第1話「逃避、あるいは後悔の強制」:A4
雲一つない七夕の夜。
高い湿度を宥める様に落ち着いた涼風が穏やかに吹いている。
イナは街灯に照らされた人気のない歩道を、あてもなく歩いていた。
この狭苦しい片田舎で、自分の居場所を探すように。
――なんでチカを好きになったんだっけ。
ふとした自問に、答えるものはない。
自身にそんな疑問を抱いてしまうのは、先ほどのチカの豹変が原因だ。
見間違いという結論を出したものの、彼の体は確かに覚えていた。
短絡的な彼の思考はそれを、彼女は自分に好意がないと解釈した。
否、本音も同様というわけではない。依然としてイナはチカへの好意を捨ててはいなかった――捨てられなかった、とも言えるが。
――どうせ、したいだけなんだろうけど。
チカの妄想にふけっていた己を嘲り、イナは微笑した。
彼女の肢体は、年頃の異性には垂涎必至のものだろう。そのため、彼女を貪りたいという欲を、好意で覆い隠しているというのは、イナ自身にも否定できなかった。
加えて、イナの見てきた数多くの架空の中で、主人公とその幼馴染が結ばれるという展開は少なくなかった。
ゆえに、自分はただそれに憧れているだけではないのか。
それがイナの本音の一部であり、一歩を踏み出せない原因の一つでもあった。
――いっそ、死んでしまえば楽になれるのにな。
などと極端なことを思いながらも未だに実行していないのは、単純な恐怖のみならず、やはりチカへの好意に起因している。
もしかしたら、自分が死んだら彼女が悲しんでしまうのではないか、と。
それも、さっさと振られてしまえば踏ん切りがつくはずなのに、言い出せないでいるために今なお彼女に縋るようにして生きている。
結局、死ぬのが怖いのだ。チカから離れたとして、死ぬのは自分だ。
痛いだろう。苦しいだろう。死んだ後はどこに行くのだろう?
考えるだけで、彼の体は震えるのだ。
しかし一方で彼は死んだ後の、周囲の人間――特に自分を不当に扱っていた者――の反応には興味があった。
公立の学校らしく、いじめに気付かなかったことにして、適当な常套句を並べて終わるだけだろうか。
せめて自分に手を出していた奴の絶望する顔でも見られればと思ったが、本気で人間を化け物扱いしている者が悲しんだり後悔したりするとは思えなかった。
遺書みたいなものに「呪ってやる」とでも書けばいいだろうか。
そうすれば、彼らはイナの望む通りの表情をしてくれるかもしれない。
想像するだけでも、彼の口元は笑みに歪んでいた。
そんな、少しばかり狂った考えを抱くようになっていても、やはり死への恐怖を拭うことはできない。
矛盾と不明瞭さばかりを抱える自分を、イナはこの上ないほど情けなく思っていた。
自分や現状を変えることができず、変えようともせず、周囲は変えさせてもくれない。
――きっと、生まれる世界を間違えたんだな。
自分が人間でなければ。
あるいは、この世界に生まれなければ。
こんなにも苦しむことはなかったのかもしれない。
イナがふと道沿いの家屋に目を向けると、細い笹を立てて短冊を飾っているのが見えた。
『家族が健康でいられますように』
『古里の平和』
『志望校合格!』
……などと、不特定多数に向けた願いから、自身や周囲への幸福の願いが書かれた色とりどりの短冊が吊るされている。
今日は七夕。
どうせ叶わないのだから、願ったとしても誰にも迷惑は掛からないだろう。
しかし、願うとしたら何を?
