第6話「豊かな朝」:A1
……ところで――
いつまで、そこで見ているつもり?
「!? ッ!?」
何か衝撃的なものを目の当たりにしたイナは、そこから逃げるように飛び起きた。
しかし寝ている間に見る夢というのは、思い出そうとすればするほど薄れていくものであある。
今回も例にもれず、何を見たのだったかと自問してもモヤがかかった上にモザイク処理までされたかのような曖昧に曖昧を重ねた映像では、自身が何を見たのかなど把握しようもない。
――しかし、よく俺もこんなとこで寝れるな。
どこを見ても慣れないものが目に映る。
短期間に引っ越しを二度もしたようなものなのだから、もう少し眠れない夜を過ごしてもしかるべきなのでは、とイナも思うのだが。
――……戦って、いたんだよな。
段々と目が冴えてきたイナは、寝ぐせのついた頭を掻きながら昨日のことを思い起こす。
目覚めてからさして時間の経たないうちから自身の意思で出撃し、状況に流されるまま戦闘をこなしたのだ。
幸い無傷で済んだから良いものの、辛勝、いや負けでもしていたら寝るどころではなかっただろう。
もっとも起床直後でなくとも、イナにそこまで考える余裕も知能もないのだが。
精々、慣れない戦闘をしてよく呑気に寝られるな、くらいのものだ。
――……実感ねえなあ。
窓から差し込む陽の光。どこからか聞こえてくる小鳥のさえずり。
銃弾が降ってくるわけでもなく、けたましい警報が鳴り響くわけでもなく。
こんな平和な朝に、緊張感を求めろという方に無理があった。
「そういや、昨日風呂入ってねえな……」
イナの体からは特に気になる匂いがしていたわけではなかったが、ぱらぱらと降るフケや寝汗がどうにも気になっていた。
――ていうか、自室と格納庫以外の案内されてねえんだけど……。
ホテル風の建築物である以上、自室にシャワールームくらいあるだろう。
イナは薄めの布団を剥がすように捲り、ベッドから降りて大きく伸びをする。
赤いカーペットの敷かれた床を歩いて入口の方へと向かうと、出口以外の扉があることに気づく。
存在自体は出入りする時に知っていたが、何の部屋かまでは把握していなかった。
必要もなく怯えつつ、イナがゆっくりその扉を開けると――と勿体ぶるわけでもなく、ユニットバスの供えられた部屋が彼を出迎える。
浴槽のすぐ隣に備えられた洋式の便器を見るなり、イナの下腹部に水風船があるような感覚が生まれる。
――とりあえず、トイレが先でいいか……。
ついでにシャワーも浴びるため、服も脱ごうとシャツの袖から腕を抜こうとした瞬間、ガチャリ、と外から解錠の音が聞こえてくる。
「え」
濁り気味の声が、イナの喉奥から絞り出される。
鍵を持っているであろう人物は彼の記憶の中でも限られているが、焦りだしたイナに判別ができるはずもなく。
とりあえず服を一枚脱ぎきろうか着直そうかともたついている間に、勝手に出入り口の扉が開かれる。
「ノックぐらいしうぉおッ!?」
半脱ぎのまま思考が混濁し、何とかドアノブに手を伸ばそうとしていたイナの手は空を切り、盛大にずっこける。
「おはようございます、イナ様――おや?」
鼻から上を襟首から出す奇妙な状態から、イナは寝転がって来訪者の顔を見上げる。
「ディー……タ」
「大丈夫ですか?」
心配げにイナの顔を覗き込むが、目の前の使用人が手を差し出す様子はない。
「あ……あの」
襟に顔を通して立ち上がろうとすると、ディータは意味深に微笑んで長い丈のスカートを摘み。
なぜか、持ち上げた。
「あの!?」
イナは困惑の声をあげつつも、隠されていたものにしっかりと視線を向けてしまう。
――肉は少ないがすらりと細長く白い脚に、黒のガーダーベルトとソックスがコントラストに……。
「そうじゃ、ないだろぉッ!?」
いろんなものを振り切るように体を起こし、立ち上がって服を着直す。
「違いましたか」
ぱっとスカートを離したディータの表情に、羞恥の色は1ミリたりとも見られない。
「違うとかじゃなくて、そもそもノックもせずに入りますか!?」
「その点に関しましては故意です」
「開き直るなッ!」
「昨日の疲れが色んなところ、それはもう端々から特定部分にまで溜まっているのかと思いまして――お嫌でしたか?」
「ぅぐ」
駄々をこねるように抗議していたイナだったが、その問いに言葉が詰まる。
本能的にイナは敗北を悟った。
明らかに恥じらいを見せているのはこちらだけである以上、いくら否定しても意味はない。
降参の白旗を挙げる代わりに、イナはため息をついた。
「……それで、何の用なんですか?」
「そろそろ起床している頃かと思いまして、食堂への案内をしようかと参った次第です。私とて、毎度食事をお持ちできるわけではございませんので」
――まあ、確かに。そこまで贅沢はできないよな。
内心納得しながら、しかしすぐに案内してくれと言うことはできなかった。
彼はこれから、シャワーを浴びようとしていたのだから。
「あの」
「シャワーを浴びるくらいであれば、問題ありません。ただ朝に一度処理する習慣が御座いましたら、お手伝いをば――」
「やめろその手の動き!」
手を筒状にして上下に動かすディータは、表情に動きこそなけれど明確な意図があるのは見え見えである。
そこまでして思春期の少年を刺激する意味もやはり不明だが、ひとたび頼めば実際にやりかねないのが恐ろしいところだ。
無論その後の自分が社会的にどうなるか分かったものではないのだから、その可能性を悶々と考えつつもそこに至ろうとは決してしないのだが。
――チカへの想いが本物なのか、試されてるのか……!?
