第8話「共に生きる、誰か」:A1
「はぁあ……」
重い溜息が、蒸し暑い部屋の中に淀んで消えた。
司令室から出たのち、ディータは用件ができたとのことで行動を共にすることはできなかった。
加えて特に指示もなかったために、イナは一人で自室に戻ってきていた。
瑞月家の自室ではない、まったくの別物。にもかかわらず、既にイナはここの空気に慣れ始めていた。
諦めか、あるいは適応する力に優れているのか。
そんなことを確かめたところでどうにもならないことはわかっていたため、イナは自棄になったようにベッドに倒れ込んだ。
――誰かと話がしたい。
それは寂しさを紛らわせるためでもあり、自身の抱える悩みを解消するための欲求でもあった。
しかし隊員間の連絡手段を持ち合わせておらず、常に暇であるとは考えられない。
――せめて、チカがいれば。
この世界を訪れるより以前は、ネットを通じて日常的に会話をしていた悠里千佳。
しかしここが異世界であり、彼女の所在が分からない以上、それも不可能である。
が。
そんなイナの脳裏にふと、声が響いた。
《……呼んだ?》
「ッ――!?」
鼓膜が揺れたのではなく、脳に直接『聞かされた』ような感覚。
そしてその声が紛れもないチカのものであり、イナは思わず飛び起きて周囲を見渡した。
窓を開けて見たが、上にも下にもいる様子はない。
《お、落ち着いて。私だよ、シャウティアのチカだよ》
「シャウティアの……」
傍にチカがいるわけではないことを理解し、イナは落胆したような声を出す。
言われた通りに心を落ち着かせてみれば、確かにこの感覚はシャウティア搭乗時に覚えがあるものだった。
「でも、どうやって……」
《やってることは一緒だよ。BeAGシステムを使って、イナの全身に張り付いたナノマシンで送受信をしてるの》
張り付いている、という表現に思わず自分の手を見るが、特に違和感はない。
明らかに目立つ何かがあれば、ナノマシンの名折れだが。
(てことは……こうやって話したほうがいいのか)
《そうだね、私の声はいまイナにしか聞こえてないから》
イナは念じるような心の声に切り替える。
ついでに他の窓も開けて風通しをよくしたところで、イナは窓際の椅子に腰かけた。
《それで、まずは何から話そっか》
(……俺、ここでうまくやってけるのかな?)
普段のイナならば、見栄を張ってチカにこんなことを言いはしないだろう。
しかし彼女が本人でないと称しているのをいいことに、遠慮なく自分の内側を吐露している。
まあ、隠しても彼女にはすべてお見通しなのだが。
《大丈夫だよ。何かあっても私が守るし……イナはイナのしたいことに集中すればいいと思う》
守る――という言葉の深さが、多少気になるが。
(だけど……)
《じゃあさ。イナはこの組織が、そこまでバカだと思う? 仲間に迷惑をかけるような人が当たり前にいる組織が、今まで続いてこれたと思う?》
(……いや)
事の発端になったという《ドロップ・スターズ》は約3年前。
PLACEの設立はそれから約1年後――設立からそう長くはないだろうが、混迷を極める世界の中である程度の統制が取れているのは、隊員一人一人の意識による部分も小さくはないだろう。
《いまイナに突っかかってる人も、その辺りはきっとわかってる。でもきっと、抑えられない何か、その理由があるんだと思う》
(理由……か)
今のところは、気に入らないから、というアバウトな動機で関わってきていることしかわかっていない。
どうにかしたいのであれば、そこからもう少し踏み込んだ情報がいるだろう。
《それが分かるまでは、気にしないのがいいよ。イナを守ってくれる人もいるんだから》
(守ってくれる人……)
少なくとも、ディータ。シエラやレイア、アヴィナやミュウは、きっと手を貸してくれるだろう。
――いや、多いな、女!
明らかに男っ気が足りていない。
それこそ先日シエラが言っていたような、一昔前のライトノベルによくあった主人公のようだ。
さすがにイナも、彼女らでハーレムを作ろうなどとは思ってはいないが。
《イナには、私がいるもんね?》
「うッ」
こういう時だけは頭の回転が速い――イナは瞬時に理解した。
ここでYESと答えたならば、きっとこのチカは喜ぶに違いないと。
彼女がイナ自身のもつチカの記憶を基に作られたAIだというのなら、ある程度はイナの欲望を反映した存在であってもおかしくはない。
その仮想の存在との関係を築くことは、果たして「チカ」との関係を築いていると言えるのだろうか?
