同行実習(3)
息を詰めながら睨んでいた瘴穴が、フッと半透明の壁に包まれる。
壁の外側の瘴気は霧散し、逆に内側のそれは濃度を増して、壁の形を明瞭にした。
綺麗な三角錐の結界が、瘴穴を中心に展開されている。
「設置し終わったみたいだな」
「……そうですね」
ほっと息を吐き出しつつ、にやにやと向けられている視線から顔を逸らす。
「見ないでください」
「おっと、聖女様に対して不躾だったな」
「本当に、勘弁してください……ザモークさんが『使われるな』なんていうから、変なスイッチ入っちゃっただけです」
「ふはは。いやぁ、面白いもんを見た。聖女というより、高慢な貴族令嬢みたいだったぞ」
「高慢……っ」
「いやまぁ、言ってることは的確だったから、高慢は違うか。高貴。高貴だな!」
穴を掘って埋まりたい。
本当に。マジで。なんなら多分、秒で掘れるし!
「成功したわ! 最後の一カ所、聖女様が訂正してくれた場所で大正解ね」
「やめて……聖女様はやめて……マリーナフカさんっ」
「あれ、元に戻ってる」
どこか楽しそうに言われて、顔を上げられなくなる。
あああと声にならない声を発しながら蹲ると、ぽんと肩を叩かれた。
おそるおそる顔をあげると、ちょっとどぎまぎした様子のアゴニと視線が合う。
「わかる。俺にはわかるぞ。何もかもを振り切って、万能を演じたい年頃だもんな! 俺もラフィカぐらいのときに、一人で生きていけると粋がって家を飛び出した口だから、気持ちはわかる」
共感するていで傷口に塩を塗り込むのはやめてほしい。
あとべつに、そういう、アレでソレな感情が爆発したわけじゃないし!
前世の記憶スイッチが入っちゃっただけだし!
「頭蓋骨が凹むほど殴れば、みんな忘れてくれるかしら」
「普通に死ぬからやめて」
腰帯に装備している聖杖に手を掛けたところで、そっとマリーナフカさんに止められる。
涙目で見上げると、さすがにからかいすぎたと思ってくれたのか、申し訳なさそうな顔で腕を引いてくれた。
素直に立ち上がり、ぐすりと鼻を啜る。
「ごめんって。でも格好良かったわ。体が勝手に従っちゃったもの」
「良い素質だと俺は思うぞ。聖女は皆、意思は強いが謙虚に過ぎる。お前のように横柄に振る舞える存在は、彼女たちの心を変えるかもしれん」
「横柄」
「横柄は違うか? 自由。自由だな!」
なぜザモークさんは、辛辣な単語を先に当てはめるのか。
わざと? わざとなの?
「それで、聖女様。これからどうする?」
「親父、限度」
あえて親父と言うことで、アゴニが釘を深く刺してくれる。
また涙目になった私にようやく気づいてくれたらしく、ザモークさんはうなじをかいて気まずそうにした。
「すまん、すまん。若い娘をからかい過ぎちゃいかんな。よし、一度距離を置いて、魔物討伐部隊の到着を待とう。聖女がいた場合は、瘴穴を浄化する間の露払いを手伝う。アゴニ、一応信号弾も打っておけ。黄、赤、青」
「了解」
即座に懐から万年筆サイズの筒を取り出して、真ん中をくるりと回す。刻まれていた魔法陣が綺麗に繋がったのを確かめてから、アゴニはそれを上空に向け、魔力を通して発動させた。
ザモークさんの指示した通りの色の光球が順に打ち上がり、縦に三つ並んだ状態で中空に留まる。
最初は現在の状況。次が直面している問題の危険度。最後は自分たちの状態だ。
ざっくり言語化するなら、「対処はしたが、危険な状況ではある。待機してそちらの到着を待つ」といった感じだろう。
深い森の中や屋内では使えないが、幸いここは木々もまばらなので、よほどでなければ見落とさないだろう。
(伝達系の魔導具は高価だから要所要所の拠点にしか置いてないのでしょうけれど、今後は巡回にも持たせた方がいいんじゃないかしら)
「伝達器の携帯は今後必須だな。話し合いの時にあっちにも提案して、登録紋を決めておかねぇと」
提案するまでもなく、ザモークさんが呟く。
無言で同意の頷きをしていたら、白い光球が二つ、森の奥から上がった。返事だ。
「向かってくれてるが、思ったより遠いな」
「結界が保つといいけれど」
「外側に結界をもうひとつ張りますか? 私にも良い練習ですし」
「遠隔設置できるの?」
「え?」
マリーナフカさんの驚きに、間の抜けた返答を返す。
その瞬間、ザモークさんが渋面になった。
「却下」
半眼の顔を突き付けられる形で否定され、思わず一歩下がる。
困惑した私に呆れるように、マリーナフカさんが額を抑えた。
「任意の場所に展開できないなら、中心に貴方がいるじゃないの。聖石の結界が割れたらどうするの」
