その魂に、課せられるもの(1)
『ォオオオオォオオッ』
突如響いた咆哮に、首を竦める。
盛り上がった水面はそのまま巨大な水柱となって噴き上がり、赤褐色の巨大な竜が姿を現した。
瞬く間に水が沸騰し、蒸気がまき散らされる。
体表が赤く発光し、灼熱の中で稀に雷が弾けた。
咄嗟に張られた氷の膜がなければ、火傷ではすまなかっただろう。
それもすぐに溶けてしまったが、セルツェが放つ冷気が、私たちをかろうじて護ってくれていた。
『グオォオアアアアアア』
地鳴りのようだった慟哭がマシに思えてくるほどの、咆哮。
キーンと頭の奥が痺れ、思わず耳を塞いだ。
セルツェは耐えていたが、ニフリトは吐いていた。
(なんて迫力!)
守護精霊を取り込んだ前世の父だとは、とても思えないほどの怪物ぶりに、気圧される。
この巨大な岩竜から、取り込まれてしまっている守護精霊を引き離さなければならないのだが、どう考えても、近づくことすらままなりそうになかった。
あわよくば説得──意思疎通がとれないかと、頭の隅にあった考えの甘さに絶望する。
「救うとか以前の問題だ。為す術がない以上、退避するぞ!」
どう足掻いても、その通りだ。
相手はまだ、ただ姿を現し、吼えているだけなのだ。
それなのに、気を抜けば骨まで蒸発させられそうになっている。
けれどスクトゥム兄様の封印が解けてしまった以上、ここで引いたらもう、救う機会は訪れないだろう。
赤雷蛇として再び暴れ始めるであろう父を、討伐されるだけだ。
そしてそれは絶対に、人間側に甚大な被害が出る。
姿を目の当たりにしたことで、それは確信でしかなかった。
(昔と違い、逃げるのではなく挑むのだから、とんでもないことになるわ)
「ラフィカ、聖女ニフリトを! 俺が退路を作る!」
この場において、私を護るべき聖女ではなく、使える戦力として考えてくれていることに感動を覚えるが、応じるわけにはいかない。
「だめよ! ここで何もしなければ、もう二度と救う機会はないわ!」
「無茶を言うな。近づくことすらできないんだぞ!」
「でもっ」
わかっている。セルツェが正しい。
ニフリトも、実物を目の当たりにしたことで、己の願いの無謀さに青ざめている。
それでも、私だけは、絶対に諦めるわけにはいかない。
「私なら、耐えられる。セルツェはニフリトを連れて逃げて!」
「ラフィカ!?」
「なにを馬鹿な──っ」
二人の驚愕の声が、足場が大きく揺らいだことで遮られる。
前に向き直ると、赤雷蛇が、大きく翼を広げようとしているところだった。
飛び立たれるわけにはいかない。
「待って──っ」
近づこうとして、足場がないことに気づかされる。
咄嗟にセルツェを見たが、首を左右に振られた。
「もう間に合わない」
「そんなっ」
内側からの熱によって、表面を覆っていた岩の隙間から溶岩が流れ落ちていく。
風圧に備えてセルツェがニフリトを背後に庇ったが、羽ばたこうと広がった翼は、何故かそのまま水面に落ちた。
「なに……?」
衝撃に揺らいだ足場に膝をつきつつ、動揺を口にする。
わけのわからない事態に、ただ目を凝らすことしかできなかった。
『ゥウ、ガゥアア』
何かに抗うように呻きながら、翼だけでなく、もたげていた首すら、徐々に下がっていく。
そこでようやく、水面を滑ってきた音が、私たちの所に届いた。
「……なんだ? 歌声?」
セルツェの言葉通り、それは歌声だった。
穏やかで優しい、女性の歌声。
ミルクレストに古くから伝わる、子守歌。
「ああ、エレジア様だわ」
なんの根拠も無く、ただ直感的にそう思ったのだろう。
ニフリトが思わず呟いたその言葉が、私にこれが本当に最後の機会だと告げていた。
「セルツェ!」
ただ、名前を呼ぶ。
その声に、私の想いを総て詰め込んだ。
それが伝わったかはわからないが、構わず水面に踏み出した私の足は、沈むことなく私を前へと進ませた。
五歩までは氷を踏み砕いてしまってよろめいたが、そこからは安定する。
「足場を割るな! 君はともかく、俺と聖女ニフリトはこの熱湯に落ちたら無事ではすまないぞ!」
「ごめん!」
それしか言う余裕がなくて叫んだが、セルツェの対応が少しでも遅れていたらとぞっとする。