そんな哲学的なことをイナは一人で考えているつもりだが、彼女にはすべて筒抜けだ。
(えっと……その。チカのことは確かに好きだけど)
《あぁ、ごめん。そんなに考えなくても大丈夫だよ。それが私じゃないっていうのはわかるから》
(なんか、ごめん)
《いいの。私もちょっと意地悪だったね。あんまりこういう話はしないようにする》
気まずくなりかけていた雰囲気は、やはりチカの方から破ってくる。
イナの話しづらいという思いを察したのだろう。
《それで、次は。作戦の話だっけ?》
(あ、ああ)
《イナの記憶を整理してみると……その作戦に参加しないかって言われて、自分じゃ決めかねてるんだよね?》
(まあ、そうだ)
《つまりは、イナは参加して何をするのか、それで何が起こるのかがよくわかってないってこと?》
(……そう、だな)
とはいえど、実際にやらねば分からないことの占める割合も大きい。
しかしながら、イナにはある程度の予測をするための知識や、それに説得力を持たせるだけの経験もない。
結局のところ、架空の世界の記憶を頼りに、曖昧な予測を立てるほかない。
だがもちろん、それで自分を納得させられるはずもなく。
《でも戦うことは、自分で決めたんだよね》
(……まだ、わからないところもあるけど)
《そんなに細かいことを考えなくてもいいの。仲間が、友達が攻撃されてるのは、気分が良くない。だからそれを止める。止められる力が――私がいる。それだけでしょ?》
(そう、だけど)
チカの言っていることは、イナの決意であり意志。それで間違いはない。
それでも、自分が戦うことで誰かが迷惑を被るのであれば、イナはそれだけで戦意を削がれてしまう。
《……ほんとに優しいんだから》
どこか呆れたようなチカの声。
しかしそれは、裏を返せば意志が弱いということだ。
《じゃあ、今はそれでもいいよ。でもイナはいざっていうときは、それにしか集中できないくらいになるっていうの、私はわかってるから》
まるで、本当にチカにそう言われたような気がして、イナは少しだけ嬉しくなる。
だが実際のところは、エイグに内面を読み取られているだけであり。
あるいは、そう思い込まされているだけかもしれない。
そこでふと、イナはある疑問が浮かぶ。
(……チカは、っていうかシャウティアはさ。俺の考えをどうやって読んでるんだ?)
《ん? んー……ちょっと難しいところを省くとね。これもイナに張り付いたナノマシンを使って、脳波……みたいなものを読み取ってるの》
(でも、俺はお前の考えは読み取れないのか)
《読んだとしても、わかんないと思うし。必要な情報は私の方から渡すから、そんなに気にしなくてもいいよ》
(……そうか)
今こうして会話ができているのは、AIの機械的な言語を悠里千佳の言葉のように翻訳しているだけ。
それをイナが読み取れたとしても――彼女が言うように、理解はできないだろう。
実際にそうであるか、確かめる術はないが。
《怪しいって思うのは、仕方ないけどさ。これでも私は、イナのことを第一に考えてる。それだけは絶対だよ》
仮に嘘だとしても、今は彼女の言葉を信じるほかはない。
《………》
すぐに返事を寄越さないイナに、チカは不満げに沈黙した。
あるいは、別の理由があるのかもしれない。
(……お前だけは、俺の味方でいてくれ)
彼女の返事を求めたわけではない、ただのひとりごとのような願い。
それを察したのか、チカは静かに声を絶った。
イナの脳裏に、内部で信号を交わすばかりの静寂が戻る。
周囲の時間が動き出したような感覚に、イナは自然と体から力が抜け、椅子の背もたれへと身を預けた。
――ひとまず。悩むだけ無駄ってのは、分かったけど。
実行できるかは別だ。
それでも、行動しないという選択肢はある。悩みの種となる人物と会わなければいい。会っても無視を決め込めばいい。
それも、実行できるかは別だが。
何せイナは、安い挑発に軽々と乗るような子供であるのだから。
――わかってても治らないのは、ダメだよなあ……。
