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第1話「逃避、あるいは後悔の強制」:A2

 なぜ、わざわざ食事のために自分が呼ばれるのか。イナは何度説明されようとも、納得できる気がしないでいた。

 複数人で食べようが、料理の味が変わるはずもない。むしろ食べる人数で味の質が上下する料理など、出来損ない以外の何だというのだ――と。

 しかし彼がそれを真っ向から言ったとき、「だって寂しいじゃない」と言った母の顔が忘れられず、以降口にしたことはない。

 依然として、不満であることに違いはないのだが。


 やたらと重く感じた居間への引き戸を開ければ、部屋には夕食の匂いと空調から出される冷たい空気で満たされていた。

 どちらも決して嫌というわけではないのだが、そこからすぐに「ここには親がいる」という不快感のような感覚が想起されるため、彼はあまり好んではいなかった。


「………」


 それだけなら、まだ我慢できただろう。

 しかし食卓の椅子には既に、スーツを脱いでだらしない姿になっている父・孝一が座って新聞を読んでいた。それが見えた瞬間、イナの眉間に僅かな皺が生まれる。


「もうすぐできるけ、座っとき」


 おそらくカレーが煮込まれているのであろう鍋の前で、エプロンをつけた瑠羽がお玉でルウを溶かしながら言う。

 断る理由はあるにはあったが、無視をすればいいだけの話だ。

 イナは何も言わず自分の席に座り、それを返事の代わりとした。

 食卓の上には既に、副菜のポテトサラダが山盛りになったものが置かれていた。

 辛口のカレーライスにポテトサラダ。

 金曜日の晩は、決まってこのメニューだった。


 イナはテレビの方に視線を向け、公共放送のニュース番組で取り上げられる、米国が国際テロへの対策で新型兵器を開発しているだとか、国内のどこかで起きる痛ましい事件だとか、そんな世事を他人事のように受け流していく。

