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まぶたを撫でる光を感じ、キョウは目を開いた。ひどくぼんやりとしていて、まるで病み上がりのような倦怠感が全身にある。寝つきも寝起きも悪くないのに、これはどうしたことだろうか。
昨日は床で寝落ちしたわけでもあるまいし――、そこまでをぼやけた頭で考えて、ふと違和感に気付く。
――自分のベッドじゃない。
仰向けになっている状態から視界を占める天井が、自室とは違うことをようやく認識した。ルームライトが見えないのだ。
ぐるりと首だけでを横に倒す。片方は壁であったが、もう片方は六畳ほどの広さの部屋で、ちょうどベッドは部屋の隅にあり、対角線に近い隅の位置にドアが見えた。
ベッドヘッドから見て真向かいとなる壁と、そこに接するもう一辺に窓があり、正面から身体の右側にかけて朝日らしきものが差し込んでいるのが分かる。
(? 道場……でも、ないよな?)
キョウが寝て起きたことがある場所は、自宅を除けば学校の保健室か幼いころから通っている道場くらいだ。しかし今見えているのは、記憶のどこにも思い当たらない室内だった。
ドアとベッドを線で結び、三角形の直角の位置となる部屋隅には、小さな机が置かれている。他には木製の子供の背丈ほどの衝立と、丸椅子が二つ。他は本棚もなければ天井をみても木組みが見えるだけで、おかしな部屋だなとキョウは感じた。
見慣れた設備が見当たらない部屋もおかしいが、見覚えの無いところで寝ていたこともおかしい。
何より、そんな状況下にいるのに、そのことに焦りを感じていない自分がどう考えても変である。
(夢か? ――これは)
未だに頭がすっきりしない。そういえば昨日はどうやって帰っていたのだったか。確か、山門はくぐった。それから――、
半身を起こしながら記憶を探るが、まるで貧血のようにぐらりと視界が歪み、思わず片腕をついて支え、もう片方の手で顔を覆った。
(なんだ、この――、血の気が急に下がった、みたいな)
過去片手の数ほどしか体験していないが、これと似た症状に見舞われたことがある。極度の緊張時や、熱中症になりかけた時のことだが、少なくとも今は秋の終いであったはずで――、
(あれ、そういえばなんで、こんなに温かいんだ?)
朝方のはずだが、キョウが思っているよりも温かい、というより寒くない。格好が制服にジャージのズボンをはきっぱなしということを考慮しても、だ。
自宅では親の趣味でどでかい薪ストーブが常時燃えており、夜間も熾き火のおかげで寒さなど感じることはほぼ無く、上半身は半そでシャツだけで過ごせるのだが、少なくともここは自宅ではない上に、室内に暖房器具らしきものは見当たらない。
訪れた眩暈が過ぎ去るまで大人しくしているうちに、見えてきたものがある。横になっていたときは見えなかったが、半身を起こしたことで部屋の四隅、床に置いてあるものに気付いた。
それは花のつぼみのようであった。薄く頂点が色づき、形としては蓮に近い。ただは大きさは林檎や桃を思わせるものだった。
そして、ドアの付近には、キョウの手のひらで包めるくらいの小さな巻貝が、木枠の縁より高い位置――天井際の壁に打ち付けてある鈎針から垂れる太い糸に括られ、吊ってある。妙なインテリアだなと思って見ていると、視線を向けていたすぐ側のドアが開いた。
「おはよう。気がついた」
ドアの向こうから美少女が顔を覗かせ、戸を開けたまま、半歩ほど横に滑りながら部屋の中に入ってきた。
内開きで開けっ放しのままのドアの入り口向こうに、うっすらと同じ作りの板が見える。
美少女の髪は薄灰色がかっていて、毛先に行くほど濃くなっていた。髪型にそれほど頓着していないのか、下瞼まで伸びた前髪の一部を左耳にかけ、残りの前髪束の向こうから、形の良い整った瞳がのぞいている。
後ろ髪は綺麗に頭の形に添って襟足から少しだけ伸びているようで、ショートカットの似合う形だなぁと、思わず魅入ってしまった。
ただ服装は見慣れないものだった。
端的にいうと布量が多い。厚着ではなく、布量が多い。
襟元の合わせ方は和服の系統にも見えたが、全体的な印象は、ゲームや漫画でよく見る魔法使い的な防具アイテムであるローブ系だ。コスプレか何かだろうか。