怯みかけた私を見越したように、いつの間にか併走していたらしいセルツェの手が、私の背を押した。
「ここで怯まれても困る! 考えがあるなら、やりきってくれ!」
僅かに向けた視線の先で、アイスブルーの瞳が鮮やかに煌めく。
ああ、なんて格好良いのかしら。
「俺はなにをすればいい」
問われて、凄まじい勢いで思案する。
ラズゥム兄様の日記では、周囲の土を身に纏って、あの姿になったと書いてあった。
それが怒りによって熱せられ、表面が溶岩と化している。
とにもかくにも、それを剥がさないことには手出しが出来ない。
「凍らせて!」
「あの溶岩の塊をか!? 無茶を言う」
言いながらも、半ば眠るように身体を丸めている赤雷蛇の体表に、氷が発生する。
意識が鎮められているからか、水に触れている部分はかなり鈍い赤色になっていた。温度が下がっている証拠だ。
だがそれでも、巨大な溶岩の塊を前に出現した氷はあまりに小さく、三度蒸発させられた。
それを踏まえて強化された氷が、四度目で付着に成功する。
「やった!」
思わず声に出したが、意識を向けた先にセルツェはいなかった。
いつのまにか、気配が遠い。驚いて一瞬振り返ると、セルツェの眼前に芸術品のような魔法陣が展開されていた。
私に追従するのではなく、足を止めて魔法に集中することを選んだらしい。
(私を信じてくれて、ありがとう)
もうそうするしかない状況だったからというだけかも知れないが、何も知らない状況にも拘わらず、ただ手助けしてくれているという事実に感謝しかない。
「──ッ、これ以上は無理だ!」
言葉に後押しされるように、急速に冷却された赤雷蛇の体表が黒く変色してひび割れ、そこからさらに氷が広がる。
「充分よ!」
溶岩を固めるための、分厚い氷。まるで瘤のように盛り上がったその表面に、私は駆けつけた勢いのまま、拳を叩き込んだ。
「くだけ、ろ!」
インパクトの瞬間、氷越しに岩の硬さが骨と腕の筋肉に伝わってくる。
それを堪えて押し返すと、奇妙な一拍の間を経てから、鎧のようだった岩の塊が粉々に砕け散った。
中から噴き出した凄まじい量の魔力に吹き飛ばされて、身体が氷の床を滑る。
三回転してから安定した視界の隅で、同じように吹き飛ばされたセルツェがニフリトのところまで転がっていた。
思わず笑ったが、本番はこれからだと気を引き締め直す。
爆発の中心で、再びその身に岩を纏おうとしていたどす黒い靄の塊に全力で駆け寄り、躊躇わず手を突っ込んだ。
皮膚が焼けるような痛みに襲われたが、そのまま手のひらに魔力を集中させる。
「慈悲深き女神エテルノよ、その優しき息吹をここに。第一の加護・浄化!」
言葉での誘導も付加して、効力を底上げする。それでも案の定、微々たる効果しかなかった。
瘴気とは違い、思念によって濁った魔力の浄化は、様々な要因によって効力が左右されてしまうのだ。
(やっぱり、今の私じゃ無理ね)
それでも、再び岩の鎧を纏わせないために、浄化魔法をかけ続ける。
そう経たずに、セルツェと共にニフリトが駆けつけて来た。
顔色は少し悪かったが、それを気に掛ける余裕は互いにない。
「ニフリト、お願い!」
「ええ。待たせてごめんなさい」
私の言葉に強く頷き、同じように靄に手を突っ込む。私よりも数倍痛みを感じたはずだが、彼女は怯まずに浄化魔法を発動させた。
途端、一気に靄が光の粒に変わる。
ニフリトは血の契約によって守護精霊と繋がっているので、効力が段違いだった。
靄はどんどんと縮んでいき、やがて人の姿になったが、そこから浄化が進まなくなった。
大柄で、熊のようなシルエット。
それがかつての父であることは、否応なしにわかる。
人の姿として認識したからか、低いうなりのようだった声が、言葉として聞こえてきた。
『憎い。憎い憎い。私から娘を奪ったやつらが憎い。総て、総て滅ぼさなければ!』
ヴィクトリアを失った悲しみと苦しみに悶え、怒り狂っている。
言葉が意味を成したことで、纏う濁った魔力に力がこもったようだった。
ぐわりと大きく揺らぎ、浄化されて霧散しかけていた魔力を再び取り込んでいく。
(ああ、お父様!)
