色褪せぬ輝き
綺麗に整えられた客室の窓から、中庭を眺める。
当たり前だけれど、かつての面影はない。
それでも、母が好きだった白いライラックの木が残っていて、私の郷愁を刺激した。
わけもなく泣きたくなるこの気持ちは、なんなのだろう。
もう戻れない日々を、懐かしく穏やかな気持ちで思い出したいのに、胸いっぱいに何かが詰まって、息が苦しくなる。
(この気持ちを味わえていること自体、贅沢なのに)
あのときこうしていたら、ああしていたら、という後悔が、さざ波のように脳裏を過っていく。
もちろん、総てが終わったことだということも、同じ頭で理解してはいるのだ。
だからこれは、どちらかというと追憶なのだろう。
やるべきことを無事にやりとげられた安堵が、私を少し、凪いだ気持ちにさせている。
窓枠に頬杖をついたまま、ふっと息を吐き出したところで、ドアを誰かがノックした。
「なに?」
「ニフリトお嬢様が、目をお覚ましになられました」
返事に対して返された言葉に、ぐわっと視界が一段明るくなる。
微睡みから目覚めるように思考が晴れて、私は立ち上がった。
◇ ◇ ◇
「ニフリト!」
寝室に勢いよく乗り込んだら、扉脇に控えていた侍女に小さく悲鳴を上げられた。
ベッド脇にいた青年も、目を丸くして私を見ている。
さすがに自分の行いを恥じて、私は慌てて居住まいを正した。
「失礼しました。目を覚ましたと聞いて、つい──」
慌てて頭を下げた私に、青年──ニフリトの弟であるアルカ様が柔らかく微笑んだ。
「お気になさらず。姉を案じてくださって、ありがとうございます」
「いえ。えと、その、一度失礼致します。落ち着きましたら、使いを寄越していただければ」
「大丈夫です。というか、姉が貴方を呼びに行かせたのですよ。僕の用事はもう済んでいます。どうぞ姉の話し相手になってやってください」
「え、あ」
戸惑っているうちに、アルカ様は颯爽と私の脇を通り過ぎていってしまう。すれ違いざまに向けられた万感を込めたような眼差しに驚いている間に、廊下に消えてしまった。
扉を閉じようとした侍女に、ニフリトが「貴方も少し席を外して」と声を掛けて廊下に出させる。
扉が閉じられるのをなんとはなしに見つめてしまってから、ニフリトに向き直った。
「どうぞ、座って」
ベッド脇に用意されていた椅子に促されるまま、私は腰を下ろした。
天蓋から幾重にも重なって垂らされているレースが、窓からの風に吹かれて揺れる。
それに合わせて窓から差し込んでいる木漏れ日も揺れて、三日前の激動が夢に思えてしまえそうな穏やかさを感じた。
「あぁ、ほんっと苦い。最悪の味ね」
言葉のままの表情をしながら、ニフリトは口を付けていた小瓶を睨む。
部屋に漂っていた独特の香りで、それが回復薬だとわかっていたので、私は苦笑いした。
「今の貴方には必要だわ。しっかり飲んで」
「わかってるわよ。でも、あとで貴方が飲ませてくれたもののレシピをうちの薬師に教えていってちょうだい。あれのほうがマシだわ」
「ふふ。父の自慢のレシピなのよ。あとでメモを渡しておくわね」
私の言葉に「絶対よ」と念押ししてから、ニフリトは残りを一気に煽った。
口直しに用意されていたらしい砂糖菓子の皿を取って差し出すと、一つ摘まみとる。
綺麗な橙色の丸い粒を頬ばると、ニフリトはようやく眉間の皺を緩めた。
「はぁ、生き返るわね。貴方もどうぞ」
「ありがとう」
薦められたので、ありがたく水色の粒を頂戴する。
砂糖でコーティングされた柔らかなゼリーは、器で冷やされていたこともあり、ひんやりとした優しい甘さを舌に広げてくれた。
「おいしい」
「でしょ。私、これが大好きなの。気に入ったのなら、首都にも店舗があるから、今度一緒に行きましょう」
