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理解できないことであっても、納得できないことであっても、現実として降りかかってくる以上、それは事実だ。
泣き言を漏らそうが喚きたてようが、キョウの心情など無関係に、瞭然な事実は変わらずそこにあり続ける。
日照りが続き、どれだけの人が飢えで死んでしまっても太陽は輝き毎日昇る。
濁流があまたの命を飲み込んで、土地をまるごと押し流しても、水が世界を巡る流れは変わらない。
世界は人の、いやイキモノの心情になんて気にかけない。人間だって、自分の体内に多数あるたった一つの小さな細胞の状況を気に留めてみたり、ご機嫌取りなんてしないのだ。
混乱と怒りとやるせなさから、キョウが壁を相手にゆるい頭突きをし始めても、ノルトはキョウに触れることなく、 ただ「自分を傷つけるのはやめてほしい」と、静かに告げるのみだった。
その顔が、平静を装いつつも少しだけふがいなさを感じているようにも見えて、ほんのわずかに溜飲が下がったのもあり、キョウは壁への八つ当たりをやめて、ノルトと向かい合うことにした。
「たいていの村では、豊作を祈り収穫を感謝する。その意志を世界に祭りの形で示すんだ。召喚の儀式は、その祭りの中、ある時期から発生した現象」
「ある時期……?」
「五十年くらい前からと言われている。祭り自体は大昔からあるけど、あるときから、各地で世界への祈りを奉げる式の最中に、祭壇の上に異界のものが現れ始めた、と」
顔になにも感情をのせず、まさに作業としてノルトは話している。キョウとしても、いかにも申し訳ないという顔を作られても逆におしつけがましいと感じてしまっただろうから、淡々と話して貰うほうがありがたい。
今はキョウが寝台に、ノルトは椅子に腰掛け、互いに名前を名乗りあったのち、昨夜の詳細説明がなされている。
キョウの手の中には木製の水飲みがあり、机の上にあった水差しから注がれた水が、その量を当初より三分の一ほどは減らしていた。
当初寝台に腰掛けた後、ノルトが水をすすめてくれたのだが、キョウが異世界の水が身体に合うか懸念しているのを感じ取ったようで、手のひらで毒見をしてみせた上で、「君は大丈夫だよ。心配なら、少し舐めて様子を見よう」とまで言ってくれ、キョウはきっとこの場に置いても行儀が悪いだろうと思いながらも、指先に付けた水を少しずつ舌に当て確認し、ようやく一口分を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
淡々としてはいるが、眼前の人物はキョウに何かしらの配慮をしてくれているのと感じられる。
「当然、最初は騒ぎになった。けど、各地で同じようなことが起きて、しかもどうやら害あるものはほぼないと分かれば、もの珍しさもなくなり誰も気にしなくなった。精霊様からのお恵みだって、民の大半はそう思っている」
「どうして、異界のものだって分かったんですか?」
「詳しくは後で実物見せるけど、召喚物は全て、この世界の精霊や魔力の気配が無かったんだ。そんなものは存在しない。――そういうことになっている。だから、異界からのものだと断定された。もちろん民が判断したんじゃなくて、最初の混乱期、召喚物の解明と研究が行われて、お役人が発表したのさ」
国がお触れを出したことで、召喚物が出現したことによる未知のものに対する危機感と混乱は急速に収まっていった。もっとも、一部の村々では国の決定を待たずして、勝手に使い道を模索していたりしていたようで、そんな人たちからすれば、国の発表など何をいまさら、だったのだろう。
これらは書物や人から聞いて学んだことだとノルトは話す。
数十年前のことでも、各地への国の対応記録があり、またそれに触れられる環境にいたことが分かり、尋ねることへの心理的忌避感は幾分下がった。
「召還自体は、それほど歴史あるものではないってことだね」
歴史と言われても、この世界の基準はわからない。
五十年といわれたが、この年数がキョウの認識と同じだけの時間を意味するのかは分からなかった。だが、細かい部分を聞くのは今ではないと相槌を打つに留める。
