脳天に直撃する類いの──(1)
その日は、驚くほど早く訪れた。
「ラフィカ! ラフィカ!」
体力を確認するための走り込みから戻ると、店に出ているはずの母が青ざめた顔で駆け寄って来たので、何事かと体が身構える。
「どうしたの、なにかあった!?」
弾む息を持て余しながら縋ってきた母を受け止めると、悲壮な声で「騎士様が!」と一言。
さすがに要領を得なくて、眉を顰めた。
「は?」
「は? じゃないわよ! 騎士様が店に来て! あんたを迎えに来たって! この間、助けて頂いたって言ってた方じゃないの!?」
褐色で長身の色男よ! と、特徴を付け加えられたことで、ようやく頭が事態を理解する。
一応、万が一の可能性を考えて、仕事中に騎士と関わったことだけは両親に伝えておいたが、正解だったらしい。
「え、嘘でしょ。普通に素で来たわけ?」
口頭での軽い招待だったとはいえ、相手は騎士だ。
応じるならば手紙の一つも寄越すだろうと思っていた私は、少し彼らを貴族のように思っていたのかもしれない。
(いや? 普通に考えて日程の摺り合わせくらいはするのでは? お礼名目の招待とはいえさすがに無遠慮すぎない?)
そんなことを半ば呆然と考えていたら、首にかけていた手布でぐいと顔の汗を拭かれた。
「とにかく、早くシャワーを浴びて着替えて来なさい! お父さん動揺で死んじゃうわ!」
「わかった、わかったから背を押さないで」
私の言葉をまるっと無視した母に脱衣所に押し込まれ、「五分!」と念押しまでされて扉を閉められる。
青ざめていたはずの顔がいつの間にか血色を取り戻していた気がするが、確かに待たせるわけにもいかないので、私は急いで浴室に飛び込み、汗を流した。
途中で放り込まれた石鹸や香油に辟易しつつも、「命を助けてくれた騎士様に淡い恋心を抱いている」設定を思い出してしまったので甘んじる。
用意されていた着替えは、私が自室のクロゼットの奥に仕舞い込んでいた若草色のワンピースだった。
「ひぇ、なんでこれの存在を……」
店先で一目惚れし、あまりの可愛さに買ったはいいが、上品すぎて着ていく場所がなかった、悲しい一着だ。
(ちょっとオイシイ依頼でお金があったから、奮発しちゃったのよねぇ)
平民の娘が普段着として着るには、悪目立ちする仕立ての良さだ。
仕舞い込んでいたとはいえ、たまに見つめてため息をついていたので、母がクロゼットを漁った際、目についたのだろう。
建前はあれど、騎士という上等な職についている男を食事に誘ったのだ。チョイスとしては間違いではないが、妙な気恥ずかしさが湧いた。
冒険者として名を上げ、あわよくば騎士になろうと企んでいる身とはいえ、乙女は乙女。
魔物の瘴気でちょっとでも肌が爛れたらキレ散らかすし、『かわいい』は正義なのだ。
「はぁー、そうか! 実際に食事することになったら面倒くさいなって思ってたけど、これを堂々と着られる状況なんだと思えば最高ね!」
礼儀として急いでいた行動に喜色が生まれたことで、少し身支度に気合いが入る。
普段は適当に纏めてしまっている髪を母が背後で念入りに梳いてくれている間に、いつもより丁寧に化粧をした。
「うーん、さすが父親似。最高に美人ね!」
耳飾りをつけてくれながら、母が絶賛する。最後の確認とばかりにくるりと回されてから、ぽんと肩を叩かれた。
「いってらっしゃい。仕留めてくるのよ!」
なにをだ、なにを。
「いや、助けてもらったお礼をさせてもらうだけだし、向こうが気を遣って来てくださっただけだから。変な誤解と期待しないで」
それなりに恵まれた容姿のおかげで好意を寄せられたことは何度かあるが、自分より弱い男に惹かれるわけもなく──。
姉は姉で人見知りが激しいために色恋の話が皆無なので、母はいつも少し残念そうだった。
せっかく年頃なのに、とぐちぐち言う母を置き去りに、急いで店がある表に回る。
