溶岩と雷鳴(4)
「貴方は本当に、予想の付かないことをするわね」
肩を並べて歩きつつ、ニフリトが呆れを隠しもせずに言う。
私としては最善策を取ったつもりなので、その反応は少々不満だ。
「だって、私一人じゃ、こうしないとニフリトを護れないわ」
「貴方が自分で自分を護れる以上、その通りだとしか言えないけれど……せめて一言声をかけてからにしてちょうだい。驚いたじゃない」
「それはごめん」
謝りつつ、視線を前に向ける。
相変わらず濃霧に囲まれていて薄暗いし、鬱蒼としてはいるが、先ほどまで肌をひりつかせていた瘴気の気配は無くなっている。
私が、一帯を浄化したからだ。
魔物の接近に気づけないなら、そもそも近寄らせなければいい。
清浄な空間はそれだけで魔物を焼くので、大半を牽制できる。
範囲を絞り、移動するごとに浄化していけば、かなり安全に移動できる方法だ。
もちろん、相応の魔力がある私だから出来る荒技ではあるが。
「結界ごと移動できれば楽だけど、そこまでの技術が、私にはまだないのよ」
魔力を得て間がない以上、仕方がないことだが、魔法を発動させることと意のままに操ることは、まったくもって別次元の問題だ。
戦闘技術同様、鍛錬と経験が必要だろう。
「ラフィカ、あの」
浄化した範囲の境目についたとき、躊躇いがちにニフリトが口を開く。
「次は私がやるべきだとわかってるのだけれど、その──」
後ろめたさと罪悪感に耐えるように刻まれた眉間の皺に、ぐっと人差し指を押しつけた。
「──っ、え?」
唐突な私の行動に、地面を睨んでいたニフリトの視線が私に向く。
二度瞬いてから半歩下がり、戸惑いがちに額を押さえた。
「な、なに?」
「だめよ。貴方の魔力は、守護精霊と対峙するときに必要なの。無駄にしないで」
あえて厳しく、命令するように告げる。
するとニフリトは、眉尻をこれでもかと下げた。
「ずるいわ。使えないと言おうとしたの、わかって遮ったくせに」
「ニフリトは優しすぎるわね。貴方のその優しさが、今までどれほど貴方自身を苦しめてきたのか良くわかったわ」
いっそ優しさに負けて、魔力を使ってしまえれば罪悪感からは解放されただろうが、それを堪えるだけの覚悟もあってしまったから、板挟みだ。
非情にもなれず、優しさに逃げることも出来ず──今までどれほど傷ついてきたのだろう。
(それでも、たった一人で赤雷蛇を救うために、ここまで来て)
あまりの健気さに、思わず杖を握る手に力が入ってしまう。
先ほどより勢いよく吹き上がった清風に、かなり遠方の鳥型の魔物が飛び立った。
逃げ遅れた数羽が、焼かれて落ちる。
「あ」
「ちょっと、加減はして! あまり追い立てたら、砦の方にも魔物が押し寄せてしまうわ!」
「ご、ごめん。貴方の今までの痛みを思ったら、つい力んじゃったわ」
「──なっ」
「まぁ、今の砦には選りすぐりの冒険者も集まってるだろうし、良い足止めにはなるでしょ」
「まったく。よく回る口ね!」
早口で言い捨てて、再び歩き出してしまったニフリトの後を、慌てて追う。
耳が赤くなっているのが、揺れるポニーテールの隙間からちらちら見えて、可愛らしかった。
私だけに負担を強いている──と、落ち込んでいた気持ちが振り切れたのなら、なによりだ。
暫く歩くと、空気に微かに水の匂いが混ざり始めた。霧も濃さを増し、よりくっきりと導きを示してくる。
「水域に辿り着けそうね」
感慨深そうに、ニフリトが告げる。心なしか、足も速くなった気がした。
「赤雷蛇はそこにいるのかしら」
「可能性は高いと思うわ。というか、そこに居ると見越して、何度も捜索隊が組まれていたの」
「けど、辿り着けなかった?」
「ええ。水域に辿り着き、影だけは見た──と、報奨金目当てで嘯く者はいたようだけれどね」
真剣であればあるほど、その嘘の卑劣さに殺意を覚えるというものだ。
ニフリトが一瞬見せた憐れみの眼差しに、その者の末路を見た気がするが、自業自得だろう。
「でも、どうして水域だと?」
「お父様達は、近寄れないことが証拠だと思っていたようね。私は確信していたけれど、聞き入れてはもらえなかった」
「確信してたってことは、明確な理由や根拠があったってことよね? なぜ貴方の言葉を侯爵様は蔑ろに?」
私の言葉に怒りが混ざったからか、ニフリトはそれを否定するように首を左右に振った。
「蔑ろにしたわけじゃないわ。そういう態度を取らざるを得なかったのだと思う」
「どういうこと?」
「──幼かった私が、私だけに聞こえる音の話をしたとき、両親はとても真剣に聞いてくれたわ。音が聞こえる時の私の苦しみ様を見ていたからだとは思うけれど」
