女神の欠片
僅かなぬかるみは残るものの、そこはすでに、水域とは呼べない景色になっていた。
色味を増した青い空は清々しく、太陽も惜しみなく大地に光を届けてくれている。
胸いっぱいに空気を吸い込むと、水草や藻の匂いに混じって、紫電石の焦げ臭さがちゃんと鼻に届いた。
それは懐かしさと安堵を、私に感じさせてくれる。
「ラフィカ、ぬかるみが強い場所は避けて。なるべく水草の上を歩いてくれ」
「ああ、ごめんなさい」
背後からの警告に、一歩下がる。振り返ると、セルツェが油断なく足下を確認していた。
「そこまで警戒しなくても、よほど強い衝撃を受けない限り、土中の紫雷石は放電したりしないわよ。靴に雷耐性も付与してもらったし」
「百年、未踏の地だったんだ。守護精霊が眠っていた場所でもある。予想外の変化が起こっていても不思議ではない場所で、油断はすべきじゃない」
「それはそうだけど……。まぁ、調査前に無理を言って踏み入らせてもらっているんだもの、問題は起こさないに限るわね」
生真面目な正論を返されて、肩をすくめる。
もっと気楽にしていいのにと思いはしたが、口にはしなかった。
彼は今、聖女の護衛として、私の傍にいるからだ。
どうしてそうなったかというと、体調が回復するや否や首都へ戻らなければならなかったニフリトと、女神エレジアに会うために残らなければならなかった私とで、予定が分かれてしまったからだ。
護衛など必要なかったが、そう言うと怒られるということだけは理解していたので黙っていたら、なぜかセルツェがつけられた。
てっきりミルクーリー騎士団から数人つけられるだろうと思っていたので驚いていたら、「うちの騎士じゃ、貴方の予測不可能な行動についていけないわ」と真顔で言われた。
非常に心外だったが、ニフリトの護衛についた騎士団の面持ちをみて、彼女なりの気遣いだったのだと知る。
彼らにとっては、「最後の」護衛なのだ。
その役割を、余所者を挟まずに果たさせてあげたかったのだろう。
(現状じゃ、生きて戻るつもりだと本気で口にしたところで、心痛を増させるだけだものね)
そういう意味では、守護精霊の一件を解決できたことで、ニフリトが家族とわだかまりなく接することができたのは良かったと言える。
ニフリトを抱き締めたミルクーリー侯爵の腕がなかなか離れなかったことまで思い出してしまい、目の奥がじんと痛んだ。
慌てて瞬きをし、何を誤魔化すでもなく周囲を見渡す。
森の中にぽっかりと開いた空間は、霧が晴れ、水が引いてしまえば、倒れて炭化した木々と雑草が生い茂る、なんの変哲もない草原だった。
けれど視線の先に、かつての砦の残骸を目敏く見つけてしまい、胸が苦しくなる。
よくよく見れば、農具や荷車だったものの一部もあちこちに散乱していた。
「これは、防壁か?」
私の視線を辿ったのか、セルツェもかつての名残に気づく。
慎重に歩み寄り、レンガの欠片を手に取った。
「かつては、ここまでが街だったんだな。いったい、何人が犠牲になったんだろうか」
「出てないわ」
「え?」
「領民に、死者は一人として出てないのよ」
私の言葉に、セルツェが微かに目を見開く。
現在の砦までの距離や、平原の広さを、改めて確認するように見渡していた。
私自身、セルツェのその行動で、どれほど兄たちが必死に民を護ろうとしたのかを思い知らされる。
(泣きそうになってる場合じゃないわ)
感傷に浸るのは、ミルクーリー侯爵家を出るまでと決めたのだから。
エレジアの泉は平原の中心ではなく、やや西に寄ったところに、本来の規模に戻った状態で存在していた。
無意識に前世の自分が落ちた場所を探そうとして、やめる。
少し離れた場所にある木々の影から、セルツェの背が覗いていた。
一緒にいてもいいと言ったが、何が女神の機嫌を損ねるかわからないからと断られてしまったのだ。
精霊や女神の気まぐれな逸話は、背筋が寒くなるものの方が多いので、セルツェの判断が正しいのだろう。
自分に優しいからといって、他者にまでそうとは限らないのが彼らだ。
「エレジア様。改めて、お目にかかりに参りました。ラフィカです」