会話が届く距離になり、近づいていく数秒の間だけでも、動揺してか二度も席を勧めた父に、律儀に「職務として来ておりますので」と低めの凜々しい声が答えていた。
もしかしなくても、このやりとりを私が来るまで繰り返していたのだろうか。
(私だったら、しつこい! ってキレるわね)
軽い頭痛を覚えつつ、深呼吸してから店先に出た。
「大変お待たせしました。騎士様が私をお呼びとのことでしたが、お間違えないでしょうか?」
控えめにお辞儀をし、顔が見えるよう見上げる。
母が特徴の一つに「長身」と言ったのも頷けるほど、目の前の騎士は背が高かった。
(殆ど倒れてたからわからなかったけど、めちゃくちゃでかいわね)
確実にマールス様より背が高い。一九十近くあるんじゃないだろうか。
小柄な私では、ほぼ大人と子どもみたいな視線の差だ。
しかし長身だからといってひょろっとした印象はなく、ほどほどに均整の取れた美しいシルエットで制服を着こなしている。
(ていうか、あれから三日も経ってないのに、ピンピンしてるわね。聖女様の魔法って本当にすごいんだわ)
血まみれだった姿を見ているだけに、感慨深い。
「貴方がラフィカ・イエイン嬢であるならば、間違いではない。申し訳ないが、俺には顔を覚えている余裕がなかった」
「確かに、そうですね。あの時は本当にありがとうございました。おかげさまで、こうして生きております。それであの」
「できれば、外に。店先では商売の邪魔になる」
「あ、はい」
少し強引な会話運びで、移動を促される。
母の好奇と父のそわついた視線から逃れられるので、私は大人しくその手が示した方向に歩を進めた。
◇ ◇ ◇
騎士が町中にいるのは普通のことだが、その隣に自分が歩いているという違和感に背中がむずむずする。
それが見目の良い色男ならば尚更なのだが、私の乙女心はそれほどときめかなかった。
むしろ、やっと着られたワンピースの裾が翻るのを見る方が楽しい。
(なんていうか、この人、全ッ然だめね?)
言葉と言えば先ほどの「外に~」が最後で、自分は名乗ることもしなければにこりともせず無表情を貫いている。
これは確かに、どんなに美形だろうが女からは見向きもされないだろう。
歩幅の違いを理解していない速度で歩く男の斜め後ろを小走りで追いかけつつ、改めて観察する。
最初から印象深かった、北国であるラシオンでは見慣れない褐色の肌。
艶のある黒い髪は長すぎず短すぎず。襟足がすっきりと刈り上げられているのは男らしくていい。
そして、なによりも瞳だ。とても綺麗なアイスブルーだったのだと、顔をきちんと見たことで知った。
力強い真っ直ぐな眉と、すっきりとした鼻梁。薄い唇。
(ウニクス様が言っていた通り、見た目は間違いなく文句のつけようがない美形ね)
それ以外の特徴といえば、頭部にある二つの装飾品だろうか。
金細工で装飾された五センチほどの小さな角が、額の上部の左右にちょこんと装着されており、前髪を分けている。
(赤斑の角かしら?)
赤斑とは赤目かつ全身に大小様々な角が生えている魔物の総称で、世界各地で異なる形態が確認されている。基本的には二足歩行する動物のような姿をしており、ラシオンでは山猫型、鹿型が多い。
知能が高く集団で行動するため非常に厄介な魔物だが、討伐できれば赤斑の角は実に有益な素材だった。
なんとその角総てに、大量の魔力が蓄積されているのだ。
粉末にして魔導具制作に用いると魔力伝導率を飛躍的に向上させられるし、騎士や冒険者の中には護符代わりの装飾品として身につける者もいる。
いざというときに魔法の核として使い、威力を底上げするのだ。
(首飾りや耳飾りにした方が、咄嗟に使いやすいのに)
なぜか一定数、この男のように頭部に角として飾る者がいる。角は頭部にあるもの、というイメージからなのだろうか。
(魔物に対して、威圧効果でもあるのかしら?)