いまの彼には、親しいと思っていたチカすら遠い存在に思える。
かと言って、今すぐ車道に身を投げて死にたいとは、心の底から思うことはできない。
恐怖などの感情以前に、特に関係のない他者に迷惑が掛かってしまうからだ。
ならば――彼の願いは一つだけ。
「……もしも、ここじゃない《どこか》で生きられたなら」
なんて、そう簡単に叶えば苦労はしない――自分を鼻で笑い、イナは夜空を仰いだ。
所詮、神などいない。
願いを叶えるのは常に人間だ。
彼の意見を後押しするかのように、背後から暴力的なまでの風が吹いた。
舞い上がった塵が入り思わず目を閉じてしまい、風に抗えず一歩を踏み出した。
涙とともに塵を取り除くと、イナは妙な寒気とともに、先ほどまで自分と道路を淡く照らしていた街灯の光がなくなっていることに気づいた。
死を迎えたにしては、急すぎる。
慌てたように彼が上を見れば、光どころか街灯そのものがなくなっていた。
それどころか、夜空を流れる天の川も消えていた。
相変わらず夜であることは確かだが――辺りを見渡せば、彼がいるのは見飽きた街の一角などではなかった。
月の光では明瞭に認識できる範囲に限度があるものの、彼の周囲には山のようなものがあるのはおぼろげながらに把握できた。
足元も山の麓ということもあってか、彼が踏んでいるのもコンクリートの歩道ではなく、ただの砂利道になっていた。
「……どこだ、ここ……?」
唐突に見えているものが変わり、表情にも困惑が露になっている。
時間帯が夜であることは変わりないものの、単純に場所が入れ替わったことは確かなようだ。
加えて、イナの感じている寒気は精神的なものではなく、物理的なものを由来としているようだ。ふっと吹いたそよ風でさえ、彼の体温にその相違を訴えている。
冬ほどではないものの、夏にしては些か肌寒い。
何が起きたのかわからないまま、イナはその場から動くことはできなかった。
どこに行けば何があるのか、わからないのだ。
闇に慣れつつある目で見ても、周囲は木々ばかりで人気がまるでない。
住居らしきものは見えたが、人が住んでいるという感じはまるでしなかった。
もはや、廃墟というに相応しい有様だ。
「まさか、本当に……?」
ここじゃない、どこか。
自分が願った通りに、イナは自分の知らない場所に来てしまったのではないかと思い至る。
現状、彼にはそれ以外に考えられなかった。夢だと片付けるにはあまりにも無理がある。
だが一方で、それを可能にする術が考えられずに納得できてはいない。
ひとまず、このまま留まっていても仕方がないとイナはその場を離れ歩き始めた。
せめて携帯を持ってきていれば内蔵ライトで足元を照らせたのだろうが、どちらにせよ残量の心許ないバッテリーでは長くはもたなかっただろう。
それに、場所が場所だけに誰かに通じるかも分からない。
「……ん?」
イナはふと、地面から伝わってくる衝撃を感じた。
ただの勘違いかと思ったが、周囲の木々も風に吹かれたようにざわめいている。
まるで、微弱な地震――かと思えば、少しずつ揺れは大きくなっていた。
寒気とともに恐怖から体が震えあがり、彼はとっさに近くの木陰に身を隠した。
――巨人? 怪物? ……まさか、俺を?
地震の根源は定かではない。ただいくら時が過ぎようとも揺れは収まるどころか大きくなる一方で、ただの自然災害とは考えにくい。
早く過ぎてくれ、消えてくれと願いながら、イナはうずくまるようにしゃがんだ。
彼は基本的に臆病であるから、情けなくともそうせざるを得なかった。
鼓動が加速して、今にもはちきれそうだ。
今経過したのが一分か、一秒か、それすらもわからなくなっていた。
極度の緊張状態が続く中、ふと揺れがぴたりと止んだ。
やはり地震だったのか、とイナはいつの間にか止まっていた呼吸を再開する。
『見 つ け た』
「――ッ!?」
不意を打つように、イナの鼓膜に人間の声らしき爆音が響いた。
恐る恐る木陰から顔を出せば、そこには赤い双眸を光らせる巨大な顔――
「う、うわぁぁッ!!」
腹の底から悲鳴を上げ、イナは慌てて近くの林の中へと逃げ出す。
木の根や石に躓いて転んだりもしたが、そんなものは今の彼にとって些事だ。
彼の心は確かに感じていたのだ。先ほどの声から感じた、渦巻くような邪悪を。
間違いなく、殺されると。