「あ、そうか。そうですね」
任意の位置へ結界を設置するのは応用なので、まだ試したこともない。なので結界を張るには瘴穴に近づかないとな~とは思ったが、内側に自分がいるという感覚が欠落していた。
どうして人は、たまに「阿呆かな?」としか言いようがない事を見落とすのだろうか。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
「そもそも魔力に余裕はあるの? 無理はしないで──」
言葉が途中で止まったのは、私と同じように微かな地響きを足裏に感じたからだろう。
私とマリーナフカさんは同時に足下をみて、そこに視えたものに戦慄した。
「走って!」
マリーナフカさんの悲鳴に近い怒声に、結界をより近くで見ていたザモークさんとアゴニが弾かれたように振り向く。
マリーナフカさんがザモークさんの背後に水の膜を出現させたのと、それが赤黒い濃霧に呑まれたのはほぼ同時だった。
ザモークさんが駆け寄りながら自分の外套を毟り取って、私に抱きついたマリーナフカさんごと包み込む。
布が顔を覆いきる刹那、隣で同じようにアゴニを引き倒したザモークさんのうなじや腕の皮膚が、瞬く間に火ぶくれて弾けた。
「はっ……はぁっ──っ」
「ぐ、う! 目がっ、くそっ……リーダー! おい、返事をしてくれ、親父!」
アゴニの呻き声を聞きながら、口から飛び出しそうな心臓を呑み込む。
咄嗟に聖杖を握れた自分に、涙が出るほど感謝した。
でなければ、結界の発動が彼らの命に間に合わなかっただろう。
頭部を覆っていた外套をそっと剥ぐと、涙で滲んだ視界の先で、瘴気を阻む壁が綺麗に展開されていた。
手の震えをとめるように聖杖を握り直し、体を起こす。
私とマリーナフカさんを護ってくれた外套は大半が消失しており、互いのブーツから煙と異臭が立ちのぼっていた。
私の足は泉の女神の加護により無傷だったが、マリーナフカさんの足はどこがブーツでどれが足の肉かわからないほど爛れ溶けて、混ざってしまっている。
瘴気耐性を付与していたであろう外套を私たちに渡してしまったザモークさんの状態を考えたくなかったが、躊躇っている場合ではない。
「アゴニ。アゴニ! ザモークさんの状態は!?」
「わか、わからない! 目をやられて……でも、息はしてる。してると、思う! 助けて、助けてくれ!」
悲鳴みたいな涙声に思わず視線を向けてしまったが、激しく後悔した。
アゴニに覆い被さっている肉塊が、ザモークさんだとは思いたくない。
(うっ、馬鹿! 動揺するから見ないようにしたのにっ)
場違いな吐き気をぐっと堪え、生理的な涙を瞬きで振り払う。
「マリー、マリーナフカさん、意識ありますか!」
「ぐ、う……まって、今、痛覚遮断してるから」
酷い掠れ声で呻くように告げると、ポッと一瞬だけマリーナフカさんの体を魔力光が覆った。強ばっていた体が弛緩し、私に乗っかったまま大きく息を吐く。
「信じられないわ、瘴気耐性を二重にかけてあるブーツが溶けた」
酷く冷静な物言いに、乾いた笑いが口から洩れる。
マリーナフカさんもつられるように真っ青な顔で笑うから、強ばっていた体から力が抜けた。
まるで私が落ち着くのを待っていたかのように、腕に力を入れて上から退こうとしたマリーナフカさんを慌てて押し留める。
「待って、動くと多分、骨が折れます。そのままでいいんで、結界張ってもらっていいですか」
声はどうしても震えたが、マリーナフカさんは首を横に振った。
「最初に張ったわ。でも、あの濃度は私の結界じゃ防げない」
「凄まじい濃度だったのは、二度目の噴き出しの瞬間だけだったみたいです。今は少し落ち着いて、周囲の景色も見えて来てます」
「……それなら、いけるかしら。いえ、やらないとザモークが死ぬわね。いいわ、やってみせる。でも、失血が酷いから十秒が限界よ。その間に、治療をお願い」
きっぱりと宣言したその気概に勇気をもらい、私も強く頷いた。
「充分です。間に合わせます!」
私が告げるなり、マリーナフカさんの背中に大きな魔法陣が展開する。
美しい水の膜がドーム状に広がったのを確かめてから、私は結界を解いた。
見る間に水膜に瘴気が混ざり、赤黒く濁る。
「慈悲深き女神エテルノよ、その眩しき光をここに。第五の加護・蘇生!」
奇跡を願う祈りを、聖杖に注いだ魔力が魔法に変える。
けれど直感で、それが違うとわかった。
(違う。違う違う違う! しまった、気持ちが分散した!)