それとも、女には理解出来ない次元の浪漫なのかもしれない。
どちらにしろ、超がつくほど希少かつ高級な素材なので、今のところ私には無縁のものだ。
今のところ。
「……自分で狩ったのかしら」
「え?」
反応されたことで、声に出してしまっていたと気づく。
振り向いたセルツェ様と目が合った瞬間、彼はそれまでの無表情を僅かに崩して目を見開いた。同時に足を止めたので、私も立ち止まる。
立ち止まったことで気がついてしまったが、随分と平民層から離れた町並みに来ていた。
途端、背中に冷や汗が噴き出す。
(え、やばい。いつの間に!? そりゃ、多少お高いお店を──とは思ってたけど、それはあくまで平民から見てであって、騎士みたいな高給取りが利用するような店はちょっとさすがに普通に無理なんだけど!?)
「…………すま、ない。いや、申し訳ない!」
私を見下ろしたまま固まっていたセルツェ様が、唐突に頭を下げてきたことに驚いて、びくっと体が跳ねる。
勢いに怯えたわけではなく、不意打ちで声を掛けられたからだったが、セルツェ様は一度ぐっと押し黙ったあと、改めて静かな声で「申し訳ない」と謝ってきた。
そのまま流れるような仕草で、懐から真っ白なハンカチを差し出してくる。意図がわからず面食らっていると、言葉が足された。
「女性に対する配慮に欠けていた。君を、その、走らせてしまっていた」
「あ、ああ……それね」
思わず、素で返事をしてしまう。
セルツェ様の無神経さからはとっくに意識が離れていたので、理解が遅れてしまった。
おまけに立ち止まったことで自分の息が軽く上がっていることを自覚してしまい、微かに嫌気が差す。
「気になさらないでください。でもその、せっかくなのでお借りしますね」
額の汗を拭うついでに眉間に寄った皺を隠したくて、差し出されたハンカチを受け取ってしまう。
刺繍ひとつない無愛想なハンカチは、それでも爽やかな柑橘系の香りがした。
(こういう気遣いはしてあるのね)
ふっと心が安らいで、息が深く吸えるようになる。
よく考えたら、一時間近く走り込みをしていた後なのだ。たかが小走りとはいえ、息が上がってもおかしくはない。
(そうよ。普通よ。いいえ、普通よりはずっと体力はあるはずだわ)
ただ、今の私は、自分の体力に対してちょっと敏感なのだ。
あの日。──女神の加護が発露した日。
私は帰宅してから、とりあえず目についた巨大な庭石(家にある物で一番重そうだった)を持ち上げられるか試した。
結果として、推定五百キロの物体は余裕で持ち上がることと、ついで──というにはヒヤッとする事故(庭石を元に戻そうとしたときに手を滑らせて足に落とした)により、肉体も丈夫になっている、ということが判明した。
魔物の骨を砕けるけど私の拳も砕けます──では話にならないので、これはかなり安心した。
ついでに、姉が不要品として箱に纏めていた鉱石の類いも尽く拳で砕けたので、家にある物で試せることは試し終わったと思う。
女神の加護による強化だからか、実際の筋肉量や皮膚の質感に変化がないのが不思議だ。ムキムキのゴツゴツになったら普通に絶望するので、これはすごくありがたい。
膂力と頑丈さが増している……ときたら、次は体力が気になった。
増えてたりするのかな? と考えた私は、モノは試しと早朝から走り込みに出かけ、一時間ほどで息が上がり汗が出てくる──という今までと同じ結果を得た。
どうやら「膂力はあくまで膂力」ということらしい。
(たぶん、本当に、与えられた膂力を行使できる。という基準で他の部分は補われているだけなんだわ)
せこいといえばせこいが、「膂力」と言ってしまった私の失策でもある。
その言葉に腕力に限定する意味が含まれる以上、渋々だったあの女神はそれを拾うだろう。
(だからこそ。今はとにかく体力。体力が必要なのよ)
庭石を持ち上げたあと相応に疲れはしたので、与えられた力を存分に発揮するための体力増加は必須だ。
そう焦るからこそ、私は自分の疲労度に敏感になっていた。