呆れのため息を吐き出し、肩を落とす。
振る舞いこそ自覚があるようだが、考えることはまるで他人事だ。
もう片方の、作戦への参加に関してはもう少し考えても良いだろう。
自分で選ぶことの意味。その強さを、イナはまだ理解しきれていない。
というよりは、決意がまだ甘いのだ。
仮に先日よりも切迫した状況に陥った時、イナがどんな決断を下すのかは興味を刺激されるところだ。
案外と、それはそう遠くない未来に訪れるのかもしれない。
『――イナくん、いる?』
ドアをノックする音ののち、部屋の外から声が響いてくる。
この口調、この声。シエラ・リーゲンスのものだ。
ひとまず自分のことは保留にして、イナは出入り口に向けて返事をした。
「いる。鍵は……開けないとか」
オートロックであることを思い出し、すぐに扉の鍵を開ける。
今朝のようにディータが当然のように鍵を開けていたために忘れかけていたが、鍵はちゃんとついているのだ。
解錠し扉を開けば、そこにはむろん、シエラの姿があった。
「……どうかしたのか?」
「あ、いや。体調が悪いとかって聞いたから。大丈夫かなーって」
何か含みがあるかのように、彼女の視線はイナと合わない。
見舞いは建前で、何か別の目的がある……といったところか。
そこに悪意は感じられないが。
「まあ、その。なんだかんだでプレッシャー感じてたみたいで。とりあえず今日は休んだ方がいいって」
「そっか……あっ、なにか欲しいものとかはある? 支給部に行ってもらってくるよ」
支給部、というものが何なのかはわからなかったが、「欲しいもの」という言葉に思い当るものを感じた。
イナは先ほど教えてもらったヒュレプレイヤーの力を利用すれば、その手間を省くことができるのではないか?
そう言いかけたところで、隊員申請書を書いていた時のディータの言葉を思い出す。
例え同じPLACE隊員であっても、あまり口外しない方がいい、という旨だった。
それはシエラに対してもだろうか――そう思っていた時。
シエラが何かを思い出したように、「あっ」と声を上げた。
「まだ支給部のこと、教えてなかったっけ」
「え? え、ああ、うん……初めて聞いた」
想定外ではあったものの、嘘は言っていない。
――とりあえずは伏せておくか。いずれ知ることにもなるんだろうし……。
明らかに違うことを考えていたと言わんばかりのイナだが、シエラはそれがなんなのかまでは分からないようだ。
「んじゃ、私が案内を……って、まだ休んでるんだよね」
「って言っても、することがあるわけじゃないし。頼んでもいいかな」
水を差されたように顔を俯かせた彼女をフォローする意味も込めて、イナは彼女の申し出を受ける。
体を動かしていた方が気が紛れるうえに、早い段階でこの場所のことを知っておいた方が良いだろう。
もっとも、長居できる保証はないが。
「そう? じゃあ、えっと。準備とかあるなら待ってるよ」
「いや、特には無いかな。早速お願いしてもいいか」
「うん。じゃあ、喜んで!」
無邪気とまではいかないが、これまで数えるほどしか見たことのない彼女の笑顔が眩しい。
こんな顔を見せる人物は、彼の周囲にはいないと言っても過言ではない。
チカでさえも、この頃は大人びてきているのか、穏やかな笑みを見せることが多かったように思われる。
ゆえにシエラという存在は、いまイナの中でひときわ眩しい存在になりつつあった。
――にしても、やっぱり俺達ぐらいの隊員ってそもそも少ないのかな。
だからここまで積極的に近づいてくれるのだろうか。
それはそれで、他者、特に異性との交流に縁のなかった個人的には嬉しい……と思いかけて、イナはすぐさま振り払う。
「じゃあ、とりあえず支給部……ううん、司令室や医務室が近いし、そっちが先だね。イナくんもいざってとき場所が分からないと困るだろうし」
そう言って歩き出すシエラ。
イナは遅れないように、その後ろをついていく。
彼女の背中にも、見えない何かがのしかかっているのだろうか――そんなことを考えながら。




