掴まれた男の話(2)
「……食事に誘って、親しくなっておけと」
「なぜ?」
あり得ないのに声に冷気を感じて、手のひらに汗が滲む。
男が女性を食事に誘うということの意味を今更のように自覚して、誘った時点で意図を説明しなかったことを激しく後悔した。
見目だけはいいのにと周囲に揶揄される程度には、女性に気を持ってもらえることはあるのだ。
初対面では。
大抵は少し会話すると見向きもされなくなるので、状況を軽く見すぎていた──かもしれない。
「……優秀な聖女となるだろうから、好印象を与えておくように、と」
悪戯に気を持たせたと、手にしているグラスの中身をかけられても仕方がない。
その覚悟で告げたが、ラフィカはなぜか盛大に息を吐き出した後、炭酸水を一気に煽った。
「あーびっくりした。問題がなくなったから、マールス様が余計な事を言ったのかと思ったわ」
「……え?」
俺が呆けたのをラフィカは正確に汲んでくれたようで、疲労感のある笑みを向けてきた。
「なんでもないわ。私の所に貴方を迎えに来させたりするから、邪推しちゃっただけよ」
まさにそれを疑問に思ったことを思い出して、身を乗り出す。
「それ、気になったんだ。どう考えても俺は説得に向いてない」
「説得……ああ、やっぱり。私が罪を犯していた場合のことを考えて、マールス様は貴方を寄越したのね? 私が自首することで、私を出来る限り護ってくださろうとした。そうでしょう?」
知りたいのはマールス隊長が俺を選んだ理由だったが、切り替わってしまった話題を蒸し返すのも憚られて、仕方なく頷いた。
「そう口にされたわけじゃないが、そうだと思う。そしてそれは、俺もだ」
なにせ、命を救われている。
俺が真摯に答えると、ラフィカは破顔した。
「ふふ、意図は違うだろうけど、大成功ね。私はマールス様も貴方も大好きになったわ」
言葉に偽りがないことを、瞳の輝きが証明している。
人の笑顔を眩しいと思ったのは初めてで動揺し、言葉が詰まった。
「それ……は、良かった。隊長も喜ぶ」
「もとより、魔物討伐部隊は私の憧れなのよ。ちょっと予定外の流れにはなったけれど、私はその時がきたら絶対に第三部隊への派遣を希望するから、待っていて」
こんなに嬉々とした顔で、魔物討伐部隊に派遣されたいと告げる聖女など、存在するのだろうか。
(落ち着け、目の前にいる。信じられないが)
この言葉を一言一句違わずマールス隊長に告げたら、彼もまた、今の俺と同じ顔をするだろう。
たぶんもうちょっと、いやかなりわかりやすく。
「──わかった、待っている」
呆然としたまま頷くと、ラフィカも同じように頷いた。
興奮と照れか、ほんのりと頬が赤く染まっている。
(困ったな。すごく可愛いぞ)
そもそもが、とても美しい少女なのだ。
重大な任務への緊張で押し潰されそうだったことを差し置いても、目の前に現れて挨拶された瞬間、名乗るのを忘れるほどには。
(……これは、よくない気がする)
間違いなく速まった鼓動を誤魔化すために、俺はグラスの残りを煽った。
弾みをつけるため、ビアグラスのようにどんっと置きそうになったが、寸前で思い留まって静かに置く。
声が裏返りそうな緊張を感じて、喉に力を入れなければならなかった。
「そろそろ出よう。君も、ご家族に色々と伝えないとだろう」
「そうね。驚いて腰を抜かさないといいけど」
「それは……無理だろうな」
選択によっては、家族全員の生活が劇的に変わる。
それをラフィカも理解しているらしく、軽く肩をすくめた。
「半分払うと言ったのに」
「そう言いながら、出るまで俺に任せたんだから、このまま花を持たせてくれ」
会計の時に、強引に代金を出すことも出来た。
けれどラフィカは俺に恥をかかせないために、しれっと横を通り過ぎて、扉の前で待っていた。そうして俺が扉を開けるのを待ち、ただ「とても美味しかったわね」と一言告げて微笑んだのだ。
身に纏っているワンピースドレスの質がいいのもあって、店員はラフィカを貴族か商家の令嬢だと思っていただろう。
店での振る舞いでも、彼女は微塵も浮いていなかった。
その佇まい一つとっても、とても平民の娘には見えない。
(どこで覚えたんだ……?)
