第1話「逃避、あるいは後悔の強制」:A3
悠里千佳とは、イナが幼稚園に通っていたときからの関係――つまり、幼馴染である。
小学校入学前に瑞月家が引っ越しをしたことにより二人は離れ離れになるものの、チカの方から住所を教えられ、二人の関係は手紙を通して続いていく。
それから時は過ぎ、小学校6年生に進級した頃に二人ともが通信端末を手に入れたことにより、音声や映像を通しての通話をするようになった。
ここまで親しい関係が続いていることは奇跡としか言いようがないが、発端は些細なものだ。
ヤンチャな園児達にいじめられていた彼女を、彼が助けただけ。
その時からイナはチカに好意を抱いており、ゆえに助けた――というわけではなかった。
ただ、その時から触れていたアニメのキャラクターの真似をしていたにすぎない。
だが彼女との交流を続ける中で、彼女への好意が芽生えていったのは確かだ。
紙袋に詰まった紙屑が、何よりもの証拠だろう。
では一方で――チカの想いはどうか?
もしかしたら彼女もイナに好意を抱いているのかもしれない。
あるいはそれは勘違いで、ただの長い付き合いの幼馴染として交流しているだけかもしれない。
実際に聞いたこともないのだから、彼女の気持ちなど分かるはずがない。
なぜなら。
イナにはそれを聞くことが、死に匹敵する不安をはらんでいる気がしていたからだ。
唯一心を許していると言える存在に拒まれたとき、自身の存在を否定せずにいられる自信がなかったからだ。
ゆえに、チカこそがイナの生きる理由だった。
もしくは死ねない理由とも言えるだろう。
見ようによっては、彼女はイナを縛る呪いなのである。
そんな彼女から携帯の通話ソフトへメッセージが届いたのは、イナが風呂から出て足早に部屋へ戻った直後だった。
居間を通り抜けるとき両親が何かを話しているのが聞こえ彼は気分を害していたが、メッセージの内容を見るなり、すぐに忘れてしまっていた。
《2043/07/07 20:47 千佳 さんのメッセージ:
今日、誕生日だよね。時間があったらちょっとだけでも話したいけど、どう?
できればビデオ通話がいいな》
イナが興奮気味にPCを立ち上げると、仮想画面が淡い光と共に出現する。
透明なガラスが宙に浮いているかのようなそれに、前回起動時に開いていた小説投稿サイトが表示される。界隈では希少とされる、人型兵器の活躍する作品を探していたところだったのだ。
自分が好きでありながら供給の少ないジャンルから名作を掘り当てようとしていたのだが、結果はといえば散々だ。更新停止しているものや酷い出来としか言いようのない作品に出会い、溜息を零していたのを思い出す。
一旦そのウィンドウを閉じてソフトを立ち上げれば、チカがオンラインであることを確認する。
「大丈夫」と短めに返信し、その返事が来るまでの間にヘッドセットを無線で接続しすぐ装着した。
些か落ち着きがないことを自覚して深呼吸し、彼は何もなかったかのような素振りでチカからの着信を待つ――というほどの時間が生まれることなく、すぐに彼女の方から通話を求める着信が届いた。
音声通話か、ビデオ通話か、通話拒否かという選択肢が現れ、イナは彼女の要求通りに2つ目を選んだ。
それから間もなくして、暗転した画面に見慣れた少女の顔が映る。
つやのある焦げ茶色の長髪、大きな青色の瞳。白い肌。画面下に若干ながらも見える、同年代のものとは思えない発育の良い胸――
と、邪な視線を向けているのがばれないようにと、慌てて彼女の顔に視線を戻す。
『んー。イナ、見える?』
「ああ、見えてるよ」
手を振りながら問う彼女に、イナは顔がにやつくのを抑えながら頷いた。
『ならよかった。お誕生日おめでとう、イナ。私よりお兄さんだね』
「ありがとう。たった半年くらいの差だけどな」
さも余裕そうに、イナは微笑で応える。
実際は飛び跳ねたり、彼女を抱きしめたりしたいほどに嬉しいのだが。
本当に実行すると嫌われるにちがいない、という根拠のない不安が彼の体を金縛る。
『プレゼントでも贈れたらよかったんだけど。ごめんね、受験終わったらちゃんと渡すから』
「いや……さすがにそこまでしなくていいよ」
無論、彼女から貰えるというのであれば断りたくないのが本心だ。
『そんなこと言って去年も、一昨年もデジタルのメッセージカードで済ませてるじゃない』
「そう言われてもな……」
『いいもんいいもん。受験終わったらイナにも沢山プレゼントしてもらうから』
