掴まれた男の話(1)
「なぜ笑うんですか!」
不機嫌な顔でそう指摘され、俺は口の中のものをあやうく喉に詰まらせるところだった。
炭酸水で飲み下してから、すまないと謝る。
「君は、よく俺が笑ったのだとわかったな」
「え? ああ、セルツェ様はあまり顔に出ませんものね。駄目ですよ。バレないと思って油断していると、私は見抜きますから」
先ほどまで尖らせていた唇を、今度はふふんと笑みにしならせる。
隠し事を暴いたような態度を取られても、俺にそんなつもりはないので困りはしない。
「いや、むしろ助かる。俺は表情で感情を伝えるのが下手なようで、普段だったらここで会話が止まる」
「なるほど。無表情な自覚はあるんですね。わ、すごい。このお肉スプーンでほぐせるわ」
相づちの途中で、自分の手元に意識を持って行かれたらしい。俺とは違い、わかりやすすぎるほど表情に驚きが満ちる。
ラフィカは好奇心に満ちた声音で「見ててくださよ、ほら」と俺の視線を手元に促し、スプーンの背でシチューの鶏肉を押し崩した。
そのまま一口頬ばって、目を輝かせる。
マールス隊長の指示だったとはいえ、女性を昼食に誘うという行為はかなり勇気が必要だったが、こんなに喜ばれるなら努力した甲斐もある。
美味しい食事がそうさせるのか、再会したときは落ち込んでいたラフィカの態度も持ち直してきていた。
詰め所に戻った俺の報告を聞いたマールス隊長は、酷く安堵した様子で溜め息をついていた。
結果が違えば、国で初の大罪人がでるところだったので、俺とて気持ちは同じだ。
ラフィカを連れていく先が城ではなかった事に、心の底から安堵した。
聖女であることを隠していた──隠せていたとなれば、その手段をあらゆる方法で聞き出したあとで、罰せられていただろう。
当然、その罪の重さから、家族もだ。
この大罪に限っては、聖女であろうとも死罪だった可能性が高い。
(万が一そうだったとしても、酌量の余地があることを進言するつもりではいたが……必要がなくて本当に良かった)
そしてそれは、マールス隊長も同じだろう。
だから捕縛に出るのではなく、俺だけで迎えに行かせた。
罪を少しでも軽くするために、自首させた上で最大限の擁護をするつもりだったのだ。
聖女という運命から逃げはしたが、命を救うために力を使ったからだ。
それも、最も罪が露見する可能性が高い、騎士のために。
(だが、なぜ説得役が俺だったのかは結局わからなかったな。これほど重大な案件なら、副隊長やウニクスのほうが間違いなかっただろうに)
実際、俺はその場でそう進言したが、マールス隊長は少し苦い笑みを浮かべただけだった。
(あとで改めて聞けば、教えてくれるだろうか。いや、彼女に聞いた方がはやいのか?)
ふと思いついて、視線を上げる。
気づくとラフィカは何事かを懸命に話しかけてきており、俺は内容を聞き流していた事に慌てた。
「本当に、信じられないわ。普通、『ちょうどいいから実践してみましょう』ってなります?」
幸いなことに、それは少し前にきちんと聞いていた話の繰り返しだった。ラフィカにとっては相当な衝撃だったらしく、また反芻していたらしい。
「聖女シュティルの名は、任務に同行する聖女様からよく聞く。といっても大抵は独り言で、だが」
「どういうことですか?」
パンにバターを塗っていた手を止めて、ラフィカが視線を俺に向けた。
「なんというか、『シュティル様の教えを思い出すのよ』と己を鼓舞するように呟く方が多いんだ。それだけ頼り甲斐のある、人格的にも能力的にも優秀な教師なんだろう」
心の支えにしている、という方が正しいのかもしれない。
何度か耳にしたことでさすがに気になり、シュティル様とは誰かと聞いたとき、その聖女は嬉々として彼女の素晴らしさを語ってくれた。
「あの方の素晴らしさは、一時間ほどお会いしただけの私にも充分伝わってきたけれど、だからって肝が据わりすぎだわ。痛みも相当あったでしょうに」
そう言うなり視線と肩を下げて、しゅんと萎れる。
迎えに来たときと同じ空気を纏い始めたので、慌てて言い繕った。
