溶岩と雷鳴(3)
苔の青臭さと、湿った土の匂い。
早朝の薬草摘みの記憶が脳裏を巡って、私は目を覚ました。
「……う」
気怠さと軽い頭痛に呻きながら、上体を起こす。
すぐ傍で、同じようにニフリトが頭を押さえながら起き上がった。
「いったい、何が」
「さっぱりわからないわ」
ニフリトが立ち上がるのに手を貸そうとして、何か握っていることに気づく。
開いた手のひらの上で、青色の宝石が淡く輝いていた。
結果的に眼前に差し出される形になったそれを、ニフリトも覗き込む。
「カフスボタンね」
「セルツェのだわ。取っちゃったみたい」
ここに放り出される直前に、何かを掴んだことを思い出す。
異変に気づいた彼が、私に手を伸ばしてくれていたのだろう。
「騎士様の姿は……見当たらないわね」
「ええ。無事だといいけど」
「心配だけれど、大声で呼ぶのはやめたほうがよさそう」
ニフリトの苦い声音に、同意の頷きを返す。
私たちがいる場所は、おそらくどこかの森だ。しかも背の高い木々と濃い霧に覆われており、全容が掴めない。
また、肌を微かにヒリつかせる独特の空気が、この森が動物ではなく魔物の領域であることを示していた。
一つ嘆息してから、カフスボタンを腰のポーチにしまう。
ついでに裾についていた泥と苔を払い落とした。防汚魔法が付与されているので、叩くだけで簡単に剥離する。
ニフリトも同じように、乾いて浮いた汚れを落としていた。
いつだったか、彼女の白いそれが、赤黒く染まったのを思い出す。
「私のローブに何かついてる?」
「いや、魔物の血でローブが汚れた場合、洗浄にいくらかかるのかしらって、思っちゃって」
「まぁ、ラフィカったら」
私の言葉に、ニフリトは目を丸くしてから、呆れに眉根を寄せた。
「だって真っ白だから、誤魔化せないじゃない?」
魔物の血の大半は空気に触れると瘴気となって霧散するが、何かに付着してしまった場合、黒い染みとして残る。
汚染度が高いため、防汚魔法では剥がれないのだ。
「洗浄には高価な薬液が必要だから、買い換えた方が安いくらいだけど、聖女のローブとなると、そうもいかないでしょう?」
特殊な素材を使っているだろうし、防御魔法も多重付与されている一品だ。
協会に登録している場合は、証である刺繍も施される。
そう易々と替えが効くものではない。
「いまここで聞くことかしらと思わなくはないけれど、お陰で緊張がほぐれたから良しとするわ。──質問の答えだけれど、協会に申請すれば、無償で用意してもらえるから安心なさい」
「あ、そうなの」
さすが聖女の聖女による聖女のための組織。至れり尽くせり。
「そもそも、普通の店で購入したところで、私たちの懐は痛まないわよ。それに、聖女のローブに魔物の血なんて滅多に付かないわ。どちらかというと、人の血の方が……多いわよ」
自分で言って、落ち込むのはやめてほしい。
とりあえず、私がとても馬鹿な質問をしたことだけは痛いほど理解したので、早々に会話を切り替えることにした。
「教えてくれてありがとう。それじゃ、これからどうするか考えましょうか」
非難の視線から顔を逸らしつつ、改めて周囲を見渡す。
特に変化はなく、濃霧に覆われた薄暗い森が広がっていた。
「……私の推測が間違いでなければ、たぶんここはラルゥワの森よ」
「えっ」
ラルゥワの森。ミルクレストは、この森から現れる魔物から国境を護っている。
広大な土地には多種多様な魔物が潜んでおり、未知の領域が多い。
そのため、ミルクーリー騎士団は砦に近づいてきた魔物を中心に討伐していた。
時折、森の様子を探るために調査隊を組むこともあったが、観察が主だ。
膠着状態の維持が、ミルクーリー家に課せられた使命だった。
私がヴィクトリアだった頃の話ではあるが、当時よりミルクーリー家の力が弱まっている以上、方針が変わっていることはないだろう。
むしろ当時より厳しい条件下で、状態を維持しているはずだ。
それを可能にしているのが、おそらくは領地と森の一部を呑み込んで広がっている『水域』なのだろう。
赤雷蛇の影響だと言っていたが、現状としてミルクレストを護ってくれているのだから皮肉だ。
「何度か水域の調査に同行したことがあるのだけれど、調査隊は濃霧に迷わされて、水辺にすら近づけなかったの。ここは、そのときの森の景色にそっくり……というか、同じね」
言葉にしつつ記憶と擦り合わせたことで納得したのか、ニフリトは確信するように頷いた。
私は私で、遠目に見ていた森の様子を必死に記憶の奥底から引っ張り出そうとして、後悔した。
鮮明に蘇ったのは、父や兄の帰還を砦の前で今か今かと待ちわびていた光景ではなく、死に際に、誤って逃げ込んだ森だったからだ。
入り口付近だったからか木も低く疎らで、木漏れ日に照らされていた。