彼女が入ってきた瞬間、うっすら緑色のもやというか、煙のようなものが重なって見えたような気がしたが、まばたきをすると見えなくなった。
「気分、へいき? 気持ち、悪くない?」
キョウの十六年と少しの人生の中で、テレビや雑誌でもお目にかかったことのないレベルの美少女から、低すぎず、綺麗なアルトボイスが響く。
「えっと、少し頭がふらつきますけど、気分は、落ち着き、ました」
訊かれたので、思わず返事をしてしまった。
ここは何処だろうとか、あなたは何者だとか気にはなるのに、思考と感情が妙にずれているようで、何故だかとても落ち着いてしまっている自分に、おかしいなと思ってしまう。
「おはよう、……ございます。私、市之瀬 響、と、いいます。あなたは、誰で、しょうか」
少女はこちらに何か言いかけたのか、口を開いていたが、先に音を出して遮ってしまった。
頭の中は焦っているのに、気分は落ち着いていて、鼓動が早くなっている感じもしない。見えるものも、自分の内側もちぐはぐで、思考だけが足早に混乱していく。
少女はキョウの言葉に何を思ったのか、少しだけ目を丸くした。
「僕はノルト。先に名乗り、ごめん」
部屋がそれほど広くないので、ドア付近に立ったままの少女の言葉もきちんと届くが、キョウはその片言のような言い方がまず気になり、次に聞きなれない名前の響きに気付いた。
これまでのキョウの級友の中にも、名前の字面と音が一致しない人間が何人かいたことはあるが、それと今聞いた音は種類が違っているように思う。
キョウの今までの字面と音が一致しない級友達は、音のどこかに妙な英語の音をもじったり、音自体はよく聞くが字面から読み取れないというものであった。
ただ、立っている少女は顔立ちが日本人とは違って見えるので、人種が違うのかもしれない。ならば片言なのも納得できる。
加えて、この子は僕っ子だと気付いた。美少女でコスプレらしき服装に僕っ子とは中々に属性が盛られているではないか。
「ノルトさん、でいいですか? あの、ここはノルトさんのおうち、病院……ですか? 私、いったいぜんたい何がどうなって」
とりあえず今一番の疑問をぶつけてみる。
そうだ、自分は昨晩家に帰りついたはずだ。家に着いて、トロを抱き上げて、ひどく嫌な気分になって倒れこんだ――ような。
そうだ。倒れたのだ。だから、ここは病院なのだろう。キョウはしゃべりながら考え付く。
夜間診療受付の担当医院として、個人医院に運ばれたのだろうか。個人医院であっても、いまどき木造かつ漆喰仕立てな部屋の作りとは珍しいものだ。ナースコール的なものがベッド上に無いようだが、探せばあるのかもしれない。
そういえば、この部屋には時計も見当たらないが何故だろう。
ここには、きっと救急車、もしくは親が仕方なくも運んでくれたか。どちらにしても既に朝ということは、昨晩のうちに親は病院に任せて帰ったのだろう。
個人医院ならば、こんな時間から院内をうろついているこの子は院長のお子さんだろうか。
考え込むうちに黙ってしまったキョウを見て、ノルトが眉根を寄せた。一歩踏み出そうとして、何を思ったのか足を戻し、目を少し伏せてからもう一度キョウに視線を寄越す。
「待って、ちょっと。言葉、聞こえてる。分かる?」
「分かりますよ。えっと、ノルトさんは、日本に来てまだ日が浅いですか? あの、看護士さんかお医者さん呼んでくれたら大丈夫です。気分も落ち着いたので、家に連絡して、手続きしますから」
軽く見回した時に荷物が見えなかったので、きっと親が回収したのだろう。財布の中に保険証を入れているので、一旦家に連絡し、持ってきてもらわねばならない。
一泊の入院費がいくらかかっているのか、毎度のことだが、医療費を一時的に親に借りるしかないなと算段をつけていると、視線の先のノルトが深いため息をついているのが見えた。
「あの……どうしました?」
「そっち、行く。良い?」
「? ……どうぞ」
数歩で届く距離ではあったが、ノルトはキョウが言い終わってから足を進めて、ベッド脇までやってきた。
「言葉、聞こえてる。意味は、分かる?」
「はい、聞こえてますよ。意味も、大体は……多分」
言いながら、そういえばノルトが片言ということは、逆にキョウがしゃべっている内容も彼女には上手く伝わっていないのではないかという考えに辿りつく。