「ええ」
嬉しい誘いに笑顔で頷いたら、ニフリトは何故か表情を歪めた。
泣くのを堪えているけれど、微笑んではいて、戸惑う。
「ニフリト……?」
「──っ、ああもう、貴方本当に、なんなの?」
「え?」
「え? じゃないわよ。私が──ミルクーリー侯爵家の娘が、誰かを遊びに誘うなんて、今までなら絶対に出来なかったのよ? したところで、みんな怯えて逃げてしまうもの」
「なんで……あ、噂のせいで?」
「そうよ。なのに貴方ったら、私だけじゃなくて、ミルクーリー家にまで返しきれない恩を売って、とんでもないわ」
そこでようやく、ニフリトが既に、私がセルツェに伝えた赤雷蛇の真相を聞いているのだと気づく。
どうやら、ニフリトが目覚めたのは、私に連絡がくるよりもずっと前だったらしい。
(よく考えれば、それもそうか。まずは内々で話すことが山ほどあったでしょうし)
どうやら賢い領主様──ニフリトの父は、今、領の内外に爆発的に広まっている話をひとまずは否定せず、ニフリトに確認することを選んだらしい。
そしてニフリトはニフリトで、聞かされた話を私の一計だと察したようだ。様子からして、乗ることを選んでくれたのだろう。
「そっか、私が来る前、その話をアルカ様とされていたのね?」
「そうよ。少し前まで、お父様もおられたの。だから、お父様とアルカには、貴方の機転であることを伝えておいたわ」
「え、あ、だからさっき、アルカ様はあんな顔をされていたのね!? 言わなくてよかったのに」
「冗談はよして。私の手柄だと言えるほど、図々しくはなれないわ」
「私は、貴方から聞いたのよ? 貴方から聞いた事実を、セルツェに伝えただけ」
「ええ、ええ。そうね。そうでしょうね?」
私の物言いに、ニフリトが呆れたように手をひらひらとさせる。
それでも表情は困ったように笑っていて、長年のし掛かっていた重荷が下ろせる事に、安堵しているようだった。
「はぁ……。これ以上ないタイミングで、とんでもない話をしてくれたものだわ」
「真実を受け入れてもらうなら、今しかないと思ったのよ。王立騎士団の騎士様が報告役を担ってくれたお陰で、信憑性も増せたしね」
「本当にね。事実確認にすっ飛んで来たギルド責任者の青ざめた顔に、お父様の方が戸惑っていたそうよ。まぁ、侯爵家が汚名をかぶり続けなければならなくなった原因を、冒険者ギルドが助長させた形になってしまったから、仕方がないけれど」
そう言われてしまうと、多少の罪悪感が湧くが──。
「侯爵様は、すべて済んだことだとお許しになったのでしょう?」
「もちろんよ。その事に感謝して、冒険者ギルドも今後、根深い誤解の真実を、広めていってくれるでしょう。」
しみじみと告げて、ニフリトが窓の外に視線を向ける。
私がいた客室よりもずっと近くに白いライラックの花が見えて、目映く輝いていた。
「その、ごめんね」
「え?」
私の唐突な謝罪に、ニフリトが微かに目を見開いて、窓の外から視線を戻す。
綺麗な新緑の瞳をまっすぐに見返せなくて、私は目を伏せた。
「よかれと思ってしたことではあるけれど、貴方に……貴方たちに、嘘を押しつけてしまった」
ミルクーリー侯爵家の信頼を取り戻してあげたくて、綺麗な話をでっちあげてしまった。
それは本来、赤の他人である私がやっていいことではない。けれど私は、今の侯爵家の意向を無視して、これを強行したのだ。
すでに広まり始めた話と、謝罪にすっ飛んで来た冒険者ギルドの責任者相手に、侯爵様が「それは違う」と否定できない話になると、わかっていて、やった。
(信頼を取り戻してあげたかった──なんて、綺麗事だわ。私が、取り戻したかった)