呼びかけてから、もしかしてここにいるのはもう、かつての父であり半精霊となったサトゥールンなのではと思ったが、エレジア様はちゃんと現れてくれた。
絹糸のような金髪をたゆたわせながら、宝石のような金色の瞳に私を映す。
夢のような美しさと目映さに、改めて彼女が女神なのだと思い知らされた。
「よく来てくれました、ラフィカ。また会えて嬉しいわ」
「──で、どういうことか説明してもらえます?」
「え? え? 態度がおかしくないかしら? 今ちょっとこう、恍惚とした表情で私を見上げてくれたと思ったのだけれど!?」
「それとこれとは別なので」
きっぱりと半眼で告げると、エレジア様がわかりやすく狼狽する。
薄々感じてはいたが、やはり彼女は女神としての神秘性が著しく低い気がする。そのぶん、親しみやすくはあるが、心許なさもすごい。
「え、ええと、説明というと……?」
「私に与えた加護への枷について、納得できる説明を要求します。この歳になっていきなり聖女だと言われて、私がどれほど困惑したかわかります?」
「え?」
予想はしていたが、その反応をもって確信する。
やはり彼女は、私の聖女としての資質を、意図して封じたわけではなさそうだ。
それを踏まえて、私は私の半生を、エレジア様に話した。
徐々に顔色を白くし、脂汗までかきはじめたエレジア様に、怒気が抜かれていく。
最終的にガクガクと震えだしたその姿は、女神として人前に立っちゃいけないレベルで色を失っていた。
さすがに責めるに責められず、説明のあとに続けようとしていた恨み言を飲み込まざるを得ない。
「ちょっと、そこまで顔色を悪くされたら、責められないじゃない!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。私は、なんてことを──慈悲を与えたつもりで、人の子の運命をこうも振り回してしまっていたなんて! 私は女神失格だわ!」
両手で顔を覆うなりわっと泣き出されてしまい、いよいよどうしたらいいかわからなくなる。
「いや、そこまで自分を責めなくても──。与えられた加護は、結果としてとても役にたってるし」
水面にしゃがみ込んでしまった肩にそっと触れると、泣き崩れてもなお美しい顔面が向けられる。
眩しさに思わず目を細めつつハンカチを差し出すと、エレジア様はおずおずとそれを受け取った。
涙を拭くことはせず、胸元でぎゅっと握り締める。
「ごめんなさい、こんなに情けない女神で。でも無能ではないのよ? 本当よ? むしろ力があったからこそ、起こってしまった事故というか」
「どういうこと?」
「そうね、ちゃんと説明しなくちゃだわ。貴方には、それを知る権利があるもの」
すくっと立ち上がってから咳払いをして、エレジア様が居住まいを正す。
女神として最低限の威厳を取り戻した姿で、再び私と向き合った。
「この世界の女神は、二種類存在するの。一つは、精霊が人々の願いによって力を得て、神格化したもの。もう一つは、初期の聖女達を導くために、女神エテルノによって創られた、女神の欠片としての女神たち。私は後者の女神なの」
「女神の欠片? つまり、エレジア様はエテルノ様の一部でもあるということ?」
「正確には違うけれど、そういう認識で構わないわ。世界のなかで、聖女と同じくらい、女神エテルノとの繋がりが強い存在なの」
「ああ、だから、女神エテルノから与えられた加護も、貴方の力で封じられてしまった?」
繋がりが強いからこそ、力が影響してしまった──ということか。
「おそらくは。力の源は、同じだから──。本当にごめんなさい。今まで貴方のような奇天烈な加護を望んだ者は、誰一人としていなかったから、私も戸惑ってしまっていたし」
「奇天烈!? 誰だって、力は欲しいものでしょ!」
「貴方以外の女の子は全員、聖女の力を望んだんですぅ! なのに貴方と来たら、殺意の塊みたいな剣幕で、純粋な力を望むなんて。私、とても動揺したのよ? ああ、だからこそ、私も常とは違う行動をしてしまったというか……? それがまさか、こんな形で貴方を振り回すことになってしまっていたなんて!」
エレジア様が身振りするたびに長い金髪が揺らめいて、太陽光を弾く。とても美しい光景なのに、あざとさしか感じられないんですが?