目の前で、じわじわとマリーナフカさんの足が再生されていく。おそらく同じようにアゴニとザモークさんも再生を始めているだろうが、それではザモークさんが助からない。
ザモークさんに蘇生魔法を施すつもりだったのに、他の二人の外傷にも意識が向いたせいで範囲再生になってしまったのだ。
(あの損傷を再生で治療するのは無理だわ、体力が尽きてしまう!)
即座にもう一度、魔法を展開させ直そうとしたが、ぐっと水膜が縮んで、肝が冷えた。
再生に体力をもっていかれたからか、マリーナフカさんの魔法が大きく乱れる。
「うぐっ」
「マリーナフカさん、もう少し耐えてくださ──ッ」
無茶とわかって叫んだが、実際に結界が崩れてしまうと泣きたくなった。
仕方なく結界を張ろうとしたが、私が展開させる前に、頭上に広がった炎が瘴気を阻む。
「俺じゃ五秒だ! 頼む、親父を助けてくれ!」
アゴニの悲鳴が、私の心を揺さぶる。
マリーナフカさんを脇に転がす形になったが、起き上がってザモークさんに駆け寄り、両手を翳した。
「第五の加護・蘇生!」
今度こそザモークさんだけに集中したからか、蘇生魔法が発動する。
セルツェを癒やした時と同じ膨大な光が両手から溢れ、凄まじい勢いで消費されていく魔力に比例するように、骨を肉が覆い、真新しい皮膚がそれを包んでいった。
ザモークさんがごぼっと血塊を吐き出し、ヒューヒューと喉を擦るようだった呼吸が、浅くもしっかりしたものに変わる。
「親父っ」
見えずとも回復を察したのか、アゴニが手探りでザモークさんを抱き締めた。
一緒に安堵する間もなく、私はすぐさま脇に放っていた聖杖を掴む。
「第二の加護・結界!」
聖杖を通して即座に展開した光のヴェールが、霧散しかけていたアゴニの炎ごと瘴気を外側に押し退かす。
「……っ、はぁっ、はっ」
魔力には余裕があったが、私の体は汗でぐっしょりと湿っていた。
急激な体温の上昇に、汗が噴き出る。
初めて蘇生魔法を施したときにはなかった変化に戸惑ったが、あの時とは蘇生させた質量が違う。
その差が、体への負担として現れているのだろう。
血が沸騰しているような感覚に驚きつつ、なるほどこれに普通の人間が耐えられるわけがないと理解した。
推定でしかないが、体温が五十度を軽く超えている気がする。
(私は泉の女神の加護で肉体が強化されているから、この負荷に耐えられるのね)
そうでなければ、体中の血管が破裂し、毛穴という毛穴から血が噴き出してしまいそうだ。
思わずしてしまった想像を払うように首を振ったところで、不意に視界が明るくなった。
周囲を覆っていた濃霧のような瘴気が、するすると一点に収束していく。
瘴穴がある場所に。
そこを中心に草木が枯れ崩れ、どす黒く変色した土が剥き出しになった空間が広がっていた。
瘴気が収束する理由なんて、浄化以外では一つしかない。
その答えを知らしめるように、巨体がのそりと起き上がった。
(雪熊?……違う、魔氷熊だわ!)