罪悪感と悲しみに怯みそうになったが、隣に立つニフリトの懸命な姿が目に入り、気を持ち直す。
「だめだわ。精霊の力を手放そうとしないッ」
額に脂汗を浮かせながら、ニフリトが告げる。
その腕はすでに赤く焼け爛れ、血を滲ませていた。
彼女の方が脅威だと判断して、退けようとしているのだ。
「領主様! サトゥルーン様! どうか目をお覚ましください! 貴方の役目を思い出してくださいませ!」
『うるさいっ。黙れ黙れ黙れ! 私の邪魔をするな!』
だめもとでの説得に、父は大きく身を震わせ、感情も顕わにこちらを威嚇してくる。
その姿の、なんと哀れで情けないことか。
これではただの、復讐に燃える男だ。周囲の支えを無視し、優しさを無視し、義務を無視し──。
他の誰かであったなら、その姿も許されただろう。
(けれど……貴方は)
「ああ、サトゥルーン様。これ以上の醜態は見るに堪えかねます。貴方は父親である前に、ミルクレストの領主です。領主なのです!」
縋るように俯いた私に、ニフリトが悲しげな眼差しを向ける。
「ラフィカ」
そんな余裕などないはずなのに、私を気遣う優しさにこそ、ミルクーリー家の誇り高さを見た気がして、私はより一層、領主であることを捨てている父に怒りが湧いた。
その悲憤の原因が私にあったとしても、それとこれとは話が別だ。
「いい加減、目をお覚ましくださいませッ!」
身長差があるので手前に引き倒したあと、思い切り頬をひっぱたく。
咄嗟に振りかぶった手が拳じゃなかったことは、私なりの愛情だったのかもしれない。
バツンッと凄まじい音がして、父の輪郭がぶれる。その瞬間を、ニフリトは逃さなかった。
「ティエラ様!」
おそらくは守護精霊の真名であろうそれを叫び、渾身の力で引きずり出す。
どろりとした塊が、ニフリトの手によって父の中から零れ落ちた。
百年、怨念に穢された精霊の姿と悪臭に、一瞬息が詰まったが、意識を総動員して怖気を無視する。
「ニフリト! 貴方のその機を逃さない勘の良さ大好きよ! セルツェ! 彼女を引き離して!」
急に矛先を向けられたセルツェは一瞬戸惑いを見せたが、父が精霊を取り戻そうと大きく動いたことで、即座にニフリトを抱え上げて退いた。
徐々に距離を取りながらも、私と父を交互に見て迷う。
「大丈夫だから、信じて!」
「──だが」
「行きなさい!」
迷うセルツェに痺れを切らしたように、ニフリトが命令する。
そのあとに続いた「首を切り落とすわよ!」はちょっと面白かったが、彼が私たちの本気度を認識するには充分だっただろう。
「すぐ戻るッ」
後ろ髪を引かれるような顔と言葉を残しはしたが、セルツェは私と父から離れるように走り出した。
『待て!』
私を押し退けて追いかけようとした父に、慌てて縋り付く。
小柄な私では、力があったとしても行動を阻むことは難しい。
だからこそ、これは最後の賭けだった。
『邪魔をするな!』
「します! お気づきになって、お父様!」