「ちょっと、さっきから反省しつつ、さりげなく私も責めてない?」
「そんなことないわ。女神に二言はないもの。ああでも、せめて、貴方が生まれたときに、気がつけていたら!」
よろよろと水面に座り込まれて、こめかみがひくつく。
しかし、彼女が言外に言おうとしていることに気づいてしまった手前、責めることはもうできなかった。
「わかった、わかったわよ。もういいわよ。私の人生を振り回した一件は、お父様を抑えてくれていたことでチャラにしてあげるわ!」
「……こんな女神を、許してくれるというの?」
「許すもなにも、そもそもが女神の気まぐれじゃない。人の子がそれにどう振り回されようとも、責める権利なんてないわ」
結局の所、このやりとりは、エレジア様が私と気安く会話してくれているからこそ、成立しているものだ。
すべてにおいて、彼女の優しさにすぎない。
「本来は、与えられたものを、精一杯利用して生きていくだけだもの」
改めてそう思えばこそ、彼女は本当に女神らしくない女神だと痛感した。
「……エレジア様は、なぜ、こうも親しげに私と会話してくださるのですか?」
思わず零した一言に、エレジア様が瞠目する。けれどそれはすぐに、慈愛に満ちた微笑に変わった。
一気に増した神々しさに、身体が緊張する。
女神としての威厳に気圧されてようやく、そうならないよう、砕けた態度をとってくれていたのだと悟った。
(ああこの方は、人を心から慈しんでくださっているのね)
こんな外れの地で、力を誇示することなく人々を見守ってくれているのは、本来の役割を終えているからだろうか。
(今はもう、女神が直接聖女を導く必要はないものね)
「なぜ、貴方はまだ、世界に留まってくださっているのですか」
人々に、実在しない女神だと思われたまま、泉で死者の魂を慰めているだけなんて、寂しすぎる。
そう思って問いかけると、エレジア様はなぜかすっと視線を泳がせた。
「確かに、役割を終えた私たちは、世界に溶け、女神エテルノの加護として人の子に与えられる力になるべき存在です。ですが、いざ世界へ還ろうとなったときに、一柱の女神が言ったのです『万が一に、備えるべきだ』と」
「……つまり?」
「数名が、見守り役として残ることに」
ああ、押し付けられたのね。
口にはしなかったが、思ったことは伝わったのだろう。エレジア様は、聞いてもいないのに、早口で言い訳を始めた。
「押し付けられたとかじゃ、ないですからね? 私は力があるほうだったので、必然的に望まれたのです! 選ばれただけです!」
もういいのだと、貴方が人の子を愛してくれていることは伝わっていると慰めようとしたところで、ぴたっとエレジア様が言葉を止める。
不自然な沈黙に顔を向けると、エレジア様は一点を見つめていた。
ゆっくりと立ち上がり、僅かに眉間に皺を寄せる。
警戒の滲む気配に、私は慌てて口を開いた。
「ご心配なく、あそこにいるのは私の護衛です。貴方に不敬があってはならないと、離れていただけで!」
「護衛? 驚いた。人の気配がまったくしなかったものだから、警戒してしまったわ」
「とても優秀なんですよ。呼びましょうか?」
安堵したように視線を緩めたエレジア様を見て、ちょっと自慢げになってしまう。
子どもを見守るような微笑みを返されたことで、まるで自分のことのように告げてしまったことに羞恥がわいた。
「とても信頼しているのね。俄然興味が湧いたわ。是非、呼んで」
「エレジア様」
揶揄うような口調に更に羞恥を煽られつつ、はやくと急かされてしまったので、セルツェの名を呼ぶ。
用が済んだのだと思って出てきたらしい男は、そこにまだエレジア様がいることに酷く戸惑ったようだった。
かなり遠くで跪き、頭を垂れる。
遠すぎると笑おうとしたところで、エレジア様の声が割って入った。
「──貴方。貴方、もっと近くに来て。よく顔を見せて」