「召還物は排除されることなく民に受け入れられていったけど、得られるものは、当然用途のよく分からないものだったり、使い方が分かっても上手く動かないものだったりした。時々便利なものが手に入ったようだけど、大きさだって人くらいの大きいものが得られたってのは僕が知る限り無いし、幼子ほどの大きさのものが得られた時は、国に報告が上がったくらいだった」
ノルトの説明により、師匠と二人で旅をしているの途中、一泊の宿を借り受けたこの村が、偶然にも祭事の支度をしていたため、一宿一飯の恩義としてその師匠とやらが手伝いを申し出てこうなったのだという。
もし二人が立ち寄らなければ、村の代表として村長が祭りを執り行っていたはずである。
だからこそ、ノルトは自分たちが関わったがゆえにこうなってしまった、と謝罪してきた。
「ノルトさん、は、その召喚の儀式? を生業にしているんですか?」
「生業ではないね。師匠は……それなりに有名な魔道士ではあるけど」
相手の言うことを全て頭から信じるわけではない。ただ、これは完成度の高すぎる夢だと思い込んだところで目が覚める気がしない上に、未だそのようなほんのわずかな可能性に縋りそうになっている自分が酷く滑稽に思えて、そんな自分が許せなくて、キョウは情報を得ることを選んだ。
話を聞く限り、この世界の理屈自体はキョウの知る神社での祭りと大差はないようではあった。
祭りとは、神に祈り、捧げ、ひれ伏すものであるとキョウは認識している。神は、本来恐れ奉るものであり、願いごとを叶えてくれる都合の良い欲望投射器などではない。少なくとも、キョウはそういう考えである。
しかしながら、この世界にキョウが慣れ親しんできた数々の『神』と同じ存在がいるのかは不明ではあるのだが。
ただし、説明を通して聞く中、いくつか聞き慣れない言葉と聞き捨てならない説明が出てきたので、今いる状況が異世界であるという事実を鑑み、キョウは恐る恐る尋ねた。
「あの……、もしかして、魔法とか魔術とか、そういう超常現象的なものがあるんでしょうか?」
ノルトの言葉の中で、術式だの精霊だの魔道だのという言葉があったのだ。
そもそも召喚儀式というのを聞いた時点で、その辺りの要素は含んでいると気づくべきだったかもしれないが。
「君がいう超常現象というものがなにを指しているのか分からないけど、魔法というものはある。この世界の人間なら誰もが使える技術、手段の一つだ。錬度や威力、出力に差はあるけれどね」
「さっき、私の手を取ったときのが……その、魔法というやつですか?」
やはり魔法が行使される世界であるようだ。
ならば、と先程ノルトに手を取られ、部屋中が光ったことを思い出す。そこまで考えて、もしや自分は勝手に魔法をかけられているのではないかと不安が生まれたが、ノルトは首を横に振って否定した。
「さっきのは魔法ではないね。精霊の力だ。まずは言葉を使えるようにと詳しいことも言わずにやってしまったのは悪かったね。君に状況説明と謝罪を先にしたかったから」
「ことば……」
そうだ。混乱の中でうやむやにしてしまっていたが、確かにあのときから言葉がはっきりと分かるようになった。
そして今、キョウがノルトと話している言葉は日本語ではないはずだが、脳はそうだと認識している。
「散々会話しておいてなんですが、これ……私どうやってしゃべってるんです……?」
特に意識せず、思った言葉が思ったとおりに口から出て行く。しかし、それは日本語の言葉の形でもなく、きっと音もそうではないのだろう。ただ、聞いている自分はしっかりと理解できてしまっているという有り得なさを抱えている。
「君に精霊が宿っているんだよ。多分、土着の精霊で属性は土。召喚直後、適応したと僕はみてるけど」
「土」
「精霊が宿れば、その精霊が理解している言語を理解し行使できる。都合の良い翻訳性能さ。ただし、精霊と適応するかどうかは魔力の素養に関わらず無作為で、適応者は比率で言えばあまり多くはいない。君が精霊を宿せるのは、僕たちにとっても運が良かった。まず会話が可能ということだからね」