当然、霧もなかったが、派手に転んで頭から突っ込んだ湿った土と苔の匂い。そしてそこに微かに混じっていた紫電石の焦げ臭さが不意に思い出されて、今、周囲に満ちている空気と綺麗に一致する。
どくりと、大きく跳ねた心臓に、思わず胸を押さえた。
「……紫電石の、においが」
「え?」
「ラルゥワの森は、マナのバランスの影響で紫電石が土中で生成されるから、微かに焦げ臭い匂いがするの。だから、たぶん、ニフリトの言うとおり、ここはラルゥワの森で間違いないわ」
「そうか、匂い……」
同意しつつ、ニフリトがじっと私を見つめてくる。
今だに心臓がどきどきしていたので、挙動不審だったかと不安になった。
「なに?」
「なぜ、貴方も一緒に喚ばれたのか気になって」
「喚ばれた?」
「そうとしか、説明がつかないでしょう? 私たちは、馬車の中にいたはずなのに、こうしてラルゥワの森にいるのだから」
「なるほど。でも、誰がどうやって……?」
「貴方、あの『声』が聞こえてたわよね? 耐えがたい騒音と言った方が伝わるかしら」
「あの、脳みそを直接ゆさぶられるみたいな、地響きのこと? あれって声なの?」
思い出すだけで頭痛がする気がして、思わずこめかみを押さえる。
ニフリトはただ、考え込むように片手を口元に当てた。
「声が聞こえたから、貴方も一緒に連れてこられたのかしら。でも、なぜ、貴方にも声が──ッ!?」
疑問に眉間の皺を増やしたニフリトを、突き飛ばす。
驚愕に目を見開いた彼女の顔は、側面にあった木に叩きつけられた衝撃でぶれた。
弱らせた──と思った方を狙ってくれたことに感謝しつつ、組み付いてきた苔猿の首を鷲掴んでへし折る。
味わったことのない感触に全身に鳥肌が立ったが、続いて現れた三匹を杖で打ち払った。
完全に居竦んでいたニフリトの前に駆け寄り、驚きに跳ね上がった呼吸を整えながら、新手を警戒する。
幸い、近場にはその四匹しかいなかったらしく、森は再び不気味なほどの静寂を取り戻した。
私が構えていた杖を下ろすと同時に、肩を掴まれる。
驚いて振り返ると、真っ青な顔のニフリトと目が合った。
「だ、だ、大丈夫なの!? 怪我は!?」
彼女らしからぬ狼狽ぶりに気圧されつつ、身体のあちこちを触られる。
外套の一部が裂けていたが、かすり傷どころか打ち身すらないことを確かめると、混乱しているとわかる面差しで私から手を離した。
「どういう、こと? 貴方どうなってるの?」
「昨日セルツェには説明したんだけど、私、女神エレノアとは別に、もう一柱の女神の加護を受けているの。怪力や頑丈さは、その恩恵なのよ。だから昨日、貴方が乗っていた馬車を受け止められたのよ」
「馬車……受け止め? え?」
わかりやすく説明しようとしたつもりが、余計混乱させてしまったらしい。
どうやら、昨日、自分がどうやって助けられたかまでは聞いていなかったらしい。
(あのあとすぐ宿屋に直行したものね。別行動したセルツェだけが、あの町の騎士から仔細を聞いたんだわ)
ひとまず、先ほどのように突然飛びかかられることのないよう、身を護れる場所を捜して移動する。
巨木の張り出した根元に二人で身を潜め、小ぶりな聖石で簡易結界を張った。
「……もう一柱の女神って、まさかエレジア様?」
間が開いたことで思考を巡らせる余裕ができたのか、的確すぎる問いが投げかけられる。
そういえば、ニフリトに旅の目的地として「エレジアの泉」と言った時、セルツェのように疑問を抱いていなかったことを思い出す。
その会話から、推測したのだろう。
「さすがね。というか、ニフリトはエレジア様をご存じなのね」
女神エレジアは私の時代でも実在しないと思われていたくらいなので、泉が無くなったところで領民には無関係だったのかもしれない。
あくまで慰め。加護を願うのではなく、行き場のない悲しみを、鎮魂の祈りとして捧げる対象だった。
だからこそ、その名は失われることなく、百年経った今も語り継がれていたのだろう。
「それはこちらの台詞よ。昨日は私の中に知識としてあったことで、聞き流してしまっていたけれど、どうして、大昔に水域に呑まれてしまった泉のことや、エレジア様のことを知っているの?」
最後の一言には、隠しようもない不安が滲んでいて、申し訳ない気持ちになった。
「昨日セルツェには話したのだけれど……私、前世の記憶があるのよ」
「…………それ、は、どういう?」
セルツェですら、反射で一度は「は?」と言ったのに、ニフリトは素晴らしい胆力を総動員してくれたらしい。
それは私に対する配慮であり、彼女の上に立つ者としての器だ。
馬鹿馬鹿しいと切り捨てる前に、もう一歩踏み込んだ情報を提示させてから、真偽を確かめようとしてくれている。
嬉しくて、子孫であることに対しての誇らしさまで感じつつ、私は昨晩、セルツェにしたのと同じ話をニフリトに語った。
ミルクレスト生まれの娘で、若くして一角獣に事故死させられてうんぬんのやつだ。