しまった、自分が話せているからといって、相手が同じように聞こえているかなんて、思い込みでしかないのだ。
キョウはつい、どうにかしようと無意味に両手を上下させようとした時、ノルトが片手を差し出してきた。
握手だろうかと、じっとその手に視線を注ぐと、次いでノルトの声がキョウに届く。
「君の言葉、半分伝わる。でも全部違う。これで、分かるになるはず。怖いの悪い、けど出して」
ノルトの言葉を要約すると、まずは握手してコミュニケーションをとれば片言でももっと意味が伝わるようになるはずさ! ということだろうか。
発言者の表情と解釈した内容が一致してはいなかったが、握手くらいならとキョウは手を差し出した。
本来、人見知りというか人嫌いの気があるキョウにしてみれば奇異な判断である。
そう、キョウはノルトが部屋に入ってきてからずっと気持ちと思考がズレたまま、おかしいのだ。
ノルトが手のひらを上向きに差し出しているので、自然とそれに乗せる形で手を合わせた。これでは握手ではなくお手をどうぞだな、なんて思ったのだが――、
「……えっ、あ――、ぅ、っぁ――!」
手のひらが触れ合った瞬間、キョウの全身をぶわりとあたたかい風が包んだ。
視界が虹色の、いや無数の色づいた光でいっぱいになる。光がきらめいて、動き回る。
同時に、手のひらから何か、そう、まるで水が流れ出ている気がしてしまう。同じく、ノルトの手のひらからも何かが流れ込んできている気がする。
こんなのはおかしい、ありえないだろう。そう、頭では考えている。
けれど、やはり怖いとは思えなかった。
怖くも気持ち悪くも無い。温かいがさわやかな気分で、春先の木陰で昼寝をしているくらい、穏やかな気持ちだ。
これは、――優しい気配だ。
手だけじゃない。ベッドで半身を起こしているだけなのに、全身が薄く柔らかい毛布にくるまれているようにも思えて、心地よい温かさに思わずほうとため息がでてしまう。
次第に目の前を飛び交っていた色とりどりの光が収束していき、キョウとノルトの間で一塊になったかと思えば、ぱっと弾けて消えた。
すると、先ほどまで感じていた温かさも、どこかに行ってしまったかのように、気配が無くなる。
今のは手品か何かだろうかと、キョウはじっとノルトを見上げたが、ノルトは少しだけ眉根を寄せ自分の手のひらに目を向けたままで、キョウの視線には気付かない。
「やはり、土の精霊か……」
「はい?」
「こっちの話。ところで、僕の言葉さっきに比べてどんな風に聞こえる? 抑揚がどうとかは置いておいて、妙に途切れて聞こえたり、単語が前後したり、ぎこちなく聞こえたりとかする?」
急に流暢にしゃべりだしたノルトを、まじまじと見る。もしかして、さっきまでは演技していたとでも言うのだろうか、この美少女は。
「できれば君も何か、なるべく長く喋ってくれると確認がし易いんだけど。少なくとも意味は通じてるんだよね?」
言うなり、ノルトは近くにあった丸椅子を引き寄せて座った。キョウと目線が近くなる。
ノルトからじっと見られて、どう反応するべきか迷いながら、キョウはおずおず口を開いた。
「あの……、さっきの光は手品ですか? それに何だか急に話し方変わりましたけど、ノルトさん、日本語喋れるのになんでさっきまでああいう喋り方してたんです……か?」
「さっきのはテジナ、仕掛け、じゃないけど、うん、何となく君の状況は分かった。それから、僕はニホンゴを喋ってる訳じゃないけど、どこから説明しようかな……」
目の前の美少女は、キョウを見つつもなんだか自己完結したようなことを語りだした。もしやこの子、コスプレ+僕っ子+厨二病まで備えているのだろうか。病院関係者の子供かと思っていたが、実は入院患者というオチだったら少々困ったことになったぞと内心冷や汗である。
胴体に添わせるように左腕を曲げ、その左手の甲に右肘を置き、右手甲をキョウに向けながら思考する姿勢をとっていたノルトが、自身の顎から頬の部分に曲げながら当てていた人差し指と中指を離すと、少しだけ首を傾けた。
「君さ、昨日の夜のことどこまで覚えてる?」
「どこまで……って、私は、家に帰り着いて、気分が悪くなって、頭がぐらぐらして倒れて……だから病院に運ばれたんじゃないんですか?」
どこまでといわれても、気分が悪かったことは思い出した。なので記憶はかなりぼんやりしている。というか、そういう話をするのは医療関係者相手にであって、証明書等をつけていないノルトにすべきことではないだろうとキョウは結論付ける。
