ある泉の女神の加護
思わず思考停止してしまうほど、その少女は無慈悲な死に方をした。
呆然としすぎて、思わずただ見送ってしまいそうになった魂を、慌てて掬い取る。
少し乱暴に動かしてしまったからか、魂が微かに震えた。
「ああ、驚かせてしまってごめんなさい。私は泉の女神」
『……エレジア様?』
言葉がすぐに返されたことに、内心で驚く。
大抵の魂は肉体から離れるとすぐに意識が薄弱し、まともな会話はできないのだ。
つまり、この少女の魂は、それほどに強い意志を持っているということになる。
実際、少女の魂は、少し面白い色をしていた。
基本的な魂の色合いである乳白色が、時折閃光のように黒く輝く。
禍々しさはなく、何物にも揺るがない彼女の意志の強さのような、美しい黒だった。
きっと、人間の中でも複雑な運命を抱えているのだろう。
「そう、私の名はエレジア。知っていてもらえて光栄だわ。ヴィクトリア」
『わたくしの、名前』
「ええ。この森に関わる総ての命の名前を、私は知っています。だから当然、貴方の名前も」
『そう……。それで、女神様はわたくしの魂を捕まえて、何を? 父が言っていた通り、慰めの言葉でもくださるのですか?』
少し棘のある語尾に、眉尻が下がる。
慰めを望まぬ少女の気概に、思わず感心した。
「いいえ、いいえ。慰めなどではたりない。乙女を守護するはずの聖なる一角獣に、乙女が蹴り殺されるなど、あってはならない不幸です。けれどそれが、私の森で起こってしまった。その詫びとして、来世の貴方へ加護を一つ贈ります。なにか望みはありますか?」
『──たかが泉の女神の加護なんて』
己を責めるあまり心がささくれ立っているのか、その苛立ちが私に向けられる。
女神として、広い心で受け止めるべきだと、私は一つ深呼吸をした。
「ば、ば、馬鹿にしないでください! これでも? そこそこ? 力のある女神なんですよ! 決して、けっっして! 縄張り争いで負けて、こんな魔物の領域と混ざり合う辺境の森を押しつけられているわけじゃ、な、な、ないんですからねっ」
ふぅ。
少し早口になってしまったけれど、声は裏返らなかったので、威厳は保てたはずだ。
「来世の貴方を聖女にすることだって、容易いですよ!」
どや顔にならないよう頬に力を入れて、最大の切り札を提示する。
少し鼻息が荒くなってしまったけれど、与えられる能力の価値を思えば許容範囲だろう。
そう思ったのに少女の反応がいまいちで、少し戸惑う。
『……聖女。確かに、神聖魔法を扱えたらお父様をお助けできると思った事はあったけれど──そんなのもう、どうでもいいわ。殺されてしまっては、意味がないもの』
「え?」
『わたくしが欲しいのは、あの大角猪の角をへし折れる……いいえ、邪竜の頭蓋すら粉砕できる膂力!』
「……ちょっ──と、落ち着きましょう。ね?」
『わたくしは冷静です』
「うん。そうね。すごく確固たる意思を感じるわ。でも、ちょっと、あとちょっとだけ、冷静になりましょう? 深呼吸して、ほら!」
『肉体がないから無理よ』
「ですよね! あらー? おかしいわ。乙女はみな、聖女に憧れるんじゃなくて?」
おかしいわ。予定外だわ。
哀れな少女の魂に、来世で多くの人を救える力を与えて「頑張るのよ!」と送り出すだけのはずだったのだけれど?
少女から請われたのは、殺気に満ちた力への渇望だ。
これは、ゆゆしき事態なのでは?
「聖女はなろうと思ってなれるものではないのよ? けれど、貴方は望めばなれるのよ!?」
『──確かに、神聖魔法には肉体を強化するものもありましたわね。それは欲しいですわ』
「自分にかけるつもりね!? 絶対に自分にかけるつもりね!?」
自分自身にも使えるけれど、そんな孤高な考えで扱う力ではないのよ!?
少女の考えの根底に、共にいた男達を死なせた悔恨が見えるだけに、己に課しているらしい強い決意に不安が過る。
年若い、それも貴族の娘であるならば、この死を己を護りきれなかった騎士のせいだと嘆いてもいいだろうに。
どうして、自分だけを責めるのか。
「神聖魔法は大いなる女神エテルノの慈悲。他者を護り癒やす力ですよ?」
彼女の頑なさに割り込ませようと、「他者」という言葉を強調して告げる。すると、思案に揺れていた魂がぴたりと動きを止めた。
『では、類い希なる膂力を』
あああああ!
私の馬鹿! 馬鹿!
少女の心ひとつほぐせないなんて、私は本当に愚かな女神だわ!
なにが森に関わる総ての命を慰めている──よ!
頭を抱えて悶絶したところで、魂である少女にその姿は見えない。
それでも、己の無力さに打ちひしがれずにはいられない。
『エレジア様……? わたくしは望みを言いましたわ』
「え、ええ。だけど……」
『──まさか、女神ともあろう御方が嘘を?』
「違います!」
反省と戸惑いを、虚言ゆえの動揺と受け取られては、それこそ女神の名折れ!
ああもう、仕方がない。
私は私の約束を守りましょう。
「わかりました。貴方の望む加護を、泉の女神エレジアが貴方の魂に与えましょう。……どちらにしろ、乙女としてこれほど哀れな死を迎えたのです、私などが与えずとも、貴方の魂には女神エテルノのご慈悲が強く宿るでしょう」
そう信じて、私は私の慈悲を、この少女に与えるだけ。
そう思ったけれど、力を望んだ理由が察して余りあるだけに、私は一つ、鍵を掛けた。
(この慈悲は、彼女の生命が脅かされるか、記憶を取り戻すまで発露してはならない)
願わくば、来世の彼女には命の危険などなく、また今世の記憶に縛られることなどないよう──。
そう祈りをこめて、魂をそっと手放す。
この祈りの鍵が、かの女神の慈悲すら封じてしまうことになるとは夢にも思わず、私は半信半疑の気配を纏わせる少女の魂が生命の海に吸い込まれていくのを見送った。