「では衣服をご用意しておきますので、ごゆっくりどうぞ。私は部屋の外でお待ちしておりますゆえ」
「はい、どうも……」
「あ、バスタオルは上の棚に備えてありますので、それをお使いくださいね。脱いだ服は籠にどうぞ」
「……はい」
嫌いなわけではなかったが、話せば話すほど調子が崩れてしまうディータとの会話を早めに切り上げたいイナは、逃げるようにバスルームに入り込んだ。
扉を閉め、心労から来る溜息をひとつ。
外で出入り口の扉が開け閉めされる音を聞き届けてから、イナはひとまず言われた通りにタオルを取り出す。
それを便蓋の上に置いて、慣れないユニットバスで体の汚れを落とし始めるのだった。
――私は、皆様に尽くすだけの道具ですから。
ふと、昨日のディータとの会話で、彼女が残した言葉が思い出される。
この言葉に嘘偽りがあるようには見えなかったものの、それはそれで尋常でない狂気を孕んでいるように思えてしまう。
下手に手を出せば、肩まで一気に食いちぎられてしまいかねない。
――そんな悪い人には見えないけど。
かと言って、純粋な善意であんなことを言っているようには思えない。
ディータ・ファルゾンという人物が抱える多くの謎が深まるのを感じながら、イナはその考察を後回しにした。
□ □
――コピペしたみたいに同じだな。
ディータが用意した服を身に纏いその着心地を確かめ、イナはそこに違和感がないことに違和感を覚えていた。
何をしたのかは定かではないものの、イナが先ほど脱いだ服がそこに残っている以上は別の服であることは確かである。
――仮想画面もあるくらいだし、3Dプリンターみたいなのがあるのかな。
そう推測してそれ以上考えることはせず、イナは扉を開いて部屋の外に待つディータの下へ向かう。
さすがに扉を開いて塞がるほど狭い通路ではないが、万が一にもディータや通路の物に当たってしまわないようにゆっくりと開き、人の通れるほどの隙間を縫って部屋の外に出る。
「ご用意できましたか」
「まあ、持っていくものもないですし」
「でしたら参りましょうか、皆さまお待ちでしょうから」
「お待ち……?」
ディータについて歩き始めたイナは、彼女の言葉に眉間にしわを寄せる。
まさか隊員全員が揃わないと食事を始められない規則でもあるのだろうかと心配になるが、その割にはディータが焦る様子も、急かしてくる様子もない。
彼女のことだから時間に余裕をもってイナの下に訪れたとも考えられるが、その実は分からない。
訊ねようにも、心配は無用とばかりに微笑を向けてくるディータに聞くことはできないでいた。
「大丈夫ですよ、お食事は各々自由に始め自由に終えるものですから。隊員の皆様が空腹に怒ることはございません」
「じゃあ、一体」
「分からないのであればそれが一番です。お楽しみ、ですので」
お楽しみ。
その言葉を手掛かりに、連想によってあり得そうな事柄を検索するが、どうにも自分で納得できるような答えは導き出すことができない。
――食堂で多くの人が俺を待っている。たぶんテーブルに食事を用意してあって、おそらく俺が来ないとそれを食べることができない?
イナの脳内に、小学生が全員の着席を確認して「いただきます」と合掌する映像が思い浮かぶ。
が、先ほどのディータの発言からして、それは違うのだろう。
――お楽しみと言うからには、何かの催し物……催し物?
〇〇会、というおぼろげなイメージが思い浮かぶ。
それは例えば誕生会であったり、送別会、歓迎会などであったり……
「あ」
答えを見つけたと言わんばかりの声を出したときには、既に二人の足は目的地の扉の前で止まっていた。
見上げてみれば、『食堂』と書かれたプレートが掲げられていた。
「では、答え合わせをいたしましょうか」
既に中からは、隊員たちものものと思しき賑やかな声が外にまで漏れ出ていた。
ここに今から入るのかと思うと、イナは足がその場に固定されたかのような緊張感に苛まれる。
そこにあるのは、自分の望んでいたもののはずなのに。
いざ目の前に用意されると、本当に受け取ってよいのか――それが本物なのかを疑いたくなってしまう。
難儀な性格をしているという自覚があっても、自身の心までをも操ることはできない。
それでも、横開きの扉に恐る恐る手をかけようとした、その瞬間。
イナを待たずして、扉が開く。
「おはよ、イナくん!」
「ッ!?」
不意を打たれ驚く彼を自ら迎えに来たのは、昨日彼が必死の思いで救出した少女。
シエラ・リーゲンスだった。