少なくとも、彼女はキョウと同じ患者か、医療関係者の身内かだ。いやもしかすると早朝からの見舞い客の連れという可能性があるかもしれないが、その場合昨夜のことを知っているのも、それを聞いてくるのも妙である。
「君が倒れたのは本当。そして運ばれたのも本当。ただここは医局ではないよ」
「病院じゃないって……」
目前の相手が患者枠だろう度合いがキョウの中でどんどん高くなる。別に乱暴してくるような気配は全く感じないが、話が通じないという嫌な方向への期待というか予感が高まってくるのはよろしくない。
会話を急に打ち切っても大丈夫なんだろうかと、心配になってくる。
「何となく、君の中の基準はさっきので識ったから、教えるより見た方が納得するしかなくなるかもね」
「あの……! 大人の人は」
話が噛み合わない気配が濃厚なので、早々に切り上げてしまおうと思い、職員を呼ぼうと声を出したところで、キョウはおかしなことに気付いた。
「あれ……?」
声の出方があり得なかったのだ。
思わず喉元を手で押さえる。
あー、あーと発声練習をしてみる。問題なし。
あ、い、う、え、お、と自分が認識している音を出す。こちらも問題なし。
「ノルト、さん」
「……なに?」
唇に繋がる筋肉をことさら意識して、キョウはゆっくりと呼びかけた。
突然発声練習をし始めたのを怪しがるでも驚くでもなく、ノルトは静かに見返してくる。
だが、キョウはノルトにつづいて言葉を向けられず、黙り込むしかなかった。
(なんで?)
混乱、困惑、焦燥、それらがキョウの身の内を駆け巡る。
(おかしいよ?)
ノルトへ呼びかけた言葉が、キョウが思い描いていた口の動きと全く別の形をとったからだ。
本来、4つの母音と『ん』の形の5つで構成されているはずの発音が、まず最初から『お』の形にならなかった。どちらかというと、唇を横に引いた、『い』や『え』に近い形を、唇が作った。
「なんで……」
唇に指先を当て、なぞる。思わずこぼれてしまった言葉も、予想していたとおりの3つの音の繋がりではなかった。だというのに、頭はそうであると認識した。
ざわりと、悪寒が一瞬で全身に走り、震えだす腕を、掛けられていたタオルケットを握り締めてこらえる。手の中でくしゃくしゃにされた繊維は、少しごわついていた。
自分の頭の中と身体の動きが明らかに繋がっていない。それをまざまざと、押し付けられているのを感じ、キョウは次第に――怒りで痙攣する身体を抑えるのに必死だった。
「『言葉が思っているように出ない』――かい?」
向けられた言葉に勢いよく頭を上げる。顔がこわばってしまっているのはキョウ自身分かっていたが、取り繕うことも出来ず、頬を歪めたままノルトを凝視した。
初対面だ、もちろん不信感はある。なのに、相手の話を聞くだけの余裕が何故かあった。
「説明するよ、ちゃんと。納得してもらえるとは思ってないけど。ああそれと、――そうか、君は先に『怒り』を生むのか。なるほど。僕としては、そっちの方が良い」
そう零したきれいな顔が、少しだけ歪んで、悲しげにも微笑んでいるようにも見えた。
ノルトは丸椅子を後ろに引いて立ち上がる。それから一度しゃがみこんでベッド下に手を伸ばしたかと思うと、すぐに起き上がりこちらに向かって両手を差し出してきた。
「立ち上がれる?」
「…………」
「もう何も起きないよ」
眼前にある両手を訝しげに見やりながら、無言で両足をベッド脇に下ろした。先ほどのこともあり手を取るのはためらわれたので、両手は身体を支えるようにベッドの縁につく。
すると、足先に何かが触れた。視線を向けると馴染みの運動靴であった。どうやら先ほどしゃがんでいたのは靴を出してくれていたらしい。その何気ない気遣いに、棘のある態度をとったのは申し訳ないなと思いはしたが、先ほどからのおかしな状況が変わっているわけでもないので、そのまま無言で靴を履く。
――またおかしいことがおきたらと思うと、声は、怖くて出せなかった。
立ち上がりかけに少しふらついたが、そのまま床を踏みしめてなんとか姿勢を保つ。
するとノルトは両腕を引っ込め、二歩後ずさって距離をとった。