「だ、だが、君はきちんと治癒できたんだろう? それはとても素晴らしい事じゃないか」
「それは、だって、私のせいで怪我をされたのよ? 気持ちが大事だという神聖魔法において、抜群の効果を発揮したわよ」
その動揺を抑え込んで、魔法を発動させられたことが凄いのだが、ラフィカには伝わらないようだった。
(訓練や、練習とは違う。実際に傷を負った者を見て、まったく取り乱さないことは難しい。それが自分のせいなら尚更──。いや、だが確か、彼女は元々冒険者なんだったか)
そういう意味では、ラフィカは三年遅れの学びを経験で補えるかもしれない。彼女の聖女としての並外れた才能は、この体が証明している。
「……まだ心臓が痛いわ。もう大丈夫だからと帰されたけど、あのまま一人でいたら落ち着かなかったと思います。迎えに来てくれて、ありがとうございました。食事までご一緒していただいて」
胸に手を当てながら、心の底から安堵したという顔で感謝される。
澄んだ湖の底のような青緑色の瞳がとても綺麗で、己の鉄面皮が映り込んでいるのが申し訳ないほどだった。
こういうときに、上手く微笑み返せたらと思うが、どうにもうまく表情筋が動かない。
「最初、一人で置いていかれたときは恨みましたけどね」
せめて言葉を返そうと焦っている間に付け足された言葉に、瞠目する。
「報告したら迎えに戻ると伝えたはずだが? 君は返事もしたぞ」
「え? 全然覚えて……なくもない気がします。何か言ってた気がするという記憶が、ある、わ。いやだ、私いま、責めるような言い方を。申し訳ありません」
「いや、君は状況に戸惑っていたし、かなり緊張していたからな。俺のほうがもう少し気遣うべきだった」
「とんでもありません。本来はこんな小娘の相手をするお立場ではないでしょうに、とても良くしていただいて」
卑下するというよりは謙った言い方だったが、それを良しとは思えなかった。
「貴方は聖女だ。自分の事を小娘などと言ってはいけない」
「セルツェ様?」
驚きに目を瞬かせたラフィカを、正面から見つめる。
「聖女は光だ。人々の希望。たとえ自分の事であっても、その存在を下に置いてはいけない。君は酷な話だが、聖女となった時点で、未熟だろうが若かろうが聖女は聖女だ。民衆にとって救いである存在に、一点の染みもあってはならない」
そしてその毅然とした態度は、結果的に聖女を言葉巧みに利用しようとする者達から、己を護ることにもなる。
そういう意図もこもってしまったからか、言葉に思いのほか力が入ってしまった。
「そう、ですね。肝に銘じます」
俺の勢いに気圧されることなく、瞳の色を濃くしてラフィカが頷く。
その瞬間から彼女が身に纏う気配すら変わって見えて、驚かずにはいられなかった。
平民だ小娘だと言う割りには、見られるということを理解している。
「……少なくとも、人前では」
あまりにも切り替えが見事だったので、思わず一言を付け加えていた。
尻すぼみな言葉にラフィカは目を瞬かせてから微笑んだが、一瞬歪んだ目元が泣きそうに見えたのは、錯覚だろうか。
それを見逃さなかったことを、心のどこかで後悔する。
刹那に湧いた衝動を唾を飲み込むことで逃がしたが、胸の内には何かを掴まれてしまったような感覚が残っていた。
「セルツェ様は、優しいですね」
「……いや、出過ぎた一言だった。それと言いはぐっていたんだが、俺相手にそこまで丁寧な言葉遣いをしなくていい。所詮一介の騎士だ」
「そんな。騎士は尊敬に値する職務ですし、相応の敬意を払いたいわ」
「部隊柄、あまり丁寧に話されることに慣れていないんだ。頼む」
「まぁ、ふふ。困らせるつもりはないので、セルツェ様が構わないならそうさせてもらおうかしら」
「助かる。そう経たず俺──というか騎士のほうが君に傅くことになるだろう。対等というか、目上から話すことに慣れておくといい」
「え、なぜ?」
「聞いていないのか、君が俺にどんな魔法を施したのか」
「聞いてはいるけど……あ、そうか。シュティル様はご自身のお考えを、まだ他の方にお伝えしていないのね」
どこか納得したした顔で頷いたラフィカに、問いを重ねる。
「俺は何か、誤解しているのか?」
