第2話「居場所、無き者」:A1
ピ。
短い電子音らしきものが、イナの鼓膜を揺らした。
意識もそれに合わせて現実に引き戻されていく。
まぶたを徐に開き、おぼろげに映る世界に少しずつ焦点があっていく。
が、視線の先にあったのは見知らぬ灰色の天井。
病室という風でもなく、かと言って民家の一室という様子でもない。
床や壁の材質もコンクリートや木ではなく、金属的な印象を受ける。
どうにも無機質で非日常的、むしろSF作品で描写されるような雰囲気だ。
イナはゆっくりと上体を起こすと、ここが六畳間ほどの個室であることが分かった。
設備は彼の寝ていたベッドと、コンピュータらしき装置の備えられたデスク。
壁の中にある映写機から映し出されているのであろう、立体映像のデジタル時計は8月23日、23時45分を示している。
いつから寝ていたかは定かではないが、あまり長時間寝た気はしない。同日と考えておこう。
加えて、そのそばには、壁に設置された小型の棚。
あとは、出口とは別にある扉。おそらく風呂と便所が同居しているのだろう。
それはひとまず置いておくとして――なぜ自分がここにいるのか、そもそもここはどこなのか。問おうにも、そばには誰もいない。
そもそも、先ほどまで自分が何をしていたのかを、イナは正確に覚えていない。
むろん寝ぼけているのが原因なので、彼は眠気を振り払いながらなんとか記憶を探っていった。
誕生日の夜に外を出歩いていたら、いつの間にか知らない場所にいたこと。
エイグという人型の巨大兵器に襲われ、どこからともなく現れたシャウティアというエイグに守られたこと。
そしてそれに乗り込み、しかし戦えずに国連軍を名乗るエイグに救われたこと。
彼の記憶は、その時点から今に至るまでプツリと途切れている。
夢か、とイナは思う。
自分の身に起きたことは、あまりにも突飛が過ぎているからだ。
あまりにも自分の知る現実とはかけ離れており、まるで架空の世界に誘われてしまったかのよう。
ならば、夢と考えてしまうことは仕方がないと言える。
だが、心の奥底から何者かが囁く。
――あの絶叫が嘘だと思うか?
「ッ!」
イナの目が、脳裏に蘇った記憶に釘付けにされ見開かれる。
同時に、鼓膜にこびりつくように残る振動が、彼の全身に当時の感覚を想起させた。
腕を断たれた者が、痛みを訴える為に放った叫び。
そして自分がその原因となってしまったこと。
他人を必要以上に傷つけてしまったこと。
それによって刻まれた恐怖を。
ゆえに、夢で片づけることは難しかった。
身体のあちこちに、確かな実感が残っている。
それらを無理やり抑圧し押し潰すように、イナは右手を強く握り込んだ。
加えて、胸に溜まる不純物を吐き出すイメージで、鼻から大きく吸い込んだ息を口から眺めに吐き出す。
いつも彼がやっている、その場しのぎの対処法だ。実際は何の解決にもなっていないことがほとんどだが。
――てことは、やっぱりここは国連軍の基地か何かか……?
訝しみながらベッドから立ち上がると、唐突に机のコンピュータの電源が付いた。
怪現象のようなそれを目の当たりにし思わず退いてしまうが、ディスプレイには何者かから通話を求める表示があった。
アルファベットの文字列を滑らかに読む事はできなかったが、傍にあるカナ文字いわく名は「ゼライド・ゼファン」というらしい。
机に近づくがマウスの類が見つからず、彼は直感に任せて恐る恐る画面上の応答ボタンに指で触れた。
すると画面がビデオ通話に切り替わる。どうやらタッチパネルを搭載したディスプレイのようだ。
画面の向こうにいる相手はオールバックの金髪に青い目をした、見るからに日本人ではない男だった。
見た目だけで判断するなら、30代を間近に控えているか、あるいは既にわずか過ぎたといったくらいの齢だろう。
加えて身にまとっているのは制服のような整った雰囲気。
国連軍の兵士ということか。
彼は笑みこそ浮かべていたが、何を考えているのかはイナにはさっぱりわからなかった。
ただ、その表情はイナに尋常ではない緊張感を与えているのは確かだった。
おそらく、できる男だ。
イナを襲ったエイグを撃退したのも、この男だろうか?
『よう、ボウズ』
男は気さくに手を振るが、イナは混乱の波に呑まれているため全く反応を返せない。
――日本語?