脳みそが溶けて耳から出てきそうな感覚と、激しい頭痛を思い出して、思わず顔を顰める。
幼子が味わうには、過ぎた苦痛だ。発熱したり、嘔吐したりもしたのではないだろうか。
「私がそれを『岩が擦れるみたいな音』と表現したからか、誰かが『守護精霊様が助けを求めているのでは?』と言ったの。推測でしかなかったそれは、いつの間にか確信めいて話されるようになって、守護精霊様をお救いしなければ──という空気になった。加護が途切れていないのは、助けを求めてくださっていたからだって」
「けど、それでも森の霧に惑わされて、何も成果は得られなかったのね?」
膨らんだ期待と、落胆。その失望が、誰に向けられたのかなんて、わかりきっている。
同情の眼差しを向けてしまった私に、ニフリトはただ諦めの滲む微笑みを返してきた。
「私は嘘つきの娘として、お父様の領主としての信頼を、大きく損ねてしまった。内々では何度もお前を嘘つきと思ったことは一度もないと慰めてくださったけれど、領主としては私を庇うことができなくて、とてもお辛そうだったわ。お父様が討伐に意識を振り切ったのは、それも一因だと思う。領民の為に──そして、私の為に。一刻も早く、この問題に決着を付けようとなさってるの」
「……そう」
「その、あれよ? 私に対する白い目は、弟が産まれたことで大分逸れたし、その後、十三歳の誕生日を迎えたことで、総て消えたわ」
「ああ~……人間の愚かさが浮き彫りね」
「いいのよ。大半の人々は、大きな流れに流されるしかないのだもの。そんな力なき人々を護るのが、領主の役目。それに、お父様への失望も、私が聖女となったというだけで全部忘れてくれた。領主の娘としては、汚名が返上できてなによりだわ」
強い。強いわニフリト。
けれど、そんな人々だからこそ、安全が守られ、慎ましく日々を送れさえすれば、懸命に働いてくれる。根は善人なのだ。
(現金、とも言えるけどね)
人なんて、そんなものだ。
「──でもその話だけじゃ、貴方が水域に赤雷蛇がいると確信する理由にはならないわね? あ、ラズゥム様の日記か」
「そうよ。お父様が討伐を宣言されてからも、私だけはそれを受け入れたくなかった。成長して身体が大きくなっても、『音』の衝撃は苦痛だったけれど、それ以上に、なぜかとても哀しい気持ちになって、正体を確かめずにはいられなかったの」
枝葉の間をすり抜け、一筋だけ届いていた陽光がニフリトを照らす。
次の瞬間には葉擦れに混ざってかき消えてしまったが、彼女の哀切な横顔が目に焼き付いていた。
「といっても、手がかりがなさ過ぎだったし、学院に入学したりで、何が出来たわけでもないのだけれどね。ラズゥム様の日記を見つけたのは、本当に偶然だったの。学院を卒業して、仕事を始める前に一度屋敷に戻った時、今一度、守護精霊について学び直そうと思って、地下書庫に行ったのよ。その時に『音』に翻弄されて、よろめいた身体を支えようと伸ばした手が、数冊の本を本棚から引き抜いて、ばらまいたの。そこに紛れてたのよ。薄くて小さいものだったから、分厚いファイルに挟まれたまま、一緒に並べられてしまっていたみたい」
「いやまぁ、偶然というよりは、運命じみたものを感じる流れではあるわね」
私の突っ込みに、ニフリトが苦笑いする。彼女自身も、偶然とは言いつつもそう思っていたらしい。
「で、そこに赤雷蛇の真実が綴られていた──?」
「そうね。百年以上前に起こった出来事とはいえ、こんなにも事実はかき消されてしまうものなのか、と驚愕したわ。もちろん、ラズゥム様が意図的に隠した部分もあったのだけれど。知った上では納得も出来たわ」
「隠したのに、日記に残したってことは、誰かには伝えるつもりだったのかしら?」
「どうかしら。領主としてではなく、とても個人的な心情の吐露に思えたわ。誰にも言えないからこそ、吐き出し口として書いていたんじゃないかしら。途中、何度も手を止めて本を閉じたもの。叶わないとわかっていて、願いを遺したのだと理解できるほどには、彼の苦悩が伝わってきた」
その痛みを再び思い出したかのように、ニフリトが握った拳を胸元に当てる。
私は隣を歩きながら、ただ次の言葉を待った。
「あの音は、声だと言ったでしょう?」
「そういえば、そんなことを言っていたわね。とても、言葉とは思えなかったけれど」
「それはそうね。声と言っても言葉ではなくて、慟哭なのよ。悔いて、悔いて、どうしようもない怒りの行き場を求めて叫んでいるのですって」
「……赤雷蛇が?」
「ええ。正確には、守護精霊を取り込んだ、サトゥールン様よ」
「え?」
なぜ、ここでかつての父の名が?