語りながら、何度もラズゥム兄様の妹である「ヴィクトリア」だと明かすべきか悩んだが、結局は口にすることが出来なかった。
セルツェの時は混乱させるだけだからと避けたが、ニフリトの場合は、私との関係を変えてしまいそうで、言えなかった。
今、少しずつ育まれている友情を、失いたくない。
(馬鹿ね。これから守護精霊を相手に事を起こそうというのだから、血族であったことは明かすべきかもしれないのに──)
本当に必要になったら、その時には必ず打ち明ける。そう自分に言い聞かせて、私は話を締めくくった。
大きく深呼吸するだけの間を経て、ニフリトが口を開く。
「率直に言うと、貴方の言葉を信じてあげたい気持ちと、俄には信じがたい気持ちが鬩ぎ合ってるわ」
「セルツェも似たような事を言ってたわ。だから、私がそう思い込んでいると思って、話を聞いてってお願いしたの」
「そこまで客観的に、自分の言動を把握できてるのね。嫌だわ、信憑性が増すじゃない。貴方が、女神エレノア以外の加護を受けていることは確かだし……。そうね、いくつか質問しても? その返答次第で、私は貴方の言葉を信じることにするわ」
「わかった」
話半分にして、「そういうことにしておいてあげる」と流せばいいのに、どうにかして私を信じたいらしい。
そこにニフリトからの不器用な友情を感じて、胸が温かくなった。
「貴方の時代の領主様はどなただったの?」
「サトゥールン様よ」
かつての父の名を口にすると、ニフリトは不意に表情を硬くした。
「ああそうか、だから──」
「ニフリト?」
「だから、貴方にも声が聞こえて、ここに一緒に連れてこられたのね」
話を理解出来ていない私の手を、ニフリトが握る。
「貴方の話。信じるわ。信じれば、話が繋がるもの」
「え、質問は?」
「今ので充分よ」
きっぱりと、迷いや疑いの一切が払拭された顔で告げられてしまえば、私はそうと頷くことしかできなかった。
静寂の合間に風が吹いて、木々を揺らす。
木の葉が擦れる音は霧に吸い込まれているかのように小さくて、不安を助長した。
同じように思ったのか、ニフリトが周囲を警戒するように視線を巡らせる。
幸いと言っていいのか、周囲に気配はなく、不気味なほど静かだった。
(セルツェとはぐれたのは、痛いわね)
苔猿がニフリトの背後──私の視線の先から飛び出してきてくれていなかったらと思うと、肝が冷える。
母親に鍛えられていたとはいえ、私の冒険者としての経験は、特殊な植物の採集や、罠で捕獲できるような小型の魔物相手しかないのだ。
力があったところで、気配に気づけなかったり、反応できなかったら意味がない。
私自身が標的にされるならまだいい。与えられた加護が、不足を帳消しにしてくれる。
けれど、ニフリトを狙われたり複数の敵に囲まれた場合、今の私では彼女を護りきれないだろう。
誰かを護るには、本人の実力以上に、的確に立ち回るための技術が必要だ。
「……女神エレジア。実在するなら、どうしてこの事態を百年以上も静観しているのかしら。いえ、今、貴方がここにいることを考えると、静観していたわけじゃないのかも」
不意に零された言葉が、木肌をただ睨んでいた私の意識を引き戻す。
顔を上げると、ニフリトと目が合った。
「どういう事?」
「貴方に加護を与えたのは、確かに女神の気まぐれだったのかもしれない。けれど、その気まぐれが、貴方を駒として成立させてしまったのだと思う」
「駒? そういえば、喚ばれたとか、声がどうとか言ってたわね。それと関係が?」
「ええ。あの馬車の中で聞いた音。あの酷い地鳴りのようなものが、『声』だと知ったのは、お爺さま──ラズゥム様の日記を読んだからなの。そして、その声を、今の今まで私以外に聞いた者はいなかった」
「え? あんな、身体が揺れるほどの地鳴りを?」
「そう、貴方が初めてなの。つまるところ、私がラズゥム様に導かれてしまったように、貴方も女神に導かれてしまっている──ということよ。この問題を解決するための、駒としてね」
「んんん、自分で決めてここまで来たのに、結果としては手のひらの上ってなんだか嫌ね」
「ごめんなさい、言い方が悪かったわね。望む結末を得るための、解決手段を持っている──という事でもあると思うわ。今の今まで誰も近寄らせなかった森に、こうして招待されたのだもの」
言いながら、ニフリトが視線を私から逸らす。
動きにつられて前を見ると、不自然に霧の薄い場所があり、道のようになっていた。
「悪いけど、女神様のご指名ありなら、遠慮無く巻き込まれてもらうことにするわ。私に付き合ってちょうだい」
悪戯っぽく微笑んだ彼女に、同じように微笑み返す。
「最初から、手伝うって言ってるじゃない」
木に預けていた背を離して、杖を強く握り直す。
魔氷熊とその周囲の瘴気を浄化したときに込めた魔力量を思い出しつつ、私は杖を地面に突き立てた。