返答がなく一瞬きょとんとした顔になる男だが、すぐにイナの心情を察したらしく鼻を鳴らした。
『まあ、その反応で仕方ないわな。突然でワケがわからんと思うが、ボウズ。とりあえず落ち着いて、そこに座ってくれ』
「は、はあ」
――やっぱり日本語だ。英語で話されるよりはマシだけど……
イナは相手の顔色を窺うように上目を遣い、身を低くしながら椅子に腰かけた。
その間もゼライドの視線がイナから離れることはない。
『とりあえず自己紹介からだな。俺の名前はゼライド・ゼファン。国連軍でエイグっつうのに乗ってる。階級はまあ、大尉だ』
「あ、えっと。俺は、瑞月伊奈って言います」
『んー……イナが名前で合ってるか?』
ゼライドと名乗った男は、何も躊躇することなく――それで当然だが――聞いてくる。
彼にとってはただの確認でしかないのだろうが、イナはこれまでの経験から、反射的に悪意があるように思えてしまった。
「女のよう」だの、「どっちも名前で名字がないみたい」だの、これまでに自分の名前について少しでも掘り下げよとする者にろくな者がいなかったからだ。
だが初対面の人間である手前、警戒心をむき出しにするわけにもいかず。
「イナが名前です。ミヅキは名字で」
『なるほど、てことは日本人だな? ……ふむ』
「目、ですか?」
ゼライドが実際に見ていたかはともかく、イナの思考は自動的にそこへ行きつく。
日本人らしくないと思っているに違いない、と。
するとゼライドは、『いや』と特に悪びれるでもなく自分の思いを口にし始めた。
『ちっと珍しかったもんでな。そんなはっきりした色のコンタクトなんざ、滅多に見ねえし……ああ、気を悪くしたなら謝る』
「……いえ」
どうやらゼライドは、イナの虹彩の薄緑色が生来のものとは思っていないらしい。
それはそれでイナを複雑な気分にさせたが、これ以上この話を続けると自分の精神衛生的にもよくないだろうと、彼は黙った。
そしてこれ以上は、イナが自分から話さないと悟ったのか。
僅かな間隙の後、ゼライドが話題転換の合図とするように『まあ』と口を開いた。
『自己紹介はこんなもんでいいだろ。この通話の目的はお前と話をすることにあるからな。――さて早速だが、何か質問でもあるか?』
「じゃあ、えっと……ここってどこなんですか?」
イナはぱっと思いついた疑問を、ゼライドに馬鹿にされないだろうかと思いながらおずおずと口にする。
が、彼の不安は杞憂に終わる。
ゼライドは昨日の天気でも思い出すように視線を大きくそらし、そして答えた。
『今はドイツの右端くらいだったか』
「えっと……それもそうなんですけど、そうではなくて」
『あ、ココ? ココは戦艦型エイグ壱号《エキドナ》の中さ』
「は、はぁ」
短いながらに濃度の高い情報をさらっと伝えられ、イナの脳は簡単にパンクした。
結果、理解しているとはとても思えない生返事が出てしまった。
エイグ、とは人型を指すものだけではないらしい。
加えて壱号と呼称していることからして、弐号、あるいは参号以降も存在すると考えていいだろう。
などと考察していると、ゼライドの視線が観察するようなものに変わっていることに気づく。
『……なあボウズ、別に怒ったりしねえから素直に答えてみな。お前、この世界のことを知らねえな?』
肯定を想定された問いなのだろうが、イナは明瞭に、即座に答えることはできなかった。
「……多分、知りません」
けど、と彼は続ける。
「なんて言えばいいのか、よくわかりません。俺の日常にエイグなんてロボットはありませんし。――でも、いま日本とかドイツとかって言ってましたし、ここは地球なんですよね?」
『そうだな。だがその口ぶりじゃあ、こことは別の地球から来たみたいだ』
別の地球。
イナに実感はやはり湧いてこないが、今はその表現に、妙にしっくりときていた。
「……実際、そうなのかも知れません」
『まあ、記憶喪失という可能性もあるかも知れん。その辺も軽く話していこうじゃねえか』
「……お願いします」
ゼライドは悪い人間ではなさそうだが、さすがにイナは顔を合わせて間もない者に対し即座に心を開けるような精神を持ち合わせていない。
彼は警戒心をなんとか保ちながら、ゼライドの話を聞くことにした。
『まずは、そうだな。今は西暦2032年。3年前の《ドロップ・スターズ》は知ってるか?』
「いえ」イナは呟くように、短く答える。
『俺たちの乗ってるエイグが入った、小っせえ隕石が山ほど降ってきたのさ。さすがに、そう易々と忘れられるようなモンじゃねえと思うが……ほれ、どうだ?』