正体に気づいた瞬間、その巨大な熊は咆哮をあげ、周囲に魔法陣を複数展開させた。
パキパキと空間に氷が出現し、瞬く間に一メートルほどの氷槍が形成される。
通常の魔氷熊であれば一、二本のはずのそれが、五本。
視線の動きにならうように、それは私に向かって飛来した。
「ラフィカ、結界を!」
叫びながら突き立てられた大剣が盾となり、私を直撃するはずだった三本を弾き砕く。
いつのまにか切れていた集中が、結界を解いてしまっていた。
「──っ、結界ッ」
遅れてきた二本がザモークさんを貫く前にかろうじて結界を張り直すことに成功したが、相打ちになってすぐに砕けてしまう。
焦燥に息を詰まらせながら、慌ててより強固な意思を言葉にした。
「結界・二重!」
私の言葉がそのまま脳内イメージに直結し、結界が二重に展開して重なる。
(マリーナフカさんが二重に付与とか言ってたから、とっさに思いついたけど……もしもの時の強化イメージの単語は決めておいたほうがいいかも)
言葉からの連想、大事。
「なにが、どうなってんだ。なんで魔氷熊が……これも邪竜の影響だってのか? お前の、住み処は──氷山だろう、が」
舌打ちと共に、ザモークさんが片膝をつく。
激しく息を乱し、顎から脂汗が滴ってた。
「ごめんなさい。うまく蘇生できなくて、その前に施した再生魔法に体力をもっていかれてるんです。無理に動かないで!」
「蘇生、だぁ? いやもう、だめだ、意識が……ああくそ、目が、霞む」
大剣を支えに立とうとして、そのまま地面に倒れ込む。
意識を失ったザモークさんを抱え上げ、同じようにいつの間にか昏倒していた二人と一緒に並べた。
三人とも無事だが相応に重傷だったため、再生の反動で酷く消耗している。
アゴニが背負っていた鞄から回復薬が一瓶出てきたので、一番失血しているマリーナフカさんに無理矢理飲ませた。
(ザモークさんは蘇生を施せたから、体力以外は大丈夫なはず)
ようやく気持ちも呼吸も落ち着いてきたので、結界の維持に専念する。
魔氷熊は何度か氷槍を生み出しては結界にぶつけてきたが、びくともしないことに激怒した様子で咆哮し、突進してきた。
側面に体当たりしたあと、何度も爪で抉るように両手を殴りつけてくる。
そのたびに結界を構成する魔力が剥離し、無数の罅が広がった。
(再生は本人の生命力を活性化させるものだから、重傷を癒やすとなると根こそぎ体力を持って行かれて当然だけど、敵前となると絶望感がすごいわね)
意識のない三人を背後に感じながら、何度目かわからない亀裂を聖杖に更に魔力を注ぐことで修復する。
「騎士様はやく! はやく来て! 私の魔力だって、無尽蔵じゃない」
現時点で枯渇を起こしていないことが、不思議でならない。
消費し続けている魔力量も少なくはないので、いつ限界がくるか恐ろしかった。
「ゴアァッ」
その恐怖が心を揺らし、結界の修復を遅らせる。
左の爪が、結界を貫いた。
「あっ」
そのまま握るように引き裂かれ、砕かれる。
全長三メートルはあろうかという巨体が、私に覆い被さるように迫った。
振り下ろされた右手が、容赦なく私を張り飛ばす。
軽い体は見事に吹っ飛んで、五メートルほど先にあった木の幹に背中をしこたま打ち付けた。
瘴気で枯れていたそれが、砕け散る。
「うぐっ」
衝撃に息が詰まったが──なんというか、それ以外はなんともない。
困惑しつつも、私はすぐに立ち上がることが出来た。
(びっくりした。びっくりした。びっくりした!)
ばくばくと拍動する心臓を持て余しながら、額の汗を拭う。
全身が痛いようで痛くないような感覚を持て余しながら、体にかすり傷一つ負っていないことだけは理解した。
「泉の女神の加護、最高では?」
魔氷熊の張り手を喰らって、骨が砕けていないどころか皮膚すら裂けていない。爪も掠ったはずだが、外套を持って行かれただけだ。
爪に引っかかった私の外套を邪魔そうに引き裂きながら、魔氷熊の赤い瞳が私を見据える。
倒れている三人ではなく、私を狙っているのだと気づいたところで咆哮し、瘴穴から存分に吸収した魔力を持て余すように、再び無数の氷槍を生み出した。
狙いを定めるように僅かに後ろに揺れてから、勢いよく射出される。
一本目を避けたが臑を掠った二本目に転がされ、三本目が目の前の地面に突き刺さった。
「──ッ」
起き上がる間もなく飛来した四本目が、突如出現した氷壁に突き刺さる。
貫通はしたが、氷槍は私に届くことなくその場に留まった。しかし次いで飛来した五本目で、その氷壁も砕け散る。
それでも、私が体勢を立て直すには充分な時間だ。
「副隊長とセルツェはアレの注意を引いてくれ! 俺が怪我人を確保する!」
森奥から現れた三名の騎士が踊るように散開し、かろうじて幹を残していた枯れ木に一人が駆け上る。
そのまま驚くほどの早業で弓を引き、二本の矢を放った。
それは魔氷熊の腕に振り払われたが、いつの間に放たれたのかわからない三本目が右目に突き刺さる。
魔氷熊は轟くような咆哮をあげ、その怒りを表すように地面から無数の氷槍を突き出した。
その総てが弓の騎士に向かって伸びたが、脇を駆け抜けた黒髪の騎士の剣によって、尽くが両断される。
(セルツェ!)
