
カーテンを閉じようとして、ふと手を止めた。
壁のフックに掛けていたローブを手に取って、月光にかざす。
布は肌に吸い付くようになめらかで、ひんやりとしているのに温かい。
光沢も色も、真珠のような美しさに、何度目かわからない感嘆の溜め息をついた。
(私の、聖女としてのローブ)
姉のカナリス曰く、現状での最高傑作だそうだ。
受け取りにいったとき、なぜかラススヴェート様もいて、二人して興奮気味にどんな材料が使われていてどう制作したかを説明してくれたが、正直半分もわからなかった。
理解もそこそこに着させられ、一通り機能の試用と検査をされ、最後に微調整をしたのちに、ようやく手渡された。
邪竜の顎を砕くほどの膂力を女神に願った日から、ずいぶんと長い時が経ったし、望んだ立ち位置とは別の場所に、私はいる。
(──だけど、望んだ舞台には立てた)
半月前、首都に戻るなり王子達に呼び出された私は、再度の意思確認の後に、邪竜討伐本隊への参戦を認められた。
向けられた会話の節々から、ニフリトの推薦が大きく影響していることがわかったので、感謝しかない。
彼女は真実で訴えただけだと言っていたが、あれだけ頑なに反対していた王子達を説得したのだ。
きっと、相応の根回しもしてくれたに違いなかった。
(もしかして、だからさっき……)
本棚の上で眠る、伝書鳥を見る。
私がいれば、片割れだけなら逃がせる──と、希望を囁かれたのだろうか。
そしてその囁きに、心が揺れてしまったのかもしれない。
「私が全員を死なせないと宣言しても信じてくれなかったくせに、双子の片割れなら助かると言われて信じるって、どういうこと?」
ささやかな方が、現実味があるということだろうか。
でもきっと、そういう覚悟で生きてきた人たちだからこその選択なのだろう。
甘い希望は抱かず、けれど絶望もせずに、誰かに未来を託す道を選んだ人が、ぎりぎりでみせた迷い。
大切な、片割れへの想い。
(いいわ。その決断に、私は奇跡で応えてあげようじゃない!)
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