溶岩と雷鳴(1)
車体はほぼ無傷だったので、新たに馬を二頭買い付けることで、馬車は元通りになった。
乗り込む前、ニフリトは二頭の鬣に小さな聖石を編み込む。
それを見ていた私に気づくと、「魔物を馬車から退ける為よ」と言い訳した。
昨日、私に神聖魔力を軽々に使うなと警告した手前、気まずかったのだろう。
「聖女は人々の希望だけれど、何を優先するかは、自由だと思うわ。貴方が護りたいものを、迷わず護っていいのよ」
擁護のつもりで告げた言葉だったが、ニフリトの顔はくしゃりと歪んだ。
「──行きましょう」
ゆっくりと口を開いたとき、たぶんニフリトは別の言葉を言おうとした気がする。
けれど実際に言葉として出てきたのは、前に進むための一言だった。
己の無力さを噛み締めている横顔に、かつての自分が重なる。
前世の私は本当に無力だったけれど、ニフリトは聖女としての力があるぶん、別の苦しみがあるのだろう。
(家のこともあるしね)
乗り込み口の脇で待機していたセルツェが、ニフリトの乗車を補助する。
それに続いて、同じようにセルツェの手を借りたところで、御者がいないことに気がついた。
「あら、御者はどうしたの?」
昨日私が助けたので、無傷のはずだ。
思わず問うと、セルツェの眉尻が少しだけ下がった。
「ここから先は更に危険になるかもしれないから、俺が代わることにしたんだ。二頭立てなら、操縦できるからな」
「まぁ、多才なのね」
返事の代わりに、ぐっと腕に力を入れて私の身体を引き上げてくれる。
余計なことを言っていないで、さっさと乗れと言うことらしい。
私は大人しく口を閉じて、ニフリトの向かいに腰かけた。
そうしてから、これが二人乗りの馬車なのだと気づく。
「あ、そうか。私が増えたから、乗れないのね。私、外を走ってもいいわよ?」
「冗談にしても笑えないわ」
ニフリトにぴしゃりと言い据えられて、思わず背筋を正す。
眉根に微かに寄った皺が、本気で私を窘めていることを示していた。
「ごめんなさい。聖女は聖女としてわかるように、行動すべき──なのよね?」
「その通りよ。聖女だと知らずに、誰かが貴方を見捨ててしまった場合、その者は法で裁かれるの。忘れないで」
たとえどんな理由があろうとも、人々は聖女を助けなければならない。
この世界にとっての聖女という存在の重さを、改めて突き付けられて、胃の底が冷える。
そこまで考えが及ばなかったことを、私は恥じた。
「私は本当に浅はかな思いつきで、ここまで来てしまったのね」
「そうね」
「だけど、私を見捨てて誰かが罰せられるなんてこと、絶対にないわ。まぁ、生き延びた私にぼこぼこにされはするでしょうけど!」
あまり空気が暗くなりすぎるのも嫌で、無理矢理明るい声を出す。
ニフリトは最初こそ目尻を吊り上げたが、すぐに私の意図を察したように大きく嘆息した。
「その自信は、どこからくるのかしら」
肩の力を抜くように、背もたれに身体を預けながら、力なく微笑む。そのままもう一度深く呼吸をしてから、真っ直ぐに私を見つめ返してきた。
翳りがちだった瞳に、少し輝きが戻っている。
「ごめんなさい。私、ちょっと嫌味っぽかったわね」
自らの態度を反省しつつも、膝の上で固く握られたままだった両手に、私はそっと手を添えた。
「大丈夫よ、ニフリト。私がいるわ」
ニフリトからしたら、根拠のない励ましだ。
そんな私の態度に目を瞬かせてから、彼女は開き直るように大きく口端を上げた。
「貴方は本当に、物怖じしないわね。騎士様から話は聞いたのでしょう? ミルクーリーの娘と深く関われば、貴方も呪われてしまうかもしれないわよ?」
「そんな──」
問いかけたくせに、返答を阻むように床をかかとで二度叩く。
それを聞き逃すことなく、セルツェは馬車を走らせ始めた。
「っ──ちょっと、タイミングおかしくない!? 舌を噛むところだったわ」
「怖じ気づいたわ。ごめんなさい、大丈夫?」
「もう、大丈夫よ。それと、ありもしない呪いを恐れる理由はないわ。この馬車に乗ってる時点で察してくださる?」