もし、会話ができなかったらどうなっていただろうか。見知らぬ場所で、見覚えの無いものに囲まれ、加えて魔法や精霊なんてものまである。
運が良かった、と――手放しで喜ぶ気になれず、胸のうちに湧いたもやもやをごまかすように、キョウは次の問いを投げた。
「手を握ったのは、どういう理由があるんですか?」
「最初カタコトに聞こえたんだよ。君もそうだったんじゃない? だから上手く精霊と繋がってないんだろうと推測して、整えたんだ。僕も精霊を宿せるから、型に嵌めた、ってところ」
精霊が宿っている、と言われても特に実感はない。身体が力で漲るとか、逆に力を使いすぎで弱るだとか、そういう反動のようなものは感じられない。
翻訳性能と言われ、某国民的認知度がある未来型猫型ロボットが持っていた、食べ物型の便利道具が思い起こされた。アレに近いならば、確かに都合の良いものである。
水飲みに両手を添えて持っていたが、片手を離して開いては握り締める動作を繰り返す。
精霊や魔法と、当然のように話してくるが、はたしてそれがどういう物なのか、理解は及ばなかった。
「……翻訳って言いましたけど、意味とか、共通っていうか、ちゃんと通じてるってどうやって……」
どう説明したらいいものか、話しかけてから、キョウは戸惑い口を閉じる。
ノルトは翻訳と言いはしたが、キョウが言う『魔法』という言葉と、ノルトの話す『魔法』という言葉が同じ意味なのだと、いったい誰が証明できるというのだ。
キョウの知る魔法とは、漫画とかアニメとかゲーム内で起こされる『超常現象』だ。物語の作り手によっては、科学と魔法を差別化するために作中で定義や設定を作りこんでいるのもあるが、結局のところ『御伽噺』の一部という認識は変わらない。
相手が同じ意味で言葉を使っているかどうかなんて、キョウがいた世界でも、母語を同じにするもの同士ですらあやふやだったのに、ましてや異世界でなんて――、
証明なんて無理だろう。
言いよどみ、視線をさ迷わせるキョウに、ノルトは一度だけ視線を近づけて逸らした。
先程からキョウを慮ってなのか、ノルトはあまり視線を交差させようとはしてこない。一番近かったのが顎横の空間らしきところに視線が向くくらいで、それがキョウにはありがたかった。
「同じ定義の言葉を使用しているのかどうか、確証が持てないんだろ? 言いたいことは分かる。精霊を通しての翻訳は、その精霊の生まれた土地と、ついた本人の語彙に多大に影響されるから」
「本人……?」
「そうだよ。精霊の翻訳は、あくまで本人の中にある言葉を構築しているに過ぎない。君の中にある言葉で、一番近いだろうとされる言葉を、精霊が識別、誘導しているんだ。だから、全く同じ意味になるかどうかは君の世界の文化、概念、教育等によって違ってくる。そもそも、互いの世界に全く存在しないものもあるだろう。そういう場合は、一番近いとされるものが選ばれる。結果、認識の違いが出やすいんだけど」
「ちょ、ちょっと待ってください……!!」
「同じ色や形をしていても、味が違う食べ物を想像してくれればいい」と続けたノルトは、焦って声を上げたキョウの言葉を受け、口を閉じてくれた。
言われた端から言葉を咀嚼して恐ろしい考えに行き着く。翻訳だの宿るだの言っていたが、それはつまり――、
「……たぶん、言いたいことわかるよ」
不味いものをかみ締めたように、ノルトが目を伏せた。その様子に嫌な予感がどんどんと湧いていく。
「――なんか、今の言い方だと、精霊が私の頭をいじくり回してるって感じ、なん……ですけど」
「言いえて妙だね。僕もそう思う。精霊が宿る、即ちそれはナニかが勝手に自分の行動に影響を与え続けている、ということだから」
キョウから顔の向きを逸らし、ノルトは壁に向かって吐き捨てるように言葉を投げつけた。眉間には深い皺が刻まれ、忌々しげに空を見つめている。
それまでの落ち着いていた気配から急に変わった様子に驚くが、ノルトはすぐに深く息を吐き、顔を正面に戻した。瞳はまだ伏せられたままだったが、柳眉の歪みは無くなっている。