 ナントカ県で起きた殺人事件も、ナントカ国で起きたテロリズムも、被害者の気持ちになれと言われたところで、彼には無理だったからだ。

 他人の心の痛みを深く知れるほどの余裕がない、とも言える。

 現に、その原因の一つがすぐ傍にあるのだが。


「イナ」


 不意に、孝一の低い声が届く。

 来た――イナは睨むように目を細めながら、驚くほど彼と似ていない孝一の顔が視界の端に映るくらいに首を動かした。

 何、とぶっきらぼうに聞くことさえしない。


「今日も学校を早退したんか」


 イナの予想した通りの話題だった。

 彼はあえて何も返しはしない。悪いことをしたとは微塵も思っていないからだ。


「何かあるなら言いんさい。いじめか?」

「……関係ない」

「いいや、ある」


 即座に孝一が言い切ると、イナの眉間にまた皺が寄る。


「いくら義務教育と言っても、そんなに早退しとったら成績が悪くなる。進路も狭まって、イナのしたいこともできんくなる」

「……なにもできないくせに」


 孝一に聞こえないよう、イナはぼそりと呟いた。

 彼は孝一が県の教育関係の職に就いていることは知っていたが、それ以上のことは知らなかった。

 仮に孝一が強い権力をもつ人物で、周囲のことを気にせずそれを振るったとしても、それで解決できるような問題ではないことは、イナには分かっていた。


「お父さん」


 静かな瑠羽の声が、台所から届く。

 たったの一言だったが、様々な感情が込められていることはイナにも理解できた。

 その辺にしんさい、などと続くはずなのだろう。


「さあ、ご飯できたよ。イナ、今日は母さんがついじゃるけんね。座っとき」

「……ん」


 父を制止してくれるから、甘やかしてくれるから、というだけが理由ではないが、イナはどちらかと言えば瑠羽の方を好んでいた。

 必要以上に、彼の内面にまで干渉してこないからだ。


 しばしの静寂の後、大きめの皿に盛られたカレーライスが、スプーンとともに皆の前に置かれる。

 次いで瑠羽はポテトサラダを木の杓子で皿に乗せ、それも皆の前に差し出した。


「イナのはちゃんと少し多めにしておいたけれど、足りなかったらおかわりしていいけんね。お母さんら、あんまり食べんから」

「ん」


 ほぼ発音せずに答え、イナはスプーンを両手の親指で挟んで手を合わせ、軽くお辞儀をする。

「どうぞ」と瑠羽が言ったのを聞き届け、イナは食事を始めた。

 ジャガイモ、人参、玉ネギ、牛肉――それらを咀嚼してはすぐに飲み、すぐにまた口に含んで咀嚼しては、またすぐに飲みこむ。

 あまり噛まないと消化に悪いと聞いたことがあるが、これまでに彼は、それが原因と思しき病気にかかったことはない。ゆえに、改善する気などなかった。

 何より、この場から早く離れてしまいたいのだから。


「おいしい?」

「……ん」


 聞いてくる瑠羽に、イナは一旦手を止めて目を逸らし、小さく頷いてまた食事に戻る。


「そう、よかった」


 瑠羽は満足げに微笑みを浮かべ、自分のカレーを食べ始めた。

 3人だけの食卓に、ニュース番組の音と、食器とスプーンのこすれ合う音だけが響く。

 それだけで、イナは十分だった。

 生きていくために仕方なく必要な食事を、わざわざ談笑して長引かせる意味が分からなかったからだ。


「そういえば」


 しかし、孝一の言葉が再びイナの調子を乱す。

 ――今度は何を言うつもりだ。

 警戒しつつ、彼は気にしない素振りで食事を続ける。

 瑠羽の方もまだ様子見という風だ。


「志望校はもう決めたんか、イナ」

「………」


 早退のことに次いで、イナが耳にしたくなかった単語が述べられる。

 しかしイナは、「まだ」と答えると小言が続き話が長引くと知っていたため、決まってこう言うのだった。


「公立高校。海田の方」

「海田か。あそこも偏差値は低くないけえの、早退ばっかりしとったら厳しいかも知れんな」

「……そ」


 イナは怒りを堪え、顔が強張り、食事の手も止まっていた。

 だが、無関心を決め込む。

 このカレーライスを食べて、居間から出れば、それで済むことだ。


「先生と話してみ。担任でも、進路指導の先生でもええけ」


 ――注意はしておく。

 孝一にはその意図はなかっただろうが、「先生」という単語を聞いたイナの脳内には、忌々しい一言が蘇っていた。

 大人が信用ならない存在であると、彼に確信を持たせた一言が。

 そしてそれは、不意にイナの中にある何か(・・)をぶちりと乱暴に()った。


「――あんなのと話して何になる!」

「……?」


 イナは感情に任せて机を叩くわけでもなく、食器をひっくり返すわけでもなく。

 ただ溢れ出る感情を抑えようと、震える肩を抱きしめていた。

 そして孝一は、驚いたように目を丸くしてイナを見ていた。


「俺の()のことを知っていてあの態度だ! 腫物みたいに扱って、いじめがどうこうほざいてるくせにいざそれに対面したら、俺の味方をするふりをしてクソどもの味方をしやがる! 俺を人間と思ってないようなクズと話しても、すぐに話を切り上げようとしてんのは目に見えてんだよ!」


 声を震わせながら、イナは心中に眠る思いを吐露していく。

 孝一だけでなく、瑠羽も絶句していた。


「……あんたもそうだ」


 今にも涙を流しそうなほどに潤んだ瞳で、イナは孝一を睨んだ。


「無責任なんだよ。何も知らないのにそんなこと言ってさ! なんでこんな目をした奴が普通の人生を送れるとか思えたんだよ! 学校とか、あんなクソの掃き溜めみてえなところ、目立つ奴が潰されるだけのとこでさ! ……いいや、違う。違うな。――俺が生まれたのが間違いだったんだ」


 拙い言葉と混乱した感情から、罵倒が乱暴に紡がれる。

 無意識に怒りの矛先が母親にも向いていたことに気づかずに、イナはその言葉を口にした。

 己の生まれを悔いる言葉を。


「そうだ、そうだよ。おかしいんだよ。なんで俺だけなんだ? ほかにいじめられてる奴なんか見たことがねえ。いつもいじめられるのは俺ばっかりだ。俺だ。俺なんだよ。なんでさ! 俺は苦しむために生まれたわけじゃない! なのになんでこうなんだ! 本を読んでりゃ水をかけられて、謂れのない罪を被せられて、クズのやったことは全部俺に回ってきやがる! 俺を納得させられるなら言ってみろ! なあ! 生み直してくれよ(・・・・・・・・)! 俺を勝手に生んだ責任を取りやがれ!」