誇り高きミルクーリー家が、呪われた一族として忌避されているなんて、許せなかった。その原因がかつての自分にあるのだから、尚更だ。
膝の上でぐっと握り込んだ両手に、いつか私がしたように、そっと手が添えられる。
ゆっくりと顔を上げると、穏やかな眼差しのニフリトと目が合った。
「馬鹿ね。貴方がやらなかったら、私がやってたわ。まぁ、気を失ってしまっていたから、最高のタイミングは逃してしまっていたでしょうけどね」
「…………でも」
「謝らないで。あのタイミングで、私が言うべきことを言ってくれた貴方だもの。私が、貴方にどれだけ感謝してるか、わかるでしょう? だから、謝らないで」
「……ん」
巧く返事ができなくて、おおきく頷く。
するとニフリトは私の手を握ったまま持ち上げて、おどけるように首を傾げた。
「お父様がこの話を知ったとき、最初になんて言ったと思う? 『これでもう、領民が蔑まれなくてすむ!』よ。私たちは、ミルクーリー家の汚名が雪がれたことよりも、ミルクレストが呪われた地だと言われなくなることのほうが嬉しいの。領民が心安く、平穏に暮らせていけるほうが嬉しいの。そのための嘘ならば、よろこんでいくらでも!」
かつての父や兄と、同じような目映さで言われてしまったら、目を開けていられない。
「私たちは、欠片も後悔などしないわ。むしろ貴方に言わせたことで、貴方に罪悪感を抱かせてしまったことのほうが心苦しい。ごめんなさい。でも、侯爵家の信頼を取り戻すきっかけを作ってくれてありがとう」
「──ッ」
私は閉じた瞼の隙間から滲んだ雫を、留めることが出来なかった。
震える肩を、優しい手のひらが撫でてくれる。
「ねぇ、貴方の前世って──いえ、なんでもないわ」
私が微かに反応したことが、触れていた肩から伝わったのかはわからない。
けれどニフリトは、それ以上そのことについて私に問うことはしなかった。
勘の良い彼女のことだ。きっと本当は気づいている。
だからこそ、私がなぜそれを伝えなかったのか、とても疑問に思ったことだろう。
それでも、私の心を汲んで、疑問を呑み込んでくれたのだ。
(だって、貴方との関係が変わるのは、嫌だもの)
この友情が何年も続いて、些細なことなどどうでもよくなるほど思い出を重ねることができたら、打ち明けられそうな気はする。
その時にはもう、ニフリトにとってはどうでもいい疑問になっているかもしれないけれど。
(そのためにも、生き残ってもらわなくちゃね)
そう思ったら、嘘を背負わせてしまった罪悪感よりも、本来の目的の方が私の心を支配した。
使えるものは使うのよ、と気力を奮い立たせる。
ずびっと鼻を大きく啜って顔を上げると、心配そうに見つめてくれていたニフリトと目が合った。
「大丈夫?」
「ええ。いきなり泣いてごめんなさい。貴方には、こんなところばかり見せちゃってるわね」
「別にいいわよ。人間らしいところを見せてくれたほうが安心するわ」
真面目な顔で言うものだから、さすがに声を出して笑ってしまった。
「笑い事じゃないわよ。貴方ってば、めちゃくちゃなんだもの」
「ふふ。でも、頼もしいでしょ?」
「まぁ、否定はしないわ」
「なら、推薦するわよね?」
主語をあえて抜いた私の言葉に、ニフリトはたっぷりと間を置いてから頷いた。
その間に何を考えたのかは、想像がつく。
(大丈夫よ、ニフリト。私は死なないし、誰も死なせないわ)
赤雷蛇編、お付き合いありがとうございました。
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書き下ろしは「諦められては困ります!」「ラススヴェートの自覚」の2編です。
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