起き上がり自身をよく見てみると、昨日の帰りの服装である制服の下にジャージのズボン、靴下という格好で、ブレザーには当然のように皺が寄っている。
皺伸ばしの作業が面倒だなと考えていると、ノルトが窓の外に向けて指を向けていた。
「そこからなら見える? ここがどういう村か、君の知るものと違いが分かるはず。まず見たほうが、これからの話がしやすい」
なんとも上から目線に聞こえる言葉を投げかけられて、相手が自分好みの容姿をした美少女といえど多少むっとしつつ、キョウは視線を窓の外に向けた。単純に部屋が狭いので、立ち上がってぐるりと見回せば自然と窓の外まで見えてしまったというのもある。
「……は?」
視界から入ってきた情報に、思わず間抜けな声が漏れてしまう。そのまま窓に駆け寄り、うっかりその勢いのまま窓硝子に手を付きそうになったが、無理やり木枠まで誘導し、器物損壊を回避する。だが、そのことに安堵する余裕をキョウは感じられなかった。
硝子を隔てた視線の先にあったのは、強烈な違和感。
見慣れぬ木造建築平屋建ての家屋数軒と、少し離れた所に生えているらしい木々、そしてその更に先には、うす緑色の塊がぽつぽつとだけ見える平野。
そう、ほぼまっ平らな平野が広がっていた。遥か先には山の形がうっすらと見えた。――高い、高い山で、かなり遠方にあると思われるのに、上部は雲に隠され裾野しか見えない。
(……こんな山、知らない)
硝子に額を擦り付けたまま左右水平に視線を流しても似た状況で、違う点といえば山の変わりに海が見えるくらいである。
どう見ても、鉄筋造りの建物が視界に入ってこない。何より、家々の間の路面らしき場所が明らかに舗装されていないのだ。ブロック塀も見当たらない。というより、コンクリート的なものが皆無だ。
外の家々の壁は全てキョウの家と同じような漆喰に見える上に、目をこらしても大抵の窓枠に付属する網戸すら見当たらなかった。
(なんだ、――ここ)
違和感だらけである。
キョウが居る場所は二階建てのようで、多少高い位置から見えているが、そうだとしても十数軒見える家が全部平屋である。その上見かけが木造。新興住宅地的な等間隔区割りも覗えない。
キョウは自分が住んでいる地域が人口減で小学校の統廃合がどうのこうのと話しがでるレベルの場所だと知っている。また実家から多少離れた母方祖父母の居る田舎も、徒歩二十分内にコンビニすら無いほどの場所なので地方都市の田舎具合はある程度知っているつもりだ。
であるのに、ここは知っているものと合致しない。
そして、じっと窓にかじりついて見ていて、ようやく気づいた。強烈な違和感、その原因。
――車が無いのだ。
まず、家々に車庫が無い。自転車も、バイクも見当たらない。一般的とされているであろう田舎という地域であれば、各家庭の成人人数分の車はあるもので、当然それらを仕舞い込む車庫だってある。
それに、車庫代わりになる農業用倉庫的なものすら、キョウの視界から入ってくる家屋付近の情報には付属していない。
母方祖父母の家で見慣れていた軽トラやコンバインがどこにも置かれていない上に、作物を仕分けて入れるはずのプラスチック製のかごの入れ物や、ダンボールなどが詰みあがった山の影も見えない。
「電柱も、無い……」
いくつかの家々の脇に細い水路はあった。ただ側溝整備されている気配はなく、地面にただ溝が通っているだけのように見えるし、転落防止用の覆いなどは見当たらず、隣接地に行くためなのだろう、厚めの渡し板が所々にあるくらいだ。
見える建物は皆平屋だが、視界内の半数の家屋には小さく飛び出た突起があり、そこから煙が出ているのが見える。キョウの知るものよりもかなり低いが、どうやら煙突のようだ。
電線がない。マンホールも無い。
家々の距離は妙に離れているのに、敷地を区切り目隠しとするような植木も見当たらない。住宅の区域から地平に向かって伸びる道らしきものにも、舗装されている様子が全くない。
――おかしい。
――おかしい。
――おかしい。
何より、おかしいと思っているのに妙に落ち着いている自分が一番おかしい。
あり得ない気味の悪さに、キョウはぶるぶる震える唇を、なんとか引き結んで耐えた。
木枠に宛てていた手に力がこもる。ざらざらとした木目の感触が手のひらに当たり、夢にしてはいやに鮮明な手触りに、キョウは黙り込むしかない。