「――ッ!」


 好き勝手に言葉を並び立てるイナに対し、孝一は乱暴に席を立って彼の前に立つ。

 そして何も言うこともなく、右手でイナの頬を思い切り叩いた。

 鈍い痛みが、乾いた音と共に部屋に響く。

 涙粒が宙を舞い、同時に――彼の眼球を覆っていたカラーコンタクトの片方が、外れた。


「…………よくも」


 しかしイナは、止めることはできなかった。


よくも(・・・)俺を(・・)生みやがったな(・・・・・・・)……!」


 それは彼にとって、自身を生んだ両親への最大の侮辱であり。

 そして同時に呪詛であった。


「……いいや? もしかしたら俺はあんたの本当の子供じゃないのかもな? 顔も全然似てないし、性格だって大違いだ。何よりあんたはこんな()をしてないもんな! だから(イナ)なんて名前を付けたのかよ!」


 自身と父親を嘲るように、イナは鼻を鳴らした。

 よほどのショックを受けたのか、孝一はわなわなと震え、もう一度平手を打つほどの余裕はないようだった。

 イナの方も、それ以上の言葉を出すことはできなかった。感情とともに一気に放出し切ったのだ。


「ほっといてくれよ……!」


 それだけ言い残して、カレーライスも食べ残したまま、イナは台所の隣にある浴室へと向かった。

 その際、台所でケーキが入っていそうな箱を見かけたが、構わず部屋を出た。


 ――そうか、今日は誕生日だったか。

 忘れていたわけではなかったが、彼は自身の誕生日というものにも関心が大してなかった。

 他人の誕生日を祝うことに関してはあまり気にしていないし、祝われるというのであれば気持ちだけでも貰うのが彼のスタンスである。

 それはただ単に、そう教えられてきたからだ。


 しかし、彼にとって誕生日というのは誕生した当日――彼で言えば2028年の7月7日を指すのであって、決して2043年の7月7日ではないのである。

 ゆえに、やはり祝われることに関しては理解ができないでいた。


 イナはやけに重い体を動かして服を脱ぎ、片方だけになったカラーコンタクトを外して保護液に満たされたカプセルに入れる。もう片方は居間の床に落ちたままだろう。

 そして浴場に入るなり、出迎えた鏡にはひどい顔をした少年が立っていた。

 泣きはらしたように頬を赤く染め、目元に皺が寄り、眉もわずかに吊り上がり。

 目に映るものを呪うかのような瞳をしていたのだ。


 その虹彩は、宝石で例えるには惜しいほどに澄んだ()()()をしている。

 一応、世界のどこかに存在している緑色の虹彩とは全く非なる。イナのそれは、それらよりもはっきりと異端な色であることを主張していた。

 淡い光と共に。


「……はぁ」


 彼は混濁した感情を込めて鼻から溜息を吐き、浴槽の蓋を開けて湯を体にかけ、湯船に浸かった。

 夏であるせいで、湯の温度は若干低くされている。

 いっそ気が狂うほど熱ければ紛れるのに――などと思いながら、彼は天井へと昇っていく湯気を目で追う。



 ――化け物!



 何も考えないでいると、過去に誰かに言われた言葉が脳裏をよぎる。




 ――近寄るな! あっちいけよ!




 ――生きてて恥ずかしくないの?




 ――心配しなくていいからね。




 ――騙されてやんの、馬鹿みてえな顔してさ!



「……やめろッ!」


 腕を乱暴に振って湯を散らしても、彼の脳は忌憶の再生を止めようとはしない。

 ――本当は俺がそれを望んでいるとでも?

 実際、その可能性は否定できない。

 イナは自分が嫌いだ。何もできない自分が嫌いだ。

 ゆえに、自分を苦しめたいという気持ちがゼロであるとは、言い切れなかった。


 ――もしも、俺が心の底から自分を否定したとしたら。


 その結果を想定すること自体、深淵を覗く行為である気がした。

 下手をすると、二度と戻ってこられなくなるような。


「……助けてくれ」


 ただし、誰でもいいというわけではない我儘。

 彼が助けてほしいと願える人間は、唯一人しかいない。


「チカ……」


 イナの口から漏れた少女の名が、浴室な中で反響した。


 先ほど、妄想の中でけがしていた少女の名が。


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