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空には二つの月があった。
視線の先、大きく輝く白と、光を放つ黒くまるいものが重なっている。
空なんて見上げていないはずなのに、そんなものが目に入るのは、つい先ほどくぐってきた山門も、慣れ親しんだ大きな楠の影も形もなく、ただ目の前にひらけた場があるからだった。
(なにが)
二つの月あかりの下で、炎の塊が四方にゆらめいている。
そして、突如周囲が光に包まれたかのようにきらきらと輝きだした。
(なん、で……?)
空気のあたたかさにぞわりと背が震え、浅い呼吸をした反動で悲鳴じみた音がくちびるの端からこぼれた。
眼前に、ぞわぞわとうごめく影がある。自身に近い位置にある三つの影は、炎で照らされた形から人と分かる。そしてその奥の低い位置に、周囲の闇とはちがう黒さを備えたものが、不規則に動いていた。
混乱が身体を駆ける。
「……あ、ぁ」
ひくひくと痙攣し始めた喉は、まともに空気を振るわせられないでいた。
いつのまにか座り込んでいた姿勢のまま、尻で後ろにいざる。途端、がしゃんと金属同士が擦れ、自分で立てた音に途端肩が跳ねた。正面を見据えたままの視界の隅に、倒れた自転車の車輪が入り込む。
「っ……あ、ぃ」
言葉は意味を成さず、ただ音として落ち、溶けた。
(なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ)
視線の先、数歩程度しか離れていなかった三つの影は人型を成していたことに気付く。そのうちのひとつが、立ち上がると同時に近づいて来た。
こちらにやってくるモノの面が分からない。判別できて当たり前の距離で、迫るものに視線を合わせたはずなのに。
時間にすれば数秒足らずのこと。だが、その時間が永遠のものに思えてしまう。
(やだやだやだやだ)
その長い時間の中ですら、ただ人の形をしたものが近づいてきてしまう、そうとしか思いつかなかった。
だというのに、なぜだかやってくるモノが、黒い塊から変化して妙に色づいて見える。薄緑色の綺麗な色をもやのようなものを纏ったものが、やってくる。
意味が判らないモノが近づいてくるという認識はそこにあり、途端にひきつれた声が続けて漏れると、ふいにやわらかな風に身体全体が包まれ、何かに無理やり引きずり落とされるように意識がかすんでいく。
(こわいよ)
包み込んでくるものは、その性急さとは全く違って穏やかな優しさを備えていて、そのちぐはぐさに胸の内が妙にざわついた。
――まるでぐずる幼子をなだめるように、やわらかな気配が身体に巻きつく。
けれどだからこそ、これは違うと、おかしいと、はっきり思えた。
これほどのあたたかな気配を、こんなわけの分からない状況で感じてしまうなんて、ありえないのだ。
得体の知れない状況に包囲され、薄れる意識の中であっても警鐘が頭の中を這いずり回る。
「……ぉじい、ちゃ……おばぁちゃ……」
――そして、市之瀬 響は自分がかろうじて縋れる相手を呼びながら、気を失った。