「……一つの精霊を宿し、一つの言語を使い続けていけば、いずれその精霊を宿さなくなってもその言語が己に身に付く。習得に掛かる期間は人それぞれだけど、ずっと精霊を宿してないと話せない、って訳じゃない。それに、君と共に居る精霊は悪いことはしない子だよ」
「精霊に……良し悪しが? それにノルトさん、いくつかの言語を話せるみたいですけど、ここ、ま、マケディアナ? は、国の中で言語が分かれてるんですか……?」
キョウのいた日本は公用語はひとつであったが、世界的に見ればいくつかの言語を公用語としている国はたくさんあった。その上、国の役人同士の会議の場に、通訳が必要なところもあると聞いたことがある。
言葉とは、文化を形成する上でまず土台になるものだ。
読めずとも、書けずとも、話すことは大抵の人間が、その育った環境下であればほぼ可能であるからだ。発話とは、それだけ力を持つものである。
その文化の土台要素が国の中で分かれているならば、それは国と言い切れるものなのだろうか。
この世界の文化常識を知らないからこそ、そう思ってしまう。
「良し悪しというより、性格や気性がいろいろあるんだ。君に宿った子は穏やかな気配の子だから安心して良い。証拠はって言われても、僕の言うことを信じてもらうしか方法はないんだけど。精霊は、通常目に見えないものだし、君は精霊に慣れてないからまだ存在に気づけないだろうけど、時間が経てば分かるようにはなる」
「そ、そうですか……」
軽く肩を竦め、首をかしげて苦笑いするノルトに申し訳なさが立ち、そのまま受け取ることにした。
ノルトの言葉を信じれば、精霊は目には見えず、人に勝手に宿り、でも気配が分かる人には分かる存在で翻訳機能つき。これだけなら、それはあのカタコト会話からこの少女の演技で妄想の類ではないかという余地はあるのだが、あの光り輝いた瞬間の気配を思えば、嘘と言い切るのが難しい。
「言語が分かれている、とまではいかないけど、この国も広いから、場所によっては訛りが酷くて言葉が通じないことがあるんだよ。中央と、国境とかの縁辺部出身者なら、例え同年代であってもなかなか通じない。こと老人相手にはもっとじないとも聞くね。僕は複数地域の言葉を話せはするよ。仕方なく、だけど」
最後の言葉が、少しだけ無機質に聞こえて、流れで突っ込んだ質問をするのはやめた。それに、この国の地理を今知ったところであまり意味は無いと思えたのもある。
聞くべきこと、聞きたいことをキョウが考えていると、ノルトは軽く組んでいた両手の指を外し、手のひらを合わせた。顔には感情は覗えず、ただ綺麗な顔がそこにあった。
「イロイロ、信じがたい顔してるから、精霊は見せてあげられないけど、魔法なら出せるよ。君のいう仕掛けの部類かどうか、見て判断してくれればいい」
「え?」
言うが早いか、突然ノルトの周りに柔らかな風が吹き始めた。風はノルトを中心に渦を描くように流れている。
風で前髪を揺らしながら、ノルトはゆっくりと片方の手をキョウに向かって差し出した。キョウとノルトのちょうど真ん中くらいの位置だ。
すると、その手の上に突然小さな水の塊が現れた。大きさは拳で包める程度のものが、ゆらゆらと揺れながら、手の上に浮いている。
目を丸くして目の前の水を見つめるだけのキョウをそのままに、水の塊は弾けるように分かれ、次の瞬間には氷と火、そしてばちばちと音をさせる光になり、それらはゆっくりと手のひらの上で、追いかけっこをするみたいに連なって回り始めた。
「……氷と火に、これは…静、電気?」
「雷の術式をかなり抑えたものだよ。そのまま触ると少し痛みが走るから、指引っ込めて」
つい好奇心から腕を上げて指でつつきかけたキョウを、ノルトが制する。言い終わらないうちに、三つの光は手の上でどんどん速さを増していき、最後にはぶつかるように集まると、親指ほどの大きさの炭の様な黒い塊になった。
炭もどきは微振動をしているようで、空中に浮かぶ姿に目を凝らせば輪郭がぶれている。と、その炭もどきの一部から、するりと植物の芽らしきものが這い出てきた。
しゅるしゅると芽は伸び、蔦となり、なんの支えもないというのに上に伸びていく。そしてキョウの目線と同じ高さまでくると、蔦から伸びる葉の脇から蕾まで生えてきた。
