霧深い森の底から(2)
指先で煌めく青い石を転がしてから、差し出された手のひらに返す。
セルツェはそれを、慣れた仕草で袖に付け直した。
「貴方の頭の角、魔力探知用だったのね。随分贅沢な使い方だこと」
「そうでもないさ。魔物討伐において、索敵能力の優劣は生死に関わることが多いからな」
「……確かに」
この森で尽く先手を取られたにも関わらず、その重要性を軽視した自分の阿呆さに恥ずかしくなる。
でもやはり、赤斑の角という高級素材を使う魔導具にしては、いささか贅沢すぎる気がした。
「もちろん、それだけじゃないさ」
私の不満を察したように、セルツェが告げる。
赤斑の角が、冒険者にとって憧れの一品だということは重々承知なのだろう。
嫉妬を宥めるような眼差しが余計に皮肉に見えて、私はついと顔を逸らした。
「まぁ、ラフィカ。何が不満なの? カフスに込めていた僅かな魔力を頼りに、幻惑の霧を越えて来るなんて、とんでもないことよ? 魔導具の補佐なんて、殆どおまけよ。紛うことなき彼の実力だわ」
私の態度を、今度はニフリトが咎めてきて、私はますます眉間に皺を寄せた。
「そんなことはわかってるわ。実際、助けに現れてくれたとき、あまりの格好良さに後光が差して見えたもの。でも、問題はそこじゃないの」
「じゃあなによ」
「赤斑の角は、冒険者にとって──あぁ、もういいわ。私の負けよ。くだらない嫉妬をして申し訳ありませんでした!」
「嫉妬? なんで貴方が騎士様に」
生粋の貴族令嬢であり、聖女なニフリトには、冒険者としての羨望や嫉妬など知りようがないのだろう。
だからこそ悪気のない問いなのだろうが、今まで冒険者として底辺を歩いて来た私からしたら、「お前如きが上級の冒険者に嫉妬とか、身の程を知れ」と言われている気持ちになってくる。
実際その通りだったからこその被害妄想だが、わーっと叫びたくなった。
「お願いニフリト、そっとしておいて」
衝動をぐっと堪え、ただ触れてくれるなと告げる。
ニフリトは首を傾げたが、セルツェが「ところで……」と口を開いたことで意識をそちらに向けた。
「なにかしら」
「その、私はまだ、この先に行くことを了承しかねているのですが」
私たちがずんずん進むので、一緒に歩かざるを得なくなってはいるが、セルツェはまだ、私たちを安全な場所まで移動させることを諦めていないらしい。
「諦めてちょうだい。仔細は省くけれど、私は砦に今集まっているであろう、騎士団と冒険者の合同討伐部隊に合流するわけにはいかないのよ」
「理由をお聞きしても?」
「目的が違うからよ。彼らは討伐。私は……私たちは、守護精霊をお救いするために動いているの」
「救う? それはどういう」
「仔細は省くと言ったわ。とにかく、私たちはこの機会を逃すわけにはいかないの。悪いけれど、貴方にも付き合ってもらうわ」
「しかし、私の役目は──」
「聖女である私を護ること。頼んだわよ」
きっぱりと、鋭さすら感じる声音で、ニフリトが告げる。
それ以上の問答を許さない気迫に、セルツェが息を呑んだ。
「大丈夫よ。万が一、私に何かあったとしても、ラフィカが貴方に責任がないことを証言してくれるわ」
「そういうことを言っているわけでは!」
「ああでも、同情の余地をもう少し盛っておこうかしら」
「え?」
「侯爵令嬢として、命令します。私を手伝いなさい。無理矢理にでも私を連れ帰ろうとしたら、お父様にお前に襲われたと嘯いて、首を落としてもらうわ」
冗談じみた流れだったが、ニフリトの顔は本気だった。
「お前が無実だろうと、権力の前では無意味だと言うことを味わわせてあげる」
「──ッ」
絶句して、微かに顔を青ざめさせたセルツェに満足げに頷いてから、ニフリトは再び歩き始めた。
とぼとぼと後をついていくセルツェの横顔を、ひょいと盗み見る。
私の視線に反応して、アイスブルーの瞳が向けられた。
「ラフィカ、俺は──」
「馬鹿ね。本気で言ってはいるけど、嘘よ。権力を振りかざされて、逆らえなかった。与えられた任務において、最善の選択をすることができなかった──って、言い訳できるようにしてくれたの」
「そんなことは、俺だってわかっている。だが」
「わかってるなら、諦めなさいよ」
責任感が強いからこその苦悶だろうが、いい加減腹をくくってもらわないと、私も困る。
「守護精霊を救いたいの。お願いだから、手伝って」
前を向いたまま、ただ素直に本心を告げる。
頬に痛いほどの視線を感じたけれど、今の状況において、私の気持ちは違和感でしかない。