聖女として扱いにくいと思われることはいいことだが、不思議すぎて興味が尽きない。
だが、さほど親しいわけでもないのにあれこれ聞くのも不躾なので、疑問を呑み込むしかなかった。
「聞いてる?」
「え?」
「もう。受け取らないなら、経費としてマールス様に請求しなさいよねって言ったの」
言えば払ってくれそうなだけに避けたいが、ここでラフィカに払われる方が困る。
俺はラフィカが突き出している硬貨から逃れるように両手を上げて、頷いた。
「……君がそれで、諦めてくれるなら」
「絶対よ」
しぶしぶと、手に持っていたそれを財布にしまう。
シンプルな鞣し革のそれが服とちぐはぐで、なぜか安堵を覚えた。
「その財布、丈夫そうでいいな」
安堵した勢いで口にしてから、女性が持つ小物に対する褒め言葉ではないと気づく。
「え?」
にこりと微笑めもしなければ、言葉選びも下手か! とウニクスが見ていたらさぞ大げさに嘆いただろう。
実際、俺も同じ気持ちだ。
「いや、すまな──」
「そうでしょう! これ、雪崩鹿の革なの。私が初めて狩った魔物で──ああもちろん一人じゃなくて、部隊に新人として混ぜて貰ってってことよ? すごくいい人達で、初討伐だから記念にって、少しだけ素材を贈ってくれたの。それを姉が、財布に加工してくれたってわけ。褒めてくれてありがとう、嬉しいわ」
満面の笑みを思いがけないタイミングで向けられて、直視などできるはずもなく──。
思わず両手で顔を覆い、深呼吸を三度繰り返した。
「どうしたの? 大丈夫?」
「女性の持ち物に対して、丈夫そうでいいな──などと口にした阿呆に向けていい笑顔ではないと思う」
「えぇ? そりゃ、綺麗な絹の財布でも持っていたならそうでしょうけど、どうみても丈夫でいい財布じゃない。間違ってないわよ。むしろこの上品な服の懐からこれが出てきた時、よく突っ込まなかったわね」
「いや、ちぐはぐだとは思ったが、君があまりにご令嬢みたいに振る舞うから、かえってその冒険者っぽい部分が見えて安堵したんだ」
なにそれ、とラフィカが笑う。
自分といた女性がこれほど笑顔をみせてくれたことがなくて、また戸惑いが深くなった。
そこに喜びが滲むのを自覚したが、顔に出にくいことを今日ほど感謝した日はない。
そうでなければ、きっと頬が赤くなっていただろう。
体温の上昇を抑えるためにそれとなく呼吸を深くしつつ、俺はラフィカの家までの道を惜しみながら歩いた。
「ちょっと、そこまで遅く歩かなくてもついて行けるわよ!」
呆れ顔で指摘されてしまい、追い抜かれてしまう。
仕方なく、斜め前を歩く小柄な少女を追った。
小さいな、と頭頂部をのぞき込めてしまうことで身長を確認していると、ふいにくるりと振り向かれた。
「やめて、むずむずするわ」
つむじを両手で押さえながら、苦言を呈される。
「すまない」
「貴方からしたら子どもみたいな小ささかもしれないけれど、力はすごいんだからね!」
「みたいだな」
階級は知らないが、冒険者だという時点で相応の筋力と体力はあるのだろう。
(油断した聖女シュティルが、運悪く怪我をしてしまった程度には)
そう思って頷いたが、即答したのが悪かったらしく、ラフィカは少し機嫌を損ねたようだった。
「信じてないわね? まぁいいわ。私が第三部隊に派遣されたら、驚かせてあげる!」
「期待している。俺も君を死にかけずに護れるよう、鍛え直しておく」
「そうして。二度と貴方の背中から魔物の角が突き抜けてくる光景なんて見たくないわ。まあ、次があるなら、その前に私が角をへし折るけどね!」
ふんっと角を折る仕草をしてみせるものだから、堪らず噴きだしてしまった。
「なんで笑うのよ! 貴方がそこまで笑うってことは、本気で笑ってるって事じゃない!」
謝りつつも笑いが収まらず、拳で口元を押さえる。
「すまない、本当に。俺もここまで笑わされると思わなかった」
「失礼だわ! 店で最初に私を笑ったときより!」
あれは酷く落ち込みながら「私が怪力だったから」などと嘆くのが悪いのだ。
華奢な少女が言うには、あまりにもパワーワードだった。
そして今回はそれに仕草が加わっているので、更に笑うのは仕方ない。
「もういいわ。あ!」
俺が笑いを収めるのに苦労している間に、ラフィカはさっさと気持ちを切り替えて、声をあげた。
何かを思い出した様子に視線を向けると、同じように見上げていた瞳と目が合う。
「どうした?」
「悪いのだけれど、マールス様に伝言を頼める?」
「もちろん、構わないが」
快く引き受けると、ラフィカは少し気まずそうにしつつも口を開いた。
「ええと、『あのお願いは、その場凌ぎの嘘なので、お忘れください』って」
俺にはまったくもって意味がわからない言葉だったが、一言一句しっかりと頭に刻む。
「それで伝わるんだな?」
「ええ。あの御方なら、それで察してくださるはずよ。それと、お心遣いをありがとうございました。とも」
「わかった」
しっかりと頷くとラフィカは前に向き直り、幾分か軽くなったような足取りで歩き出した。
そんなに急いでしまっては、すぐに別れがきてしまう。
(次に会うには、君が本当に第三部隊に来てくれないとなのに)
そう考えた瞬間に、ぞっと背筋が冷える。
(誰が、どこに、来てくれないとだって?)
最も危険な部隊に聖女としてラフィカが現れた時、はたして自分は歓迎できるだろうか。
最初に「待っていて」と言われたときは、優秀な聖女の申し出として嬉しく思ったのに、一時間もしない間に気持ちが大きく変化している。
それはどうしてなのか。
湧いてしまった疑問の答えを、うまく出せる気がしなかった。