ある少女の覚醒(2)
鈍い、金属を突き抜ける音が眼前で弾ける。
私の前に立ちはだかったのは、長身の青年だった。
文字通りの肉壁となり、私を貫くはずだった双角をその身に受ける。 驚嘆すべきは、胸当てごと貫かれてなお、その場に踏み留まったことだ。
「う、おおっ」
気合いと共に大角猪の頭部を抱え込み、つま先を地面にめり込ませる。当然、より深く角が突き刺さった。
「ば、馬鹿! 死ぬわよッ」
誰のためにそうしたのかなんてわかっているが、言わずにはいられない。どうしたらいいかわからなくて、血の気が引いた手を青年の背後で彷徨わせた。
「ど、ど、どうしたら」
「はなれ──ゴフッ」
言葉半ばで口から盛大に吐き出したらしい血が、ぼたぼたと地面に落ちる。がくり、と青年が片方の膝を折った。
(だめ、だめよ。だめ!)
奇妙な既視感と死の気配に、背筋が凍る。
黒い騎士服に、見たことがないはずの赤褐色の鎧が重なった。
我らが時間を稼ぎます。お逃げください!
見たこともないほど蒼白な顔で告げられ、今までされたこともないような乱暴な所作で、背後に突き飛ばされた。
私は──わたくしは……?
「馬鹿野郎! なぜ正面にでた!」
鼓膜を震わせた罵倒に、はっとする。
視線を向けると、赤髪の騎士が猛然とした勢いで駆け寄ってきていた。
迫る殺気に反応してか、大角猪が串刺しにした青年ごと振り返ろうとしたが、男のほうが速い。
「俺の部下は、バーベキューの材料じゃねぇぞっ」
とてつもなく、強い踏み込みだった。
蹴られた土が派手に散り、抜剣された青緑に輝く刃が一撃で大角猪の首を断ち落とす。
斬撃の余韻が、雑草を太刀筋のまま一直線に切り飛ばした。
「セルツェ、なんて馬鹿なことを! 猪の正面に立つなんて、子どもでもしねぇぞ! 死ぬなら女の上で死ね!」
「たい、ちょ、だめだ──っ」
ひどく掠れた声で、セルツェと呼ばれた長身の騎士が言う。
その言葉の意味を赤髪の騎士が理解したのは、背後にいた私と目が合った瞬間だろう。
ひゅっと、男は息を呑んだ。
青年の行動の意味を理解し、同時に己の行動の結果を理解した、そんな顔。
髪よりも鮮やかな赤い瞳の瞳孔が、奇妙なほどゆっくりと広がる。
同じような速度で、背中から大角猪の角を生やしたまま、セルツェ様が私に向かって倒れ込んできていた。
胴体の重みを失って浮いた頭部を、支えきれなかったのだ。
普通ならば前に倒れ込みそうなものだが、首を断つ際の衝撃が彼を後ろに押したのだろう。
角の先端が額に触れた瞬間、私は、私であって私ではない少女の最期を思い出していた。
蘇った記憶が溢れる光となって頭部に満ち、体のどこかで何かが外れたような、そんな感覚に襲われる。
それは、私に強い怒りと確信を抱かせた。
(あのクソ女神! 私の記憶が戻らなければ、与えた力を使わせない気だったわね!?)
詐欺まがいの加護に殺意を覚えながら、眼前の角を掴む。
私の腕は、与えられた加護の力を存分に発揮して、青年ごと大角猪の頭を脇に転がした。
「え?」
「ぐあっ」
赤髪の騎士の呆けた声に重なるように、セルツェ様が悶絶する。
「あぁっ、ごめんなさい」
馬鹿ねラフィカ! そっと退かさないとだめよ!