動揺と、嫌な予感に、ざわりと皮膚が粟立つ。
「ミルクーリー家と契約をしてくださっている精霊様は、とても怒りに感化されやすい性質をもたれているの。だから一族はみな、怒りを抑制するための教育を、幼い頃から徹底的に受けるわ。常に冷静であること。それは加護の力を最大限かつ安全に活用するためには必須だから」
「そう、だった──の」
そうね、と知っていたことを伝えそうになって、口籠もる。
話に夢中になってしまうと、「ただのミルクレスト生まれの娘」という設定を忘れてしまって危ない。
「た、確かに、おと──領主様は、普段はとても大らかでお優しい方だったけれど、討伐に出るときは、近寄りがたいほど静かな空気を纏っておられたわ」
怒鳴るところなど、一度たりとも見たことがない。それは二人の兄も、かつての私自身も同じだ。
怒りを流す術を徹底的に教え込まれ、実戦していた。
私は兄妹の中ではかなり感情的な方で、何度もスクトゥム兄様にわざと揶揄われては憤慨し、母に窘められていた。
そんな私をスクトゥム兄様はせせら笑い、「お前は魔力も資質もなくてよかったな」と、守護精霊の加護を得られない私に嫌味を言っていた。
(ってことを思い出して、イラッとしてる時点で未熟者なのよねぇ)
今となってはそのやりとりすら、懐かしく、愛おしいばかりだが。
「貴方、本当に前世の記憶があるのね。それもそんなに領主様を鮮明に覚えているのなら、館に仕えていた使用人の娘だったのかしら」
「え? あ、そうなの、かも? 言われて見れば、そんな気もするわね!?」
誤魔化したつもりだった発言が、全然誤魔化しになっていなかったことに気づかされて、盛大にどもる。
「そこは曖昧なの?」
「え、ええ」
私の狼狽を、疑われると思ってのことだと勘違いしたのか、ニフリトは優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、一度信じると決めたら、疑ったりしないわ」
「いや、うん……ありがとう。それで、領主様が精霊を取り込んだってどういうこと、なの?」
「サトゥルーン様は、感情を──怒りを制御できずに爆発させてしまったの。その憤怒に強く感化してしまったことで、精霊様は取り込まれてしまったのよ」
「そんなわけないわ!」
思わず否定してしまってから、慌てて口を覆う。
そんな私の背中を、ニフリトはそっと撫でてくれた。
「かつての貴方は、とても領主様を慕ってくれていたのね。嬉しいわ。けど、私は日記に書かれていたことを話しているだけだから、他に何も言ってあげられないの。辛いなら、話すのを止めるけれど──」
「ごめんなさい、続けて。知りたいわ」
耳はしっかりとニフリトの声に傾けていたけれど、視線は周囲を彷徨わせてしまう。
一応の警戒をするふりをして、少しでも気を散らしたいのは、怖いからだ。
その先を聞くのが、信じられないほど恐ろしかった。
「切っ掛けは、愛娘であるヴィクトリア様が魔物によって殺されたこと。たいそう可愛がっておられたそうで、その嘆きようは凄まじかったそうよ」
そう前置くと、ニフリトの口調は朗読のそれに変わった。
記憶をたぐり寄せるように一度視線を落として、静かに語り始める。
──父上は、泉の底から奇跡的に発見された妹の遺体を抱き締めるや否や、同行していた騎士達の目も気にせずに激しく慟哭した。
父上の、あんな姿を初めて見た。
誰もが声をかけられずにいた。そのことを、今でも後悔している。
あのとき、一言でも慰めの声をかけられていたら、と。
気がつけば、父上の身体は周囲の土を取り込んで大きく膨れ上がり、巨大な岩の竜となった。そしてそのまま、木々をなぎ倒すほどの咆哮を上げて飛び立ってしまった。
兄上が咄嗟に防壁を造ってくださらなかったら、我々はそれで消し飛んでいただろう。
大気を震わせるほどの、慟哭。憤怒に赤熱した体表の岩は煮え滾る溶岩となってしたたり落ちて森を焼き溶かし、土と一緒に呑まれた数多の紫電石が弾けて稲妻を迸らせた。