『逃げたって無駄さぁ』
まるでこの状況を楽しむかのように、何者かは機械が動くような音とともに話す。
次にはっきりと聞こえたのは、ガチャリ、という複合的な金属音。
イナにとってその音は、架空で聞き覚えがあったものだ。
ゆえに、次に何が起こるのかが容易に想像できた。
刹那、重々しい爆発が背後で起こった。
その衝撃と風にあおられてバランスを崩すが、イナは走ることを止めなかった。
今のは確実に当てられた――その確信が彼の中にはあった。
つまり、いつでも殺せる。殺される。
そうわかっていても、足を止めることはできなかった。
『ほらほら、もっと早く走らないと当たっちまうぞぉ!』
ただでさえ闇に包まれて不明瞭な視界が、恐怖で滲み出す涙でさらにゆがむ。
――俺が願ったから? どこか別のところで生きたいとか、死にたいとか、そんなことを……
自身の迂闊さを悔やみかけるが、誰がこんな事態になると予想できるものか。
一体どこに責任を訴えればいいのか、そんなことばかりを考えながら、銃弾と思しき爆発から避けていく。
無我夢中になりながら駆けていくと、彼はいつの間にか、林の外に出ていた。
視界を遮るものがなくなり、月明かりを背にしたソレの輪郭がはっきりと見えた。
巨人だった。それも、おそらく機械仕掛けの。
思わずして、イナの口から乾いた笑いが漏れる。
彼はこういったものが主として戦う架空を見てきたのだから、当然一度くらいは乗ってみたいと思ったことがある。
それが無理でもせめて、一目見るくらいしてみたいと思っていた。
だが、まさか殺されるなどとは。
――俺の願いを全部詰め込んだとでも?
それが正しいかどうかは定かではない。
確かめる術もない。
だが、憧れていた存在に消されるのも、それはそれでいいのかもしれない。
――誰かが悲しむ? どうせ俺は死ぬんだ、誰がどう思おうが知ったことか。
自身に関与するすべてを嘲るように笑み、イナは走ることをやめて機械の巨人の方を向いた。
『なぁんだ、もう終わりか?』
「ああ……もう、いい」
唇は震え、彼ははっきりと発声できていなかった。
――これで楽になれるなら、それでもいいはずだ。
ガチャリと銃を構え直し、機械の巨人はしっかりと狙いを定める。
闇夜よりも黒く奥の見えない銃口から放たれたものに、イナは今から塵ひとつなく消されてしまうのだろう。
それは今、いや以前から彼が望んでいることだ。
ゆえに、これから楽になれるのだと気分は晴れて――
「!」
脳裏にチカの顔が思い浮かんだ時には、すでに引き金が引かれていた。
炸裂する火薬に押されて打ち出される銃弾は、まっすぐイナに向けて突き進む。
「あ……」
死にたくない、と彼は思ってしまった。
死を直前に迎えた状況でだ。
今更、後悔しても遅いというのに。
刻一刻と迫る黒い鉛。
今にも彼の体を押し潰そうとした――その瞬間。
まるでそこには元からなにもなかったかのように、銃弾が跡形もなく消え去っていた。
「うわぁあッ!?」
直後立っていられないほどの暴風にあおられ、イナの体は宙を舞う。
さほど高くはないが、そのまま落ちればただでは済まない。
何度目になるかわからない命の危機。それを救ったのは、固く冷たいものだった。
砂利とは違う、金属独特の感覚にイナは目を開く。
何が起こったのかと周囲を見渡せば、そこには先ほどと似たような機械仕掛けの巨人が、イナの安否を確かめるように顔を寄せているのが見えた。
「ひッ!?」
イナは反射的に悲鳴を上げたが、その巨人の目は、彼の目と同じ薄緑色の光を発していた。
忌々しいはずのその光に、彼は今ひどく安心感を覚えていた。
「……お前が、俺を守ってくれたのか……?」
イナの問いに、巨人はゆっくりと頷いた。
『おいおいおいぃ、なんだよソレェ。野良エイグ乗りとか聞いてねえんだけどぉ?』
一方、品のない声で、赤い目の巨人は聞きなれない単語を発する。
エイグ。
それがこの世界にある機械の巨人を指す言葉なのだろう。
だとすれば、いまその手でイナを受け止めたこの巨人もまたエイグと呼ばれる存在ということだろう。
「……乗れば、いいのか」
誰かにそうだと言われたわけでもない。
薄緑色の目をしたエイグが、そう言ったわけでもない。
ただ、この状況が。
彼の中にある架空の経験が。
このエイグで戦えと、彼に囁いていた。