頬杖をつきながら、わざと高慢に言い放つ。
ニフリトはそんな私の態度に瞠目してから、眉尻を下げた。
「ありもしない、か。いつか本当の意味で、皆がそう思ってくれればいいのに。でも、今だけは、取り繕うだけの情報規制をしてくれた父に感謝するわ。そのお陰で、ラフィカが私の言葉に耳を傾けてくれるのだもの」
「私が無知だから、貴方を恐れていないみたいに聞こえるのだけれど?」
私の非難を、口端を軽く上げることであしらって、ニフリトは添えていた私の手を握り返してきた。
意を決するように、ぎゅっと力を込めてくる。
「騎士様からは、どこまで聞いたの?」
「捨て地……と、呼ばれるようになった所以を。ミルクーリー侯爵家が守護精霊を暴走させて、領地に甚大な被害をもたらした、とか」
「それだけ?」
「え? ええ。自分が知ってるのは、憶測や尾ひれがつきまくった噂話に過ぎないから、あとは貴方に訊けって」
「まぁ。思慮深い方なのね。『捨て地』なんて現地での蔑称まで知っているのだから、詳しいでしょうに」
「プテウス出身なんだそうよ。だから冒険者だった頃は、この地域で活動していたみたい」
「なるほど。確かに彼は若いものね。蔑称としてよりは、そう呼べば伝わるから口にしていた──という類いね」
「貴方の前で言ってしまったことを、とても反省していたわ」
「確かに、今までの彼の言動を思えば、大きな失言だったわね。でもそれはつまるところ、貴方がミルクレストへ行こうとしていることに、本当に驚いたって事じゃないかしら? まぁ、それは私も同じだけれど」
「うっ」
気まずげに呻いた私に、ニフリトがふふっと笑う。
柔らかな笑顔には、彼への許しも感じて、安堵した。
友人が友人に、悪く思われたままになってしまわなくてよかった。
「けれど、それで周囲に通じてしまうほど、馴染んでしまった呼び名──ということでもあるのよね。どうして真偽関係なく、嫌な話ばかりはやく広まるし、長く残るのかしら」
声音に混じる疲労は、そのまま彼女の苦労を物語っている。
ニフリトが聖女としての活動の場を、ミルクレストではなく首都にしていた理由。そして、邪竜討伐の本隊に参加するつもりでいた理由。
その真意を不意に察して、私は息を呑んだ。
「ニフリト……貴方、自分を犠牲にして、ミルクーリーの名誉を少しでも回復しようとしているのね?」
最初から、己の家名に誇りを持っているのは窺えていた。
だから彼女は、彼女なりの方法で、ミルクーリーの状況を変えようとしているのだ。
その価値が、ミルクーリーにはあるのだ。少なくとも、彼女にとっては。
そう気づかされた瞬間、胸中に湧いた喜びの強さに、自分で驚く。
守護精霊を暴走させた──なんて信じられない話を聞いてから、あの誇り高かったミルクーリーの血は濁ってしまったのだと、私は心のどこかで失望していたらしい。
(そんなわけ、ないのに)
誇りが失われていたのなら、とうにミルクレストを捨てているはずだ。
失態を恥じ、捨て地と誹られても尚、与えられた使命を果たすため、その場に留まり続けている者達が、高潔でないわけがない。
「十三歳の誕生日に、聖女としての資質があるとわかったとき、私はとても嬉しかった。私が聖女として活躍すれば、ミルクーリー家を呪われているなんて言う者はいなくなる。幼かった私は単純に、そう思ったわ。けれど、世の中そんなに甘くないのよね。私の献身は、一部の良心的な人達の同情を得られる程度でしかなかった。まるで真意を見透かされてるみたいに、尽くしたところで汚名が濯がれるわけではないと、避けられて、陰口を言われて……挙げ句の果てには、聖女なのに恐れすらされて。本当は私、王城に務める予定だったの。あそこなら様々な貴族と接点ができるし、真面目に働いていれば印象を変えられると思って喜んだわ。けど、噂しか知らない小鳥たちに色々と囀られてしまって。不安だ、呪われたら……と声がでてしまったら、どうしようもなくて。だから、私は──」