怒りに我を忘れているようでいて、その矛先が森に潜む魔物だったことだけが、不幸中の幸いだろう。
それでも、広範囲に降り注いだ火と雷の雨は田畑を焦がし、砦を焼き、多くの怪我人を出した。
絶対に死人を出すなと、必死の形相で兄上に叱責されたことでようやく動いた我が身の不甲斐なさで、いつも死にたくなる。
けれど父上を封印するため、その身を犠牲にした兄上の代わりを、私は果たさなければならない。
結果的に死者は出なかったが、ミルクーリー家への信頼は地に落ちた。
目の当たりにした恐ろしい光景を語る口を、誰が防げるわけもない。
守護精霊を暴走させた侯爵の話は瞬く間に広がり、恐怖は語られる度に憶測と脚色に飾られて、領地から離れるほど真実を覆い隠していった。
領民を、守護精霊が虐殺した呪われた地。呪われた侯爵家。
馬鹿馬鹿しい。憤怒に駆られた父上は確かに恐ろしい竜となって暴れたが、その被害を受けたのは、領地近くの森に潜んでいた大量の魔物だけだ。田畑の一部と砦は焼けたが、領民の死者は一人もいない。
兄上が、封印の楔となるべく、ただ一人犠牲になられただけだ。
その地が、広大な水域となって沈んだことには驚いたが、母上は女神エレジアの慈悲だろうと泣いていた。
私は女神エレジアが嫌いだ。総てが終わったあとに与えられる慈悲など、無意味だ。
それに眠ろうとすると、父上の慟哭が聞こえる。
父上に安らかな死の眠りなど訪れていない。妹を、ヴィクトリアを失った悲しみと怒りで、今もなお苦しんでいる。
新たにできてしまった広大な水域には、母上の反対を押し切って、エレジアではなく兄上の名をつけた。
私の戒め。あの状況で互いの立場を考えれば、犠牲になるべきは私だった。判断の遅さが、この最悪の状態の領地を支えるに相応しい、最高の後継者を失わせてしまった。
私は私の罪を背負い続けなければならない。足りないと自覚したまま、最高の領主のふりをしなければならない。
噂と恐怖に惑わされず、この地に残り、共に再興してくれると誓ってくれた数多の領民の暮らしを護らなければ。
そして、父上と兄上の魂を、お救いしなければ。
ニフリトは何度、この日記を読んだのだろう。
すらすらと語る口に淀みはなく、ただ淡々と日記の内容が提示されていく。
区切りだったのか、それとも少し記憶を手繰るタイミングだったのか、ふっと言葉が切れる。
それに誘われるように視線を向けると、ぎょっとした顔のニフリトと目が合った。
「どうしたの?」
「どうしたのって、私の台詞だわ」
伸ばされた手が、私の唇に触れる。
驚いて顔を引くと、ニフリトの親指に血がついていた。
はっと口元を押さえると、今更のようにジンジンと痛みが唇に響く。
血が出るほど噛み締めていたのだと気づいて、思わず顔を顰めた。
「ごめんなさい。ラズゥム様のお心を思ったら、辛くて──っ」
誤魔化すために口にした言い訳だったのに、ぶわっと顔が熱くなり、迫り上がってきた感情のままに、両目から涙が溢れた。
ぼたぼたと派手にこぼれ落ちていくそれに、ニフリトが驚愕したのがわかったが、止める術が私にはない。
「──ひっ」
気にしないで、大丈夫と言おうとしたのに、引き攣った嗚咽がでてしまい、私はただ首を左右に振って俯いた。
「ごめっ、ちょ……っ」
「大丈夫よ。そんなに感情移入するなんて、ラフィカは優しいわね」
慰めてくれようとしているのだと、わかっている。わかってはいるが、そんなニフリトの言葉が容赦なく突き刺さる。
(違う。ちがうちがうちがう!)
ごめんなさい。ごめんなさいお兄様。お父様!
私が愚かだったばっかりに──!
「──ッ、うっ」
「ラフィカ、ラフィカ。何か言おうとしなくていいわ。とにかく自分を落ち着けて。貴方、顔が真っ青よ」
優しく背を撫でてくれる手の温かさに、更に感情を揺さぶられたが、これ以上心配させるわけにもいかないので、必死に首を縦に振る。
嗚咽に邪魔されると息苦しくて、私は必死に深く息を吸おうと喘いだ。