それを悟られたくなくて、目を合わせられなかった。
「……君は、聖女ニフリトから事情を訊いているんだな」
「ええ」
私の願いの強さを、事情を知るが故だと誤解してくれたことに、内心でほっとする。
「その上で、討伐ではなく、彼女を手伝う方が正しいと、判断した」
「ええ」
「──わかった、じゃあ俺は、君を信じることで、自分を納得させることにする」
不意打ちの一言に、どくりと心臓が大きく高鳴る。
はっと息を呑んで見上げたが、セルツェはもう前を向いていた。
その瞳に、先ほどまでの戸惑いはない。
そのことに安堵しつつ、今この瞬間に目が合わなかったことに、心の底から安堵する自分がいた。
だって、いま、目が合ってしまっていたら、私は──。
(落ちてた気がする)
そう思ってしまったら、余計にどきどきしてしまって、驚く。
なんとも場違いできらきらとした熱を逃がすのに、私はかなりの時間を要してしまった。
「ラフィカ、なにしてるの」
動揺に歩く速度が鈍っていた私を、ニフリトが呼ぶ。
「ごめん、今行くわ」
慌てて二人に追いついたところで、パチッと眼前で金色の光が一粒弾ける。
それは二人も目視していたようで、セルツェがニフリトを押し下げるようにして前に出た。
その間にも光の粒は増え、密集していく。
「なにこれ」
「わからない。警戒してくれ」
セルツェにわからないなら、私たちがわかるわけもない。
けれど、それが魔物ではないことだけはわかった。ニフリトは私よりもそれを確信していたようで、セルツェに下がるよう仕草で命令する。
セルツェは一瞬戸惑ったが、光の塊が徐々に人型になりつつあることに気づいて、はっと息を呑みつつ下がった。
「精霊? いや、これは──」
そこでセルツェが黙ったのは、淡い光を放つ半透明の男が閉じていた瞼を開いたからだ。
現れた碧眼は鮮やかで美しかったが、そこに誰も映していないことがわかるほどガラス玉のようだった。
「スクトゥム……さま」
言葉に詰まったことで、兄様と呼ぶことを避けられたが、凪いでいた感情が一気に波立つ。
堪えようとぐっと唇を噛んだところで、二人の視線が私に向いていることに気がついた。
「そうか、お顔を知ってるのは、私だけなのね。間違いないわ。この方は、スクトゥム様よ」
ニフリトに向かって告げると、彼女は一瞬だけ痛ましげに目を伏せたあと、スクトゥム兄様に向き直った。
まるで私たちの動揺が収まるのを待っていたように、兄様が口を開く。
『なぜ来た、ヴィクトリア』
条件反射で首を竦めてしまうほど、聞き慣れた叱責の響き。
懐かしさと悔恨とがごちゃ混ぜになって、思わず反論を口にしようとしたが、それよりも先にニフリトが前に出た。
「スクトゥム様、違います。私は──」
そうニフリトが答えたことでようやく、兄様がニフリトを私だと誤認していることに気づかされる。
『なぜ来たと、聞いている』
揺らぐ輪郭や視力を感じさせない瞳から、彼の魂が摩耗しきっていることは伝わってくる。
だからこそ、血族であるニフリトの気配と、私が──『ヴィクトリアの魂』がここに在ることで、目の前に妹がいると勘違いしているのだ。
「私は、ヴィクトリア様では」
「まって、彼は妹が来たと思ったから現れてくれたのだと思う。誤解させておきましょう」
「え?」
実際、兄様からは警戒ではなく、安堵が感じられた。
おそらくは、私だから感じ取れる微かな機微だ。
スクトゥム兄様はラズゥム兄様と対象的に厳しかったが、向けられたどの言葉にも、蔑みを感じたことはない。
むしろ私の無力を、一緒に嘆いてくれているようだとさえ感じていた。
だから、嫌いだけれど、好きだった。
その兄様の声が──いつだって厳しかった声が、こんなに柔らかく聞こえたことはない。
(こんなに弱気な兄様の声、初めて聞いたわ)
それだけで、つんと鼻の奥が痛んで、目頭が熱くなる。
「話を、きいてあげましょう。誤解をとく時間は、たぶんないわ」
私はニフリトにそう促して、一歩下がった。
戸惑う視線を感じたが、「はやく」と急かすと、諦めたように前に向き直る。
「え、ええと。お待たせしてしまって、申し訳ありません。お兄様」
『待ってなどいない』
「は、はいっ」
消えかけの魂とは思えない迫力に、ニフリトもしどろもどろになる。それだけ、オーラのある人だったのだ。
立派な領主になるだろうと、皆が期待していた。
『待ってなど、いない。だが、ああ──よりにもよって、お前が来てくれたことに、安堵するなど。生涯きっての恥だ』
(どういう意味よ!)