「はは……頑張ってはみるよ」
彼女が喜ぶものは何だ、と脳に問いかけても、大した答えは得られない。
和食や和菓子が好きなのは知っていたが、年頃の少女が貰って嬉しいものが何なのかは分からなかった。
『そういえばさ、イナ。そのほっぺどうしたの? ちょっと赤いよ』
「……へ?」
まさか無意識に紅潮しているのがばれたかと、イナは両手で顔をぺたぺたと触る。
が、左頬に残る痛みで、何を指されているのかが分かった。
「……ああ、これか」
『また小父さまと喧嘩したんだ?』
「まぁ……」
『大変だね、誕生日にまで』
「……まあ、俺にも非はあるから。大して気にしてないよ」
『ああ、ごめんごめん。こんな雰囲気にしたかったんじゃなかったの』
「いや、気にしなくていいよ。いつものことだしな」
『むぅ』
何が不満なのか、チカは頬を膨らませてイナを優しく睨む。
理由はなんであれ、それすらも可愛く思えてしまう。
『イナって優しすぎ。学校でもそうなの?』
「……どうだろう。そうかもな」
イナはこれまで、学校でのことをチカに詳しく話したことはなかった。むろん、凄惨なことばかりが記憶に残っているからだ。
しかしそれを、誤魔化すことなく彼女に伝えたとしたら、彼女はいつもの彼女ではなくなってしまうだろう。
自分が我慢すればいいだけの話を、わざわざ他人に心配させてまで解決のための時間を割かせるのも、イナは死ぬほど嫌っていた。
ゆえに冗談を言ったつもりだった。だが――
『うそつき』
ふいに彼女の声から、温度が消えた。
同時に、イナの背筋がぞくりとした冷たいものになぞられたような感覚が走った。
チカの表情も心なしか、怒っているかのようにも見えた。
そんな顔をした彼女を見たのは、初めてだった。
ゆえに本当は見間違いではないかと瞬きした直後、彼女はいつもの柔和な表情に戻っていた。
いつの間にか止まっていた呼吸が、安堵の溜息から再開する。
『っと、ごめん。お母さんから電話かかってきちゃった。長く話せなくてごめんね』
「あ、ああ……じゃあ、切るぞ」
『うん。またね。おやすみ、イナ』
いつもは不思議な甘美さを感じるチカの「おやすみ」にも、イナは何も感じなかった。
その一言から妄想と膨らませて、持て余す感情を発散させていたこともあったというのに。
やはり、チカは自分に好意など抱いていないのではないか――安直な思考が熱を奪うように脳内を侵していく。
まさかそんなはずはないと、頭を振って無理やり払拭する。
こんな時、アニメの最新話でも見られればいいのだが、生憎と今週分は既にすべて見終わっている。
――せめて新作の情報でもあればな。
イナは彼と歳の近い若者が駆る人型兵器が活躍する作品の60周年を記念するミニポスター――運よく抽選で当てることのできた、彼の数少ない宝物である――に目を向ける。
さすがにシリーズ自体も、声優などの関係で新たな世代へ向けたものを考えなくてはならず、展開も慎重ということなのだろう。
そのおかげで、未だ彼の下にシリーズ新作の情報は来ていないわけだが。
今からまたロボット小説を探すのもいいのだが、どうにも彼は心の中にあるむしゃくしゃしたものを解消せずにはいられなかった。
それはマスターベーションでもよかったかもしれない。だが既に入浴した後だというのに、全身に汗をかいて手を汚すのは憚られた。夏ならばなおさらだ。
――散歩でもすればいいか。
そうと決まれば、イナは寝巻から暗い色の私服に着替え、靴下まで履いて準備を整える。
また連絡が来る可能性はあったものの、その時にどんな顔をすればいいのかわからないまま、イナは仮想画面を閉じて携帯端末を手に取った。
バッテリー残量は14%。充電を忘れていたせいで持ち歩くには向かないが、すぐに帰ってくると見越し、彼は充電コードを差して置いていく。
部屋を出ると、今の方から話し声が聞こえていた。
内容までは詳しく聞き取れないし聞き取る気もなかったようだが、不機嫌な父を母がいさめているのはなんとなく感じられた。
――そら見ろ。俺なんて諍いの種にしかならねえ。
唾を吐き捨てる代わりに鼻を鳴らして、イナは音を立てないように家を出た。
「……後悔しろ」
夏の夜に溶けた一言は、この世界に対する負け惜しみのようでもあった。
ふと見上げた夜空には、ひとりひとりの人間が矮小に思えるほど綺麗で壮大な天の川が広がっている。
皆の目を奪い、誰か一人消えたとしても気付かないほどに。