「え、ちょ、なん──? いや、今はそれどころじゃねぇ!」
赤髪の騎士は私の焦りを無視して動揺を口にしたが、すぐにはっとしたように後方に振り向いて、叫んだ。
「聖女様! こっちだ!」
視線を向けると、五名ほどの騎士に交じって、深緑の外套を纏った女性が二人駆けつけて来た。
外套の隙間から、聖女であることを示す乳白色のローブが見える。
近づいたことで状況を理解したらしく、すぐさま隣を奔っていたもう一人の聖女と頷き合った。
「ナジャは胴体の瘴気を!」
「わかりました! ウニクス様や他の騎士様方も私と一緒に! 胴体をできる限り怪我人から遠ざけてください!」
「承知した」
黒髪の少女の指示で、同行していた騎士達が大角猪の胴体に近づく。
その後からもぽつぽつと、木陰の合間から騎士達が現れていた。そこそこの人数で編成された部隊だったらしい。
「ハジュール様はこちらに! 隊長様と一緒に私の合図で角を引き抜いてください!」
金髪をポニーテールにしたもう一人の聖女はそう叫ぶと、血でローブが汚れるのも気にせず、セルツェ様の脇に膝をついた。
彼女が大角猪に触れた瞬間、皮膚を浅く刺激していた瘴気が薄まる。
「貴方は退いて!」
「あ、はい」
叱責に近い鋭い言葉に身を竦めて、慌てて立ち上がる。
逼迫した空気に気圧されるように距離を置いてから、私はぎゅっと両手を握り締めた。
(思い出した。思い出した。思い出した!)
大角猪。
騎士。
私を庇って貫かれた、体。
最悪すぎる符号に、吐き気を覚える。
セルツェ様に重なって見えた赤褐色の鎧は、かつて私が侯爵家の娘として生きていた頃の、領地の騎士団の鎧だ。
改めて記憶をなぞると、懐かしさと悔しさと悲しさで、目頭が熱くなる。私はそれをぐっと堪えて、先ほどから胃の底にあった激しい怒りの方に意識を振った。
今の今まで、発露することのなかった加護に対しての怒りだ。
なにが慈悲だ! なにが加護だ!
誰かが傷ついてからでは遅いのに!
(泉の女神エレジア──いつか絶対、色々と訊きに行かなくちゃならないわね?)
やり場のない怒りに鼻息を荒くしていると、焦りを隠しきれない怒声が声が耳に届いた。
「だめだ、抜けねぇ!」
睨み付けていた地面から視線を上げると、いつの間にか騎士が三人に増えていた。
セルツェ様から大角猪の角を引き抜くことに、苦戦しているらしい。
頭部からは切り離したらしく、角だけが残った状態で膠着しているようだった。
(なにをもたついてるわけ? 死んじゃうじゃない!)
思わず一歩踏み出すと、聖女が大きく身を震わせたのが見えた。
「なんてこと、わたし、私のせいで──っ」
「聖女様のせいじゃない。俺たちがしくじったんだ。聖女様はとにかくこいつが死なないよう治癒魔法をかけ続けてくれ。角が抜けたら、再生魔法に切り替える。いいな?」
「は、はい」
聖女の動揺と、騎士達の焦り。何が起こったのかは、距離が近づいたことですぐにわかった。
角を抜くタイミングと、再生魔法をかけるタイミングを誤ったのだ。
青年に突き刺さっている角が、再生されかけた肉にみっしりと填まってしまっている。
唯一の救いは、止血できているということか。
傷口をぎゅうぎゅう押されているようなものだから、めちゃくちゃ痛いだろうけど。
状態を気にしている場合じゃないと悟ったのか、セルツェ様を地面に仰向けにして、一人が体を押さえ込み、二人が角を引く体勢になる。背中から突き出た部分は地面に刺さっている状態だ。
傍から痛みを想像するだけでもぞわっとするような光景に、指先が強ばった。