もう死んでるくせに! 死んでるくせに!
声に出しそうになった言葉を、歯を食いしばって呑み込む。
この嫌味な物言いに、何度食ってかかっては周囲に窘められたことか。
私が唯一、令嬢らしからぬ態度を貫けなかった相手だっただけに、魂に反抗心が焼き付いている気がする。
けれどその苛立ちのお陰で、涙は引っ込んだ。
『無力だが、志だけは高かったお前が、まさか聖女として戻って来るとは……』
持ち上げられた手が、触れられないとわかりつつも伸ばされる。
ニフリトが咄嗟に掴もうとしたが、当然すり抜けた。
その気配だけは伝わったのか、兄様が微かに口端を上げる。
『女神も底意地が悪い。生まれたときから慈悲を授けてくださっていれば、お前の苦しみも、この悲劇もなかったものを』
ヴィクトリアが死んだことで父が暴走したのだから、ここにヴィクトリアが現れるわけがないのだが、その矛盾を理解できるほどの思考能力が残っていないのだろう。
ただ、ただ、ミルクーリー家の誇りと、領民を護るために、百年もの間、暴走した領主を封じる役割を担い続けた。
肉体を捨て、命を捨て、けれど救いを信じて、削れに削れた自我の欠片を残し続けてくれていた。
『俺はもう保たない。心許ないが、お前に託すしかない。父上を、頼んだぞ』
返事をするために息を吸ったが、声がでなかった。
元凶である私に、返事をする資格があるのだろうか?
遺された、誰も彼もを苦しめてしまった。
「お任せください。お兄様。必ずや、お父様をお救いします!」
凜としたニフリトの声が耳に届いて、はっと顔を上げる。
ニフリトに妹のふりを頼んだのだから、彼女が返事をして当然なのだが、その迷いのない言葉に、なぜか私が救われた気がした。
『……大きくなったな』
ただただ妹を心配する兄のような顔をして、溶けるように霧散する。
(ずるいわ。最期にそんな顔をされては、すべての意地悪が帳消しになってしまうじゃない)
その意地悪だって、私が悩みすぎないようにと、怒りを向ける矛先になってくれていただけなのだと、今ならわかる。
厳しいけれど、優しい兄だった。
(……さようなら、兄様。最期にお会いできて、嬉しかったわ)
三者三様に、散っていく光の粒を見ていたと思う。
だから、パキンと小さく響いた何かが割れる音に対する、反応が一拍遅れた。
「──ッ」
揃って体勢を崩したのは、足場が消えたからだ。
抜群の反射神経を発揮したセルツェが、足元を凍らせる。
咄嗟だったからか、私とニフリトは足首まで氷に呑まれたが、セルツェが素早く支えてくれたので、捻らずに済んだ。
「焦ったぁ」
「ありがとう、騎士様」
それぞれに言葉を発する間に、埋まった部分の氷をセルツェが砕いてくれる。
「いったい、今度は何が──」
視線を上げて、思わず目を瞬かせる。
鬱蒼と茂る木々は遠く、霧も消えていた。
そして、足元は、水。
どうやら私たちはとっくに、水域に踏み込んでいたらしい。
「な、ちょっ──」
状況への驚きを口にしようとしたが、微かに水面が揺らぎだしたことで押し黙る。
警戒に腰を下げたところで、水面の一部が大きく盛り上がった。