第20話「立ち止まる少年、駆け出す少年」:A3
イアル・リヴァイツォは格納庫を飛び出し、悠里千佳の眠る部屋へと駆け戻る。
扉を開けた瞬間に幽霊が出てくるのではないか、という子供じみた不安に似た感情を抱いていたが、杞憂だった。
それだけならまだよかった。
チカが赤黒い靄を纏いながらそこに立ってさえいなければ。
「な……」
先ほどまでとはまた違う怪異に、イアルは言葉を失う。
その靄は彼女の体のどこかからか発せられ、彼女の周囲どころか部屋の中を満たそうとせんばかりに溢れている。
悪い夢ならばどれほど良いことか。
しかし肌で感じる空気感は、未知のものでありながら非現実的とは形容できないものだった。
本能的に手で直接触れるべきではないと悟り、イアルは愛機に頭の中で呼びかけ、鎧の展開を命じる。
次の瞬間にイアルは、部屋を圧迫せん限りの銃火器と装甲の塊になっていた。
安全が保障されたわけではないが、鋼鉄に覆われた手を伸ばし、イアルはゆっくりとチカの方へと歩み寄る。
先ほどからも思っていたが、彼女はどうにも自分の意思で動いている感じがしない。
というよりは、無意識に動いているような、といった表現の方が正しいだろうか。
そんなチカはイアルに向かって何かをする素振りはなかったため、すんでの所まで彼女の接近を許す。
(……掴む!)
妙な緊張の中で確実に目標を達成するため、念じながら手に力を入れる。
手首を握り、手元に引き寄せるだけ。
わかっている。
わかっているはずなのに――
(……なぜ……?)
彼女の手は、どうしても掴むことができなかった。試しに手を引っ込めてからもう一度掴もうとする。しかし結果は同じだった。
まるで、イアル自身がチカに触れることを拒んでいるように。
チカの方が拒むのなら、掴まれる前に避けるか、掴まれても振りほどこうとすることでその意思の表示ができるはずだ。
なのに、そもそもイアルの方が掴めないのはおかしい。
「ク……ッ! ッ!」
何度も力を込めて手を伸ばす。それでも結果は変わらず、神経が磨り減るばかり。
すぐそこにいて、動きもしないのに、触れることすら叶わない。
その間に、チカが徐に歩き出す。何かに呼ばれたように。部屋の外に向かおうとしているようだが、だとすれば考えられる行先は一つだ。
(ファイド・クラウドは、人も操るのか……?)
真偽は分からないものの、その可能性は十分にある。だからといって、イアルが諦める理由にはならない。
(こうなったら……!)
意を決して、イアルが肩に備える砲門を稼働させる。
狙いはチカではなく、その部屋の出入口付近の天井。掴むことができなくとも、進路をふさげば通れない筈――そう踏んで、彼女は爆音とともに砲弾を打ち出す。
それは施設を容易く破壊し、瓦礫となってチカの進路をうまく妨害する。
綺麗に出入り口を塞ぐことはできなかったものの、寝ぼけているような様子の彼女が簡単に突破できるほどではない。
一安心し、改めて策を練ろうとしたところ。
イアルの目に、更なる衝撃的な光景が飛び込んできた。
「そん……な」
チカはそこには最初から何もなかったかのように瓦礫の障壁を消滅させながら突破していたのだ。
シャウティアや、ルーフェンがそうしていたように。
「ク……ッ!」
最後の悪あがきにと飛びつくようにチカの手を取ろうとするイアル。
しかしその手は、やはり直前で言うことを聞かなくなってしまう。
「どうして……どうして……ッ!」
苦悶の表情を浮かべながら、イアルは歯噛みして無理やり感情を割り切る。
この少女は、自分には救えないと。
あきらめて力を抜いたイアルは、ゆらめくように格納庫へと向かうチカの背を見送ることしかできなかった。
(……アンジュ、来なさい)
命令に応えた愛機が、通路を破壊して彼女の下に現れた。
■ ■
「ボウズ!」
「おっと」
シオンに駆け寄ろうとしたゼライドに、ファイドが手をかざす。
ただそれだけの動作だったが、ゼライドはそこから何かが出るのではないかという懸念で身動きが取れなくなっていた。
「スレイド君をテロ組織に連れていくのかね? 戦うべきでない少年を戦いに明け暮れる集団の中に置く……それこそ、君の嫌う行為そのものではないのかね」
「どの口が言いやがる……!」
だが、懸念があるのは事実だった。
実際に戦いに駆り出されることがないとしても、PLACEでシオンの居場所を確保できる保証はないだろう。
だからといって、ここでファイドにシオンを引き渡していい筈がない。
「君の行動や信念は、それもひとつの正義だろう。しかし圧倒的な力を前にしたとき、それは達成不可能な自己満足の偽善となる」
彼の言う通り、ゼライドは今すぐにファイドからシオンを奪取する手段を持ち合わせておらず、彼を戦いに巻き込むべきでないという考えに矛盾する選択肢を選ぶ方が合理的と言える。
おまけに冷静とは言えない心理状態で、隙を作ることすらままならない。
「別にそこで隙を伺い続けても構わんよ。止めることなどできはしないのだから」
万が一、ということもある。機を待つのも一つの選択だ。
だが、いつ動き出すか分からないルーフェンを止めるには、いち早くシャウティア――イナにそのことを知らせる必要がある。
少なくともゼライドには止められなかったのだから、策を講じていても仕方ない。
それでも、シャウティアを超える力を自称されている以上は、シャウティアでも止められる見込みは低いのだが。
「……クッ!」
ゼライドは握りしめた拳で自分の顔を思い切り殴り、ヴェルデの方へと駆けていく。
手を差し出した愛機に飛び乗り搭乗した彼は、グレネードを実体化して放り投げ、天井を爆破する。
案外と容易に開いた穴をこじ開け、ゼライドは格納庫を脱出した。
それから地上に向けて施設を破壊しながら突き進む中、ゼライドは拭えない罪悪感に苛まれていた。
彼はシオンが子供であったからというだけで、ここまで心を痛めていたわけではない。
救えなかったという思いが、彼の忌まわしい記憶を刺激してくるのだ。
彼はシオンに、せめて無事であってほしいと祈る。
そして飛び出した地上は、曇天の灰色に包まれていた。
ほどなくして、重装備型エイグのアンジュに登場したイアルが爆炎とともに地上に出てくる。
「イアル、嬢ちゃんは!」
「……なぜか、触れることができず。申し訳ありません……」
嘘を言っているとは思えない。
おそらくはファイドが何か細工したのだろう。
最悪チカだけでも保護しておきたかったが、それも叶わなかったとなるといよいよ事態は望ましくない方へ進んでいる。
「……仕方ねえ、さっきの所に向いながらボウズに呼びかける。あいつでも止められないとすりゃそん時は……――!?」
今後の方針を手短に話していたところ、脳内のレーダーがエイグの稼働を検知した。
それも一機や二機ではなく、十……いや、二十はあった。
中には、ルーフェンの反応もある。
「あのジジイ、あんなこと言っといてこれかよ……!」
見逃すと断言はしていなかったとはいえ、悪質だ。
しかし悪態をついたところで状況は好転しない。
「交戦は最小限だ! いいな!」
イアルが小さく頷く。
焦燥感を駆り立てられる中、ゼライドは今にも崩れそうな正気を保つので精一杯だった。
駆けだした二人の背を、多数の足音が追いかける――。