言葉に力がなくなっていくにつれて緩んでいた手を、繋ぎ止めるように握り返す。
私の行動に驚いた様子で、ニフリトはうつむけていた顔を上げた。
「ニフリトがどういう経緯で、覚悟を決めたのかはわかったわ。でも、死にたいわけじゃないでしょう?」
「そんなの、当たり前じゃない。でも、邪竜討伐に参加するなら、仕方がないでしょう? ラフィカだって、今までの邪竜討伐がどういう結果に終わっているかわからないで参加を望んでいるわけじゃ……ないわよね?」
言葉半ばで、私への疑惑にニフリトの眉根が寄る。
さすがにそれはひどいのでは? と思いつつ、私は慌てて頷いた。
「わかってるわよ。だから行きたいの。誰も死なせないために!」
ちょっと力みすぎてしまった私の言葉に、森色の瞳が大きく見開かれた。
「誰も、死なせないため」
「そうよ。当たり前でしょう。私たちは、そのために行くのよ?」
予想外の言葉を言われた──みたいな反応を返されて、私の方こそ驚く。互いに互いの言葉が理解出来ないような、奇妙な間を置いてから、なぜかニフリトの顔が泣き笑いみたいに崩れた。
「恥ずかしいわ。聖女とはこうあるべきと……散々貴方に説教しておいて、なんてざまかしら。私なんかより、貴方の方がよほど立派な聖女ね」
「へ?」
「邪竜討伐に参加することが決まってから、私は結果のことばかり考えていた。私の犠牲が、少しでもミルクーリー侯爵家の貢献として、周囲の印象に残りますようにって。そのためには、参加することをもっと周囲にアピールしたほうがいいかしら? とかね」
少し茶化すように語尾が上がったが、ニフリトの表情は硬い。
その愚かさを、誰よりも自分が理解しているのだと、言わんばかりだった。
「家の再興に立場を利用しようと考えている時点で、聖女として相応しくない自覚はあったのよ。でも、だからこそ、課せられた役割だけは間違わないようにと、心に留めていたはずなのに──。いつのまにか、信念が歪んでしまっていたみたい」
「……ニフリト」
どう言葉を返したらいいかわからずに、戸惑う。
そんな私を気遣うように、ニフリトは声のトーンを上げた。
「ありがとう、ラフィカ。目が覚めたわ。そうよね、聖女は人々を救うためにいるのだもの。たとえそうだと決まっていたとしても、死ぬ覚悟なんてしてはだめよ!」
「う、うん」
急に爛々としだした緑眼に気圧されて、微かに仰け反る。
若干引いている私に気づいたニフリトが、恥じ入るように掴んでいた手を離した。
「ごめんなさい。興奮してしまったわ」
「元気になったのなら、いいけど」
「気の持ちようって大事ね。気づかせてくれて、本当にありがとう。鬱々とした気持ちを引き摺ったまま、最後の機会に挑むところだったわ」
一人で納得して、晴れ晴れとした顔で話を締めくくらないでほしい。
脱線した上に、本題には欠片も触れられていない。
けれどそこに話を戻す前に、一つだけ。一つだけ確認しなければならないことが出来てしまった。
「ニフリトは……邪竜討伐本隊への参加、決まってたのね」
「え? ええ。こればかりは、立場が味方したのよ。他の貴族達にとって、自分の娘の代わりとして推すには、もってこいの聖女だもの」
恨みがましい気持ちで言ったのに、肝が冷える言葉を返されて、二の句が引っ込む。
言い淀んだ私を、ニフリトはどこか面白そうに見ていた。
どうやら今度こそ本当に、復活したらしい。
「ね、ねぇ、ニフリト。貴方と私の仲なんだし、私を推薦すべきじゃないかしら? 昨日もセルツェがほら、私の活躍を説明してくれていたじゃない。邪竜討伐を前代未聞の結果で成功させるためにも、私という優秀な聖女は必要だと思わない?」
私の提案に、ニフリトがはっと息を呑んだ。
「そうよ、それよ。昨日は話がややこしくなるから流したけれど、どういうことなの? 報告書には聖女の人数まで書いてなかったから、大変だったのね──ぐらいに思っていたのに。貴方一人しかいなかったなんて! 貴方いったいなんなの?」