「ええ。私が施したわけではなく、聖女様が施すお手伝いをした──というのが正しいみたい。聖女として覚醒? したのをきっかけに、どうやらかなり魔力量が増えたみたいなの。あの金髪の聖女様の再生魔法の威力を、底上げした形だろうって」
「──なるほど。確かにそのほうが、納得はできるな」
聖女ニフリトは、動揺していた自分を過小評価するあまり、ラフィカが総てやったと思い込んでしまっているのだろう。
神聖魔法は仕組みこそ単純だが、だからこそ難しいとされている。
俺は改めて己の腹部に触れて、その奇跡に感謝した。
「どちらにしろ、誰を相手取っても毅然といられるよう心構えはしておくといい。聖女は聖女の勤めを果たさなければならないが、その心が自由であることを忘れるな」
「ああ、そういうことね。大丈夫よ。嫌な事は嫌だと言えるわ」
単純な言葉に置き換えられて、自分が随分と持って回った言い方としてしまったことに気づかされた。
同時に、ラフィカの明快さを心地よく思う。
「それにしても……どうして急に魔力が増えたのかしら。魔力量って、そもそも肉体に依存する資質よね? 聖女として覚醒したからといって、増えるものではないと思うのだけれど」
シチューの残りを丁寧にパンに吸わせながら、ラフィカが疑問を口にする。
「そうか。君は魔力が少なかったから、騎士を諦めて冒険者になったと言っていたな」
「ええ。だから、シュティル様に魔力量を調べると言われたときも、量り方がわからなくて戸惑ったの。最終的にはお怪我までさせてしまったし」
「そういえば、なぜ怪我を? 魔力量を調べていただけなんだろう?」
「それが……」
申し訳なさそうに声のトーンを落としながら、ラフィカは事の仔細を語りだした。
神聖魔力を蓄積させるほど重くなるという魔導具を用いた測定方法も斬新だったが、それの受け渡しで聖女シュティルが腕の骨を折るほどの大怪我をしたという事実に驚かされる。
どう考えても、運が悪かったとしか言い様がなかった。
「渡し方もあっただろうが、聖女シュティルが想像していたよりも、大分重かったのだろうな」
「だと思うわ。手渡す前の会話で私、うまく注げなかったかも──って話をしてしまっていたの。私が片手で持てていたことで、シュティル様も失敗したと思っていたようだし」
「……一つ聞くが、君は聖女シュティルに冒険者だと言ったか?」
「え? いい、え」
その問いで、ラフィカが何かを察した顔をする。セルツェはその考えを肯定するように頷いた。
「冒険者として鍛えていた君が片手で持てる重さを、聖女シュティルは想像することができなかった、ということだ。骨を折られたのは、本当に不幸な事故だろうが」
「私の渡し方も最悪だったわ。せめて縦にしてお渡ししていたら……」
しゅんとしながらも、たっぷりとシチューを吸ったパンを口に入れ、小声で「美味しい」と零しているのが面白い。
つられるように、手元の残り少ない肉を口に運んだ。
ほどよい弾力の赤身肉は噛むほど旨みが広がって、あっというまに消えてしまう。もう二百グラムくらいなら楽に入りそうだった。
(今度また来て、五百で頼もう)
随分前に「彼女ができたらここでデートするんだ!」とウニクスに無理矢理教えられた時は辟易したが、今は感謝しかない。
こんなに美味いと知っていたら、一人でも通っていただろう。
「このお店、本当に美味しいわね。値段はかなり高めだけど、その価値が充分にあるわ」
「誘ったのは俺だ。支払うからな?」
価格の話に流れたので、すかさず口を挟む。
「半分だすわよ。生活費の心配は不要になる──はず? だから、そういう意味での気遣いは不要だわ。それに、迎えに来た時、私が目に見えて凹んでいたから誘ってくれたんだってことくらい、わかってるのよ」
勢いで折半させられてしまいそうな気配に焦る余り、俺は己の口が滑るのを止められなかった。
「いや、これは隊長に」
「え?」
言ってしまってから、はっと息を呑むように慌てて口を閉じる。
だが、俺自身が間に合っていないと自覚している以上に、ラフィカの笑顔がその言葉の先を促していた。