小さいながらも、蔦にはたくさんの蕾が付き、まばたきの間に次々と花開き、かすみそうのような小ぶりな桃色の花をつけたかと思うと、満開になった瞬間、煙のように消え去った。
いつの間にか風も止んでいた。
ノルトの手を見れば、蔦も炭もどきもどこにもない。ただ、先程開いた桃色の小さな花の香りだけが、鼻先にかすかに残っていて、あの一瞬ともいえる出来事が、幻ではなかったことを訴えていた。
「いまのが……、まほう……?」
「細かい分類とか、人によって使える属性があったりとかするけど、簡単に言うとそう」
「信じた?」と至極まじめくさった顔で問われ、キョウはただ目をぱちぱちとさせながら頷くしかない。
魔法を見せられ、嫌が応にもノルトの言葉が事実であるということを思い知らされる。
まだ疑っているのかというよりも、信じたくない最後の一線がそこにあったからだ。
なぜならノルトは、『儀式そのものは恒例だが人が召喚されることはない』と説明した。ならば即ち、キョウの存在は想定されていなかった、ということに他ならない。
ルーチン作業の中に突如発生した異物である。ならばそのイレギュラーへの対処法は――、
「あの、召喚したモノって、普通は、どうするんですか? ――どうなるんですか」
「……殆どの村々では、そのままそこで保管してるようだよ。召喚されるものも小さいから。全部が残るものでもないし、腐ったり崩れたりするのだってある。時間が経って廃棄が必要になったものは、纏めて儀式の際に燃やしたり、灰にして大地に撒いたり海に流したり、いろいろだね」
燃やすと聞いて、急に気付いた。キョウは、召還された直後、身体に触れたものがあったはずだ。
「私の、わたしと一緒だったものは――!」
「君の持ち物は寝台の下にまとめてるよ。車輪がついていたものはここには運んでないけど、外に隠してある。あとで連れて行くから」
言われ、がばりとベッド下を覗き込むと、確かにそこにはキョウが通学用に使っているリュックと、スポーツバッグがあった。
慌てて水飲みを寝台の端に置き、足元に広がった空間の中にあった荷物を引っ張り出し、膝の上に乗せる。焦りながらも二つとも開き、中を確認していく。
リュックにはいくつかの教科書やノート、ペンケース。気に入りの布製カバーをつけた文庫本や空の弁当箱に水筒、お箸。化粧ポーチには目薬やリップクリーム、麺棒、叔母からお土産として貰ったあぶらとり紙のセット。それから、祖父から貰った、馬の姿が押されている皮製の財布。
エナメル製のスポーツバッグには、ジャージの上着と体操服、着替えの肌着にトレーニング用のゴムバンドとゴムチューブ、タオル代わり兼趣味で集めている手ぬぐい三枚。内ポケットにはこれまた叔母から譲り受けたつげ櫛と椿油の瓶に、ストックしているヘアゴム1パック(4本入り)とヘアバンド。
「……、ょかっ……たぁ」
膝の上の荷物を纏めてぎゅっと抱え込み、安堵する。
キョウのものが、欠けずにそこにはちゃんとあった。
安心感から肩の力が抜け、つんとこみ上げてくるものをなんとか我慢して抑え、泣いてはダメだとキョウは強く己に言い聞かせる。
泣くことは、感情整理に必要だという。人間の機能として正しい反応なのだと。
ただキョウは、泣くことで気持ちに区切りがつくのが嫌だった。泣いて無防備を晒すのも嫌だったが、それ以上に泣いて感情の整理が行われ、『では次に』なんて、自身に起こったことを過去のことにして、そんな都合よく気持ちを切り替えるのが嫌だった。
なぜなら、キョウのこのおかしな状態は続いているからだ。感情整理や物事の区切りを定めるならば、事態の解決をしてこそだろうという拘りが、キョウには棲みついている。
何度も唾を飲み込み、震えそうになる肺を押さえるために肩を上下させ、口からの呼吸を繰り返す。
そうして、ようやく落ち着いたキョウは、やっと『本題』を投げかけた。
「……私、帰れるん……ですよね?」
「それについては、私から貴殿に申し上げよう」
凛とした、低めの力強い声が予想外の方向から降ってくる。
ノルトが開け放していたドアに、蒼い布を身に纏い、腰まである深い紅色の髪を揺らした長身の女性が立っていた。