第22話「帰還」:A4
静かに授業を受け終わった伊奈は、人の出入りがまばらになった頃を見計らって荷物を纏め、下足場へと向かっていた。
噂ばかりが独り歩きしており顔まで知れ渡っているわけではないが、分かるものが見れば伊奈だとすぐにわかる。
その時、互いに不快感を露わにせずにいられるとは微塵も思っていない。
余分に警戒心を散らしながら校舎を歩き、ようやく下足場までたどり着いた伊奈を待っていたのは。
一応の、クラスメイト。
それも伊奈を迫害する人物として、筆頭とまではいないまでも印象の強い男子生徒を含む数人だった。
幸いだったのは、見えたのが彼らの背中だけだったということ。
しかし、想定外の事態が伊奈を襲った。
『死ねばいいのに、あいつ』
「――ッ!?」
はっきりと、声が聞こえた。
その感覚には覚えがあった。
エイグの通信でもそうだったが、不意にイナ本人に授けられたテレパシーのような能力。
音のない声が、聞こえてくるというもの。
(なんなんだよ、これ……ッ!!)
結局、これについては詳細がわからないままだった。
ゆえにこのように、不意を打つように攻撃を受けてしまうのだが。
心臓を締め付けられるような緊張を誤魔化すため、不自然ながら来た道を戻る。
そして彼らの影が小さくなった頃を見計らって、ようやく安堵のため息を漏らす。
(……これが戦争で暴れてたロボットのパイロット?)
我ながら冗談になっていないと思う。
自身が英雄などを名乗るのが烏滸がましいというのは共通認識だが、それでもあちらの世界でのイナと比べると、あまりにも情けない。
(けど、立場が全然違うんだ)
あちら側でのイナには、しがらみがない。
何者でもなかったからこそ、彼には自由があった。
自由を得たことによる苦労もないわけではなかったが、それでも今の自分と比べれば、活き活きとしていた。
しかし、それはつまり。
いまの自分は全くと言っていいほど活力が無いことを、自分で認めることに他ならない。
だがやはり、認めたとて彼にはどうにもできない。
そのとき、ふと思い出される言葉があった。
――イナくんは戦いたがっているようにも見えるの。
イナがPLACEに保護されて間もない頃の、シエラの言葉。
過ぎた力を持ってしまったからと言って、必要以上に闘争心に溢れていたわけでもないし、戦いに快楽を見出し狂っていたわけでもない。
少々過信して自身を顧みない場面も見受けられたが、誤差の範囲だ。
急な転換と言えど平穏な生活を取り戻した伊奈には、やはり彼女の意図は読めないでいた。
そういえば、と伊奈は思い出す。
彼女との会話は制圧作戦途中の、暴走したチカにまつわる中での会話が最後だが。
正確に言えば彼女とは、しこりが残ったまま別れてしまっている。
(……アヴィナもそうだ)
彼女も失っていた記憶を取り戻した後、どうなったのかわからない。
思えば彼女が親しげに接している人物は、ミュウくらいしか思い当たらない。
少々思い上がって見れば、イナもそれに含まれるだろうが。
あちらの世界でイナがいまどのように存在し影響を及ぼしているのかは不明だが、そこにいないのだとすれば。
(寂しいんじゃ、ないか)
あの時垣間見た彼女の想いは、孤独感だった。
レイアとの関係は詳しくないが、あくまで同僚のようなものと思っているのなら。
等身大で接することができる人物は、いま彼女の傍にいないのではないか。
下足場で靴を履き替えながら、伊奈はあちらの世界のことばかり考えていた。
いくら気持ちをこちら側に切り替えようとしても、あちら側に残してきたものが気になってしまう。
過ごした時間がわずかでも、印象が強いばかりに。
――やっぱり、あっちで過ごしたいんじゃないのか?