さきほどまでの好奇心とは明らかに様子の違う、少し急いた声音に驚く。
思わず見たエレジア様の表情には、驚きが満ちていた。
「疾く!」
戸惑って片膝を浮かせたまま私を見たセルツェに焦れて、エレジア様が命じる。
セルツェは弾かれたように立ち上がり、急いで私の隣に立った。
ものすごく緊張しているのが、空気越しに伝わってくる。
(セルツェが萎縮してる)
面白い顔が見られたなと思ってから、自分こそが女神に対して無遠慮すぎるのだと気づいたが、彼女がそう振る舞うことを許していたのだから、仕方ない──と思う。
ちょっと間抜けなところとか、本当にわざとだったのか怪しいし。
そうこうしている間に、手招きでもう一歩前に出ることを促され、セルツェはぎくしゃくと移動した。
背というか、全体的にエレジア様が大きいので、長身のセルツェですら少し見上げる形になる。
「貴方、名前はある?」
「……セルツェです。セルツェ・エテルノエル」
答える合間に、エレジア様の両手が頬に伸びて、びくりとセルツェが身を震わせた。
後退しようとした身体を気力で抑えたような顔で、エレジア様を見上げたが、すぐに下を向く。
その瞳には、戸惑い以上に畏れがあった。
ともすれば畏怖で足が震え始めるんじゃないかと思うほど、セルツェの顔色は悪い。
女神と相対した喜びよりも、畏敬が勝ってしまっているのだろう。
(セルツェって、かなり信心深かったのね)
ゆっくりと、まるで怯える子犬を安心させるかのように、今度こそエレジア様の両手がセルツェの頬を包み込む。
ゆっくりと上向かされて、セルツェは観念したように、きつく瞑っていた目を開いた。
アイスブルーの瞳が、エレジア様の金色を反射してきらきらと輝く。
「そう怯えないで。貴方の魂を視たいだけなの」
慈悲の塊みたいな微笑みを向けられて、ようやくセルツェの身体から力が抜ける。
それでも緊張は続いているらしく、頻繁に瞬きしていた。
エレジア様はじっとセルツェを見つめてから、ゆっくりと瞼を閉じた。
「ああ、エテルノ様の慈悲は、聖女の意思となって届いたのね。私たちの祈りは、無駄ではなかった」
噛み締めるように、呟く。
発言の意味がわからなくてセルツェを見たが、彼も理解出来ていないようだった。
もとより独り言のようだったので、私たちには関係のない胸の内の吐露だったのだろう。
セルツェの頬を包んでいた手が、ゆっくりと頭を撫でてから離れる。
まるで魂を抜かれたようによろめいて、セルツェは私の隣に後退してきた。
青白かった顔が、すっかり血色を取り戻している。
ようやく、畏怖よりも高揚が勝ってきたのだろう。
「愛しき子らよ、貴方たちに心からの祝福を。幾たびの困難に見舞われようとも、力を合わせて、立ち向かうのですよ」
言葉が光となって私とセルツェを包み込み、僅かに体温が上がるような幸福感で心が満ちる。
はっと我に返ったときにはもう、エレジア様の姿はなかった。
「……なん、なんだったんだ?」
呆然と、セルツェが呟く。顔を向けると、同じようにセルツェも私に視線を向けてきていた。
そんな、答えを期待する顔で見られても困る。
「それ、私の台詞よ。貴方を見たエレジア様の様子は、変だったわ。何か心当たりはある?」
「──ない、と思う。わからない」
僅かに開いた間は、思案したからだろうか。
エレジア様に対するセルツェの態度も、おかしかったと言えばおかしかった気もする。けれどそれは、女神に相対した者の動揺として、逸脱してはいなかった。
(本当か、嘘か。微妙なところね)
本当に心当たりがないなら、それ以上は探りようがないし、嘘だったとしても、私に悟らせないほど感情を殺した言葉であるなら、触れるべきじゃない。
(少なくとも、今、わざわざ追求すべきことではないわね)
そう判断して、私はただ頷いた。
