ある少女の最期
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恐怖で足が竦んだお陰で、鋭い爪が空を切る。
派手に転んだことで雑草が舞い、小石が柔らかく白い手のひらを裂いた。
わたくしは侯爵家の一人娘として生まれ、大切に育てられた。
森を挟んで魔物の領域と隣接している、最も重要な国境を護る任を与えられていた父は多忙だったが、溺愛されていたと断言できる。
二人の息子にも恵まれたが、彼がそれ以上に欲していたのは意外なことに女児だった。
愛する妻に似た、娘が欲しかったのだ。
そしてその待望の娘が、わたくしだった。
無骨で傷だらけの大男が、周囲が引くほど相好を崩して、わたくしを愛してくれた。
そしてその重すぎる愛を、年頃の娘としてうっとうしく思いながらも、喜ばしいものとして、わたくしは受け入れていた。
だから、わたくしも父の──父に関わってくれている総ての人達の役に立ちたかったのだ。
魔法の才能はあまりなかったので、護衛にとつけられた優秀な騎士達に命令(しないと断られた)して稽古をつけてもらい、剣の腕を磨いた。
筋がいいと、さすが侯爵様の娘だと、褒めそやされて浮かれていた。
だから、なぜ、森に入るのを必死に止められるのかわからなかった。
小型の魔物なら仕留められると、断言したのは貴方たちだ。
それが盛大な世辞だったからなのだと、今ならわかる。
わたくしは本気だったのに、彼らはわたくしの鍛錬を、ままごとだと思っていたのだ。
わたくしはその世辞を真に受けるほど、一日でも早く父の役に立ちたくて必死だったのに。
しかし彼らは、その嘘の報いをもう受けた。
十五の祝いに父がくれた水色のドレスに大量の血をぶちまけたあと、ただの肉塊になった。
父の目を欺くために、森で稽古するときも普段着のドレスで出てきていたのだ。
初めて本物の魔物を狩りに行く。
その不安と期待に浮つく心が、一番気に入っていたこれを選ばせた。
「お父様、ごめんなさい」
何に対しての謝罪なのか。後悔なのか。
もうわからない。ただ、言わずにはいられなかった。
運も悪かったのだと思う。
こんな国境近くの領域に出現する類いの魔物ではなかった。
そうでなければ、わたくしの護衛についていた騎士達が負けるわけがなかった。
わたくしの剣の腕を世辞で誤魔化していたこと以外は、総てにおいて完璧で優秀な騎士だったのだ。
敵わぬと察した瞬間、迷わずその命を盾として、わたくしを逃がそうとするほどに。
「ああ、愚かなのも、報いを受けるのも、わたくしだわ」
心のどこかで、己に剣の才能が無いことをわかっていた。
体力も膂力も、努力の割りには増えず、軽い素材で作られた木剣ですら満足に扱えている気がしていなかった。
それなのに、彼らの世辞を信じたのは──己の無力さを認めたくなかったからだ。
なんて、愚かな。
せめて、せめて。
二つの命を犠牲にして護られた、この身を逃がさねば。
そう思うのに、恐怖に震える手足は倒れ込んだ体を起こすのに手間取り、踏み出そうとした一歩を滑らせる。
それでもなんとか踏ん張って駆けだしたわたくしの体に、凄まじい衝撃が突き抜けた。
「ぎゃっ」
今まで出したこともないような濁った声が、口から出る。
斜め下から打ち上げるように吹き飛ばされた体が木の葉のように舞い、一拍を経て明滅していた視界が戻る。
抜けるように青い空に、一羽の白い鳥が飛んでいた。
(ああ、わたくしは、死ぬのね)
静かな気持ちでそれを悟ったけれど、反転した体が地上を映す。
二本の立派な角を持つ巨大な猪が、大きく首を振って角に刺さっていた肉塊を振り落とした。
彼が刺さっていたことで、貫かれずに打ち上げられたのだと理解する。
悔しさと恐ろしさで、凪いだはずの感情が再び激しく揺れる。
けれどそれは落下の衝撃で、赤く弾けた。
「うぐっ」
「ビヒィン!」
わたくしの呻きをかき消す鋭い嘶きが、鼓膜を満たす。
感触から地面ではない何かの上に落ちたと察することはできたけれど、痛みに身を捩る間もなく体がぐっと持ち上げられた。
何が起こったのかを把握する間もなく、軽く浮かされた体が再び凄まじい衝撃によって蹴り飛ばされた。
(……白い一角獣)
美しい白馬が力強く蹴り出した後ろ足。
それが、わたくしが最後に見たものだった。
どぼり、と総てが沈む。
これほどの打撲と骨折を与えられながら、死因が溺死になるのが、少しおかしかった。
(ああ、エレジアの泉ね)
この森で死んだ総ての魂を慰める女神がいると、父が教えてくれたっけ。
護衛の騎士を連れていたとしても、この泉より奥へは決して行ってはいけないとも、教えられていた。
それはつまり、逃げていたつもりで、逆方向に走っていたことを意味する。
混乱していたとはいえ、あまりに情けなかった。
自身の無力を認めたくない一心で森に入り、護衛を死なせ、己の命も護れなかった。
(なんて、情けない)
悔し涙を流せたのか、流せなかったのか。
泉に沈んだ体と、消えゆく意識では、確認のしようがなかった。