新たな声合わせで、三人が渾身の力でそれぞれの役割を果たす。
僅かに動いた角は青年を激痛に叫ばせ、再び聖女に再生魔法のタイミングを誤らせた。
「あ、あ、ああ──」
聖女が蒼白になり、手を震わせる。
魔力を乱しながらも再び治癒魔法に切り替えようとしたその手に、私は左手を重ねた。びくりと跳ねて浮かせようとした手を、強く押し留める。
「そのまま!」
涙目の碧眼を真っ直ぐ見つめて、励ますように重ねた手を軽く握った。
困惑が残る瞳に、言い聞かせるように告げる。
「絶対に抜くわ。全力で再生魔法をかけ続けてください!」
「おい、おま──」
強引に割り込んだ私の肩を、誰かが掴む。けれどそれが、後ろに引かれることはなかった。
隊長? と戸惑う声を背後で聞きながら、両手で片方の角を掴む。
目で合図をすると、覚悟を決めてくれたらしく、こくりと聖女が頷いた。
宣言通り、私はそれを──一息で引き抜いた。
「なっ」
「あっ」
「えっ?」
それぞれの感情がこもった声と同時にブジュッと派手に血が噴き出て、私と聖女の顔面を汚す。聖女の手で覆いきれない傷口の隙間を、慌てて両手で押さえ込んだ。
途端、目映い閃光が聖女の手から溢れ、見る間に傷が塞がる。
「え、え?」
「聖女様、もう一つ抜きますよ!」
「あっ」
セルツェ様の体力を考えれば、さっさと処置を終わらせて休ませてやらなければならないだろう。
私は聖女の返事を待たず、すかさず二本目も引き抜いた。
先ほどと同じように聖女が翳す手の邪魔にならない位置で傷口からの出血を防ぎ、再生魔法で傷口が塞がるのを見る。
聖女の手のひらから光が消え、綺麗に塞がった腹が見えると、安堵の吐息が零れた。
「……ふぅ」
額に滲んだ脂汗を降りかかった血と一緒に拭きながら、呆然と私を見つめていた聖女に微笑みを返す。
「お疲れ様です。私の命の恩人を救ってくださり、心より感謝申し上げます。こんなに間近で聖女様の御業を目に出来きたことも、光栄でした」
「え? あの、その、わた、し……は」
私の言葉に対して、聖女が掠れ気味の声で戸惑いをみせる。
話しかけたことは、失礼だっただろうか。
そう思って気まずくなった瞬間、ぐらっと聖女の体が傾ぐ。
「聖女様っ」
私の声よりも先に長髪の騎士がすかさず聖女を支え、そのまま抱き上げた。
「魔力切れ……ですかね」
「だろうな。強力な再生魔法を二回も使ってくださったんだ。そのまま丁重に運んでくれ」
「了解しました。今日はこのまま撤退しますか?」
「この状況で他に選択肢があるか? 向こうで所在なさげに突っ立ってる鈍足の連中に声をかけて、担架を作らせろ。今頃追いつきやがって。重装備の連中以外は基礎鍛錬のメニューを倍にしないとだな」
「貴方やセルツェの脚力が化け物だってことを、忘れないであげてくださいね」
「馬鹿いえ、化け物はこいつだけだ。聖女様のおかげとはいえ、腹にでかい穴を二個も開けて生きてるんだからな」
「確かに」
赤髪の騎士がそう告げると、長髪の騎士は軽く肩をすくめてから、きびすを返した。
そう経たずに、木の枝と外套で作られた簡易担架を持って二名の騎士が駆け寄ってくる。
目測を誤ったのか長身の体が盛大にはみ出たが、なんとか乗せられたので内心でほっとしてしまった。
「失礼しますッ」
「うるせぇ! 挨拶はいいからとっとと運べ!」
敬礼姿のまま揃って飛び上がり、二名の騎士は慌てて担架を持ち上げる。
そのままものすごい勢いで運ばれていくセルツェ様の姿を、隊長と呼ばれた赤髪の騎士は無言で見送っていた。
私の脇に立って。
いや、めちゃくちゃ気まずいんですけど。