「わからないものは、考えても仕方ないわね。女神の気まぐれを考察している時間はないわ。さっさと戻りましょ」
「話は終わっていたのか?」
「え? ええ。大丈夫。私が知りたかったことは、ちゃんと訊けたわ」
「なら良かった。俺が控えるのが下手だったばかりに、会話に水を差してしまったのかと」
「馬鹿ね、逆よ。あんまり上手に隠れていたから、驚かれていたわ。護衛なんだから、存在感くらいは残しておきなさいよ」
「……確かに、完全に気配を消すのは怪しかったな。すまない」
「ふふ。それが出来ちゃうのが、むしろ問題じゃない? さすが、元冒険者の優秀な騎士様ね」
つんと脇腹をつついたら、ちょっと逃げられた。気恥ずかしそうな気配を目尻に感じて、にやにやしてしまう。
「ラフィカ、揶揄わないでくれ。さっさと戻ろう。首都に戻るための馬車を手配しなければ」
「必要なくない? 貴方と私なら、走った方が早いわよ」
本心かつ事実を口にしただけだったが、先導しかけていたセルツェがわざわざ足を止めて、私を振り返った。
じっと見下ろされて、たじろぐ。
「な、なに。変なことは言ってないわよ?」
「そうだな。俺としても、それはとても手っ取り早くていいと思う」
「でしょ──」
「だが」
同意に同意を返そうとした言葉を、食い気味に遮られる。
まるで罠にかかった小鳥でも見るように、アイスブルーの瞳が私を捉えていた。
「だが、世間の目というのは、常識に縛られている。火急の事態でもない限り、そんなことを聖女にさせたと協会や騎士団に知られたら、護衛である俺の首が飛ぶだろう。──それでも、その案で行きたいか?」
無表情の圧が! 圧がすごい!
「悪かった。私が悪かったです! 聖女としての自覚が足りてませんでした!」
「理解を得られたようで、俺はとても嬉しいよ」
ここで微笑でもされていたら、とてつもなく嫌みだっただろうが、セルツェの表情筋が死んでいるおかげで、とどめは刺されずに済んだ。
それでも、充分すぎるほど、私を諭そうとする圧は強かったが。
「もう。いじわるね! でも馬車の準備はまだいいわ。首都に戻る前に、行くべき場所がまだあるの」
気持ちを切り替えるために、話題を切り替える。
私の言葉が予想外だったらしく、セルツェは目を瞬かせた。
「そうなのか? 実を言うと、先ほど団長から伝書鳥が届いていて──」
「あら、なんて?」
「可能な限り、早く駐屯所に顔を出せと。おそらく、俺もニフリト様と一緒に戻って来ると思って出したものだろうが──」
「戻って来るとわかっているのに催促してるってことは、邪竜討伐の件で、何か動きがあったのかもしれないわね。そうとなれば、急いで用事をすませてしまいましょ」
「すまない。本来であれば、護衛の都合に聖女が合わせる道理はないんだが」
「私との友人関係に甘える程度には、早く戻りたいのでしょう? 私だって、邪竜絡みなら気になるもの。気にしないで」
「──すまな、いや、ありがとう」
不意打ちのように自然に微笑まれて、息を呑む。
顔がいい男の笑顔というのもあるが、その相手がセルツェだという貴重さが、威力を何倍にもして私の胸を貫いた。
嬉しさと羞恥が瞬く間に頬の熱にかわり、指先を痺れさせる。
顔を見られたくなくて、私は慌ててセルツェを前に向き直させた。
「さ、用事を今日中に済ませるために、急ぐわよ!」
「わかった、わかったから足場の悪いところで背を押すな。というか、どこに行くんだ?」
「場所は知らないわ」
「え?」
セルツェが目を瞬かせながら、肩越しに私を見下ろしてくる。
そのときにはもう、私の心のざわめきも落ち着いていたので、にっこりと微笑みを返せた。
「場所は知らないの。だから、貴方が案内するのよ」
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