追い打ちをかけるように、内なる自分が声を響かせる。
しかしそれも、叶わぬものだとわかっている。
転移は、行きも帰りも同じく原因が不明なものだ。
望んでも戻れない。
(……もう何度、同じことを考えてる)
帰りたい。無理だ、諦めよう。
でも、帰りたい。やはり無理だ。
優柔不断とは少し違う、堂々巡りで時間の無駄。
それができるだけ、自分を見つめ直すことができたということなのだが。
(楽な方に逃げて、何が悪い)
悪いことばかりでもない。問題は、逃げられる確証もないところに逃げようとしていることにある。
それは時として、単なる逃避にとどまらない被害を及ぼす可能性がある。
(……でも、こんな力、いつまでも隠せない)
ヒュレプレイヤー、AGアーマー。
何の拍子に発出してしまうかわかったものではない。
伊奈の瞳と同じだ。
不意にその異常性を周囲に知らしめた時、それだけで伊奈は化け物のような扱いを受けてきた。
一応は人の形を取っているからまだしも――自然に反するような現象や変身までしてしまえば、もはやそれを自分と同じヒトと呼ぶ者はいないだろう。
(そうなったとき……)
チカは、どうにかなるかもしれない。
しかしそれ以外の全てに迷惑がかかる。
学校のことは最悪どうでもいいとしても、両親には。
今日この日まで育てられた恩がある。
伊奈があまり好きでないにしても、仮にも毒親というには程遠い人物だということくらいは分かっている。
ただでさえ親不孝な態度を取っているのに、これ以上の実害が出るような事態になれば。
考えるだけで嫌になる。
(隠し通せるほど、自分のことを把握できてるわけでもない)
シャウティアが何も隠し事をしていなければ、今も交信が取れるのであれば、その不安も緩和されるだろう。
しかしそうではない。
(……家出)
架空か遠いどこかでの中の出来事でしかなかった言葉が、不意に思い浮かぶ。
行方不明になることも不可能ではないだろう。
周囲にも、本当に化け物だったのだということで納得されるに違いない。
両親にも、きっと。
もはや、歩けているのが奇跡なほどの動揺ぶり。
ようやくたどり着いた自宅の玄関前に立ったところで、伊奈は下を向いていた視線をわずかに上に向ける。
誰かの足が見えたのだ。
配達員やセールスマンの類には見えない。
母の知り合いだろうかと思っていた彼は、その正体に目を見開いた。
「……チカ……!?」
見まがうはずもないその姿。
制服姿の彼女は伊奈を見ると、悲しげな表情をしながら彼に駆け寄り、何も言わずに抱き着いた。
突然の感触に、彼はそれまでの悩みが吹き飛んで状況の把握に意識をとられる。
「休んで」
今にも泣きそうな声で、チカはそう言った。
「『昨日』まで戦ってたのに、どうしてまた学校に行ったの」
「いや……だって」
「だって、じゃない」
語勢とともに抱き締める力が強くなる。
そうそうこのような機会はないが、彼女の華奢な見た目からは想像できないほど強い。
「私はイナの好きにさせたいと思ってたけど、こんなに壊れそうでも何もしないのはもう、嫌」
不意に、未知の感覚が胸を打つ。
緊張による鼓動とは違う。疼く、とはこういうことか。
ちょうど、あのとき彼女と胸を刺し合った辺りの傷が。
その時を彷彿とさせる――とはいかず、むしろ暖かさのようなものが感じられた。
傷跡から、彼女の想いが流れ込んでくるような。
「イナが周りの目を気にするのも知ってる。ワガママになり切れるほど自分に自信がないのも知ってる」
その言葉で、伊奈は再認識させられた。
あちら側の世界で追い詰められた時、それでも踏み出せたのは。
シャウティアという、力があったからだ。
踏み出した時、どうにかできる無謀を企てられるだけの雑な力が。
今の伊奈には、それがない。
AGアーマーの問題ではなく、おそらくその威容にも魔力がある。
単純に自分が大きくなることへの全能感と言ったところか。
「その時にイナを引っ張るのが、私のするべきことだと思ってる。だから」
安堵に包まれていたイナの手を、彼女は徐に離した。
そして数歩後ろに下がると、唐突に光を放ち始める。
何事かと思ったのは一瞬。それは、AGアーマーを装着するプロセスだった。
振り返ってみれば、彼女もあちらの世界でエイグに乗っていたのだ。
つまりそれは、彼女があちら側のチカと同一人物であることを示す光であり。
「少しだけ……許して」
同時に――イナが瀕死になる切っ掛けを作った、忌まわしいエイグの姿を再び見せることを宣言するものであった。
「……ッ!!?」
走馬灯のようにフラッシュバックする記憶。
痛み、恐怖、狂気。
しかし既に彼女は毒気が抜かれたのだという事実が、余計に彼を困惑させる。
混乱はやがて神経を蝕み、感覚を濁らせ、まともな運動を阻害し。
ただでさえパンクしている彼の脳を、さらに圧力をかけることで強制的に止めようとする。
何が起きたのか全く分からないまま、イナの意識は薄れていく。
最後に見えたのは、申し訳なさそうなチカの顔だった。
次に目が覚めた彼を待っていたのは、日を跨いだ自室のベッドの上だった。