「ここはアキシャタ、マケディアナ国北東沿岸寄りの、小さく慎ましやかな農村だよ。この家は医局じゃなくて、ここの村長の家に来賓用として誂えてある部屋なんだ」
綺麗で落ち着いたアルトボイスが、しんとした部屋の中でキョウに降りかかる。
「あまり覚えてはないだろうけど、君は昨日の晩にここに来た。昨夜は第一季における豊穣祈願の祭りが行われてね。その時に毎回恒例の召喚儀式が執り行われたんだけど、その儀式の途中で、君が現れた」
「……何、いってるの」
中二病にもほどがある、そういう妄想は自分の日記帳にでも書いて仕舞っていろと、そう切り捨てたかった。
――が、どうやら現実はそんなことを言える状況ではないらしい。
ノルトが声を聞きながら、窓から外を見る視線の先、住人らしき女性ら数人が住居から出てきていたのをキョウは捉えていた。それぞれ大きな布袋を抱えている。
その服装は襟元こそノルトと同じく右前の着物の合わせを思い出させたが、それ以外は有名絵画の落穂拾いで描かれていた女性達そのものに見える。
偶然運び込まれた病院で、たまたま居合わせただけのこの少女が、ふざけてなりきりごっこをしているだけならばそれでよかった。
だが、倒れた拍子に頭を打って、キョウ自身がおかしくなったのでないなら、これだけ広範囲を巻き込んだ大掛かりな仕掛けを、キョウに施す意味が無い。
そう理屈では分かっていても、あり得ない状況の洪水に襲われて、キョウに現実を否定させる。
「召喚……とか、そんな、おとぎ話……みたいな」
「信じたくないならそれでいいよ。ただ、昨日倒れる前のこと、覚えてないのかい? 何があったか。何を見たのか。君、本当に思い出せてないの?」
「……なに、って」
思わずノルトをにらみつけるが、返ってきたのは凪いだ色だった。
じっと、こちらの様子を観察しつつも案じる様が香るようで、落ち着かない。
でも、キョウはこの眼を、知っている。
驚きで見開いていた目、不思議そうに瞬いていた目、他にも――他にも。
闇夜の中、焔の照らす中、それらはあった。その中に、そうだこの色が、確かに。
「……思い出した、みたいだね」
徐々に目を見開いてノルトを凝視するしかなくなったキョウに、ため息が寄越される。首をわずかに傾げて、少しだけ痛ましそうな目を向けられた。
「わ、たし……、なんで、だって、昨日は、帰って、トロを、光が……、あれは」
頭を抱えたキョウの脳裏に、昨晩起きたことが、見えたものが、ぐちゃぐちゃにに浮かんでくる。
そうだ、黒い塊と思ったあれは人間のシルエットだった。
板張りの大きい台みたいなところで、四隅に灯があって、キョウから少し離れた場所に、座っている三人がはっきりと照らされていて、
――ノルトは、確かにその記憶の中に、いた。
「光は、君がまきこまれたものだよ」
気付けばへたり込んでいたキョウの元に、ノルトがやってくる。手を伸ばせば互いの顔に手が届くか届かないかの位置でノルトは床に肩膝をつき、キョウに視線を合わせようとしてくるが、手で顔を覆ってそれを遮断した。
「この村で、僕達が関わった儀式。そのせいで君はここに来ている。本来は、人が召喚されることはないものだけど……」
「…………」
「ごめん。君を、僕達の世界に巻き込んでしまった」
静かに、けれど重みを持った声が耳に届く。
ノルトに視線も顔も向けぬまま、座り込んだままの姿勢で、キョウは窓枠下の白い壁に頭をつけた。
額に硬いものが当たる。
のろのろと顔から手を剥がし、拳を作って小指の部分を頭と同じく壁に当てる。
壁は温かくも冷たくもなく、ざらりとした手触りを伝えてきた。
光を感じる。
音が聞こえる。
床を踏んだ堅さも、布が触れた柔らかさも、かすかに香る匂いだってあるし、噛み締め過ぎて切れた唇からは血の味がする。
明確に、五感を刺激するものがキョウのいる空間にはある。
立ち上がった時点で、いや、横になっていた時から感じていたのに、そんなのは当たり前過ぎてわざわざ意識していなかった。
「……僕達の世界って……召喚って」
両の拳を壁から離し、押しのけたい気持ちのままもう一度つける。叩きつけなかったのが不思議であった。
「――なに、ここ……異世界とかいうやつ?」
引きつった口元から壁に向かって吐き出した言葉は、そのまま床に落ちて消える。
理解らないといけない。
これは夢なんかじゃないと、胸の奥で何かが騒いでいた。