ゼライドが手元で何かを操作すると、イナのディスプレイにいくつかの画像データが表示される。
無数の赤い点――おそらく落下地点だろう――が描かれた世界地図に、小隕石の落下跡と思しき世界中の被災地の写真。
そして隕石の中に埋まるように存在している、着色されていない灰色のエイグが映された写真。
いずれもイナの常識から大きく離れた衝撃的なもので、一度見れば忘れられそうもない。
「……いえ」
だがやはり、イナに覚えはない。
何より西暦2032年といえば、西暦2043年を生きていたイナにとって過去だ。
加えて彼の記憶が正しければ、今までの人生で地球に隕石が落ちたという話は聞いたことがない。
話を聞くに、情報操作などで隠し通せるような規模の災害でもないだろう。
やはり、ここは異なる歴史を辿っている別の地球である可能性が高いようだ。
ただ依然として、実感のないイナにとっては荒唐無稽な話でしかない。
そんなイナの反応が意外だったのか、ゼライドは顎に手を当ててふむと唸った。
『まあそれで、隕石の中のエイグが人間に扱えると分かったもんだから、とりあえずそれで復興をしようと思ったわけだ。ところが、今から2年前……くらいか。それを邪魔する連中が出てきた』
エイグを兵器として使う――イナは先にそちらの手段を目の当たりにしたがゆえに理解は早かったが、当初はそのように使う予定ではなかったのだろう。
あるいは予定があったとしても、何かしらの理由から先送りされていたとも考えられる。
ともかく、先手を打たれてしまったらしい。
『PLACEって名乗ってるんだがな。何らかの手段でエイグを奪って国連軍の邪魔をし始めたり、国を占拠してあちこちで好き放題暴れてんだ。そんなこんなで今、世界各地で戦争中ってわけだ』
戦争――イナは今まで、それは大昔に起きた出来事、あるいは架空の世界の話だとばかり思っていた。
しかしゼライドの口から語られた同じ単語は、不思議な重みと現実感を帯びているように感じられていた。
「……PLACEの目的は?」
『さてな。国連の解体がどうのこうのと言ってるが』
つまり、国連軍にあだなすテロ組織ということだろう。
となれば、イナの中には自然に次の疑問が浮かぶ。
「……占領された国の人は?」
『あくまで噂だが、抑えているのは脳だけ――つまり政府とかその辺だな。そこに協力することを条件に、国民に手は出しちゃいないらしい。まあ日本の自衛隊とかほとんど動いてないらしいし、本当だろうな』
「協力って、具体的には」
『さあ、俺はPLACEの中身まではそう知らんから何とも言えん。それに国によって事情も違うだろうしな』
イナはふむ、と唸る。
目的ははっきりしている一方で、組織構造は単純ではないらしい。
『さて』と、粗方を話し終わったらしいゼライドが話題を切り替える。
『この世界のことと言えば大体こんなところだが、なんか思い出したようなこととかあるか? それとも……』
「……いえ、何も知りません。多分、覚えていないんじゃなくて、知らないんだと思います」
ドロップ・スターズのことも、エイグのことも、今起こっているという戦争のことも。
エイグ以外は実際に目の当たりにしていないというのもあるだろうが、如何せん実感がわかず――そう、やはり現実に起きているという受容ができないのである。
ただ現状――過程は不明だが――イナが知るものと似て非なる地球にやってきたことは認めざるを得ない。
申し訳なさそうに俯くイナに、ゼライドは『なるほどなあ』と怒るでもない言葉を返す。
『まあ、俺の言葉が信じられなくても、ドロップ・スターズの被害位ならいつでも見せてやるよ』
「……はあ、はい」
それがありがたいことなのかどうなのかもわからず、イナは曖昧な返事をする。
『あとは、そうだな――あ、《ヒュレプレイヤー》ってヤツに聞き覚えは?』
「いえ、無いですが」
『そうかぁ』
――プレイヤー……ゲームの話か?
ゼライドの意図するところが分からず、イナは眉間に皺を寄せる。
ゆえにそれについて掘り下げようと思った時には、ゼライドは既に話を切り上げようとしていた。
『まあ、知らねえならいいのさ。それで、本当に大事なのはこれからなんだが』
「な、なんですか?」
先ほどまでの気軽そうな表情に、僅かに真剣さが増したように見える。
ゼライドは画面越しのイナに顔を近づけ、その口の端をわずかに吊り上げた。
『ボウズ。お前のエイグ――復興に役立てる気はないか』