駆けつけてくれた騎士に知り合いがいるというだけで、謎の安堵を覚えてしまう。
セルツェはそのまま魔氷熊に肉薄し、その右腕を切り飛ばした。
再びの咆哮。しかしその腕は、瞬く間に再生されてしまう。
(なんてこと! これが瘴穴の魔力で強化された魔物の力なのね!?)
湯水のように魔力を使って自身を再生し、更に通常より強化された魔法も行使してくる。
すぐさま生成された新たな氷槍が、セルツェに向かって放たれる──と思いきや、なぜか総てが私に向いた。
「えっ」
半ば傍観者になっていた私は、間抜けな声を上げてしまった。
同じくらい弓の騎士も驚いた気配をみせたが、セルツェは私と目が合った瞬間、遠目でもわかるほど驚愕に目を見開いた。
あら珍しい、なんていう間抜けな思考に、セルツェの怒声が重なる。
「ラサーさん、挑発を! 彼女は聖女だ!」
セルツェが叫ぶと同時に、ザモークさん達のもとに駆けつけていた騎士から光が放たれた。
それはセルツェに届き、体の輪郭が一瞬だけ赤く光る。
魔氷熊の視線が吸い寄せられるようにセルツェに向いたが、氷槍はすでに放たれた後だった。
「くそっ」
弓矢や氷壁が即座に四本を阻み、最後の一本の前にセルツェが躍り出たものだから、心臓が跳ねる。
けれど今度は肉壁になるつもりはないらしく、手にした剣で見事に切り飛ばした。
透けるほど薄い刃が、微かに欠けて煌めきを散らす。
瞬きの間に冷気を纏って修復されたそれが氷なのだと気づいた瞬間、思わず笑ってしまった。
(なんて、らしい武器かしら)
似合いすぎて、格好いいというより嫌味だ。
「ラフィカ、なぜここに。いや話は後だ。挑発が効いているうちに、ラサーさんのところに逃げてくれ。魔物は聖女を狙う」
隣に並んだ私を、チラッと見てからすぐに魔氷熊に視線を戻す。
「ラサーさんて誰」
「君の仲間のところにいる騎士だ。はやく!」
「嫌よ、手伝うわ。一人じゃ無理だったけど、他に二人もいれば余裕よ」
「一人じゃ無理って──君はさっき、逃げようとしていたわけじゃないのか! 正気か!? なぜ相手にしようなどと思っ」
驚愕のまま吐き捨てられた言葉に、魔氷熊の咆哮が重なる。
跳躍した巨体の狙いから逃がすために、セルツェが私を下がらせた。
「三人とも、治療の影響で動けなかったんだから仕方がないじゃない」
地面を揺らしながら魔氷熊が着地し、再び地面から私たちに向かって無数の氷槍を突き出してくる。
「下がって!」
セルツェはそれを流れるような剣さばきでスライスして、総ての先端を切り飛ばした。
「君は聖女だ。三人を見捨ててでも、生き残らなければいけないっ」
「馬鹿言わないで。そんなことするわけないでしょ!」
「だが、俺たちが間に合わなかったら、君は──ッ」
一瞬だけ私に視線を向けたせいで、振りかぶられた魔氷熊の爪がセルツェの前髪を掠める。
「なにやってるんだセルツェ! よそ見して勝てる相手じゃないぞ!」
怒声と共に放たれた矢が、次いで迫っていた魔氷熊の左腕に突き立つ。
「申し訳ありませ──ラフィカ! 下がってくれ!」
「なんでよ! こんな雑魚、私一人で倒せるわよッ」
ちょっとビビッて騎士の到着を待ってしまったが、よく考えたら自分で倒した方が早かった。
攻撃を避けるほどの反射神経はまだないが、喰らっても肌に傷一つつかないのだから、体が軽くて吹っ飛んでしまうことさえ防げればいけるはずだ。
「あの熊の動き止めて!」
「ラフィカ!?」
言うなり魔氷熊の前に飛び出した私の背後から、驚愕の声が突き抜ける。
それでも即座に魔氷熊の下半身を氷漬けにしているあたり、めちゃくちゃ優秀だ。
一瞬の静止のあと、すぐさま魔氷熊は氷を粉砕したが、それで充分だった。
腰を落とし、手にしていた聖杖を思い切り振りかぶる。
その先端は氷を振り払うために前屈みになっていた魔氷熊の頭部を捉えて粉砕し、巨体を十メートルほど打ち上げて絶命させた。