第30話「禍根と残滓」:A2
夢だ、という自覚があった。
黎明のような暗いグラデーションの、上も下もないような空間で――自分の前に、自分が立っていたのだから。
鏡で何度も見た顔。
普段過ごしていて、どんな形をしているかなど気にすることのない顔。
しかし改めて思う――これが怒りや悲しみに歪むこともあった。
なんて醜い顔か。誰が生んだかもわからないこの顔。
こいつはどこにいる? 全てが空虚だ。
ここにいることは間違いだ。
一刻も早く消えなくてはならない。
ああ、そうだ。
そんな奇妙な目を持って生まれてしまったばっかりに。
愛されてしまったばっかりに。
お前は苦しまなくてはならない。
お前はお前が求めたものによって苦しむのだ。
ならば、ああ、そうだ。
死ねばいい。
これ以上俺を不快にする奴は。
無意識に実体化していたナイフを強く握り、迷いなく首の根本に突き立てる。
肉を貫き、時間差で血が滲み、溢れ出してくる。
手が、震えた。
だが殺意がそれを上回る――殺意なのか、これは?
一抹の疑問を払うように、無遠慮に刃を引き抜く。
壊れた水道管のように血が出ているが、悲鳴すら上げず抵抗もしないのが丁度いい。変に躊躇せずに済む。
首では駄目だ。もっとわかりやすく、胸を。
心臓がどこにあるのかわからないが、大体のあたりをつけて胸を突き刺す。
服があるせいで少し抵抗があったが、おそらくは深くまで届いたことだろう。
案外と呆気ない。人を殺すと自分も死ぬのではなどとまで不安になったものだが。
悪くない気分だ。下手な倫理観など捨てて、誰もがもっと不快感を殺意に変えていけばいい。
そうすれば、最後には平穏が手に入る。
さらに刃を奥まで押し付けて、直撃したかどうかわからない内臓を探るように傷つける。
際限も知らず溢れる血が手を汚す。
その生暖かさが気持ち悪くなり、赤い拳で物言わぬ自分の顔を思い切り殴りつけた。
柔らかくも奥に固さを感じさせる、鈍い感覚は新鮮だ。
子供の頃の取っ組み合い以来、まともに他者に暴力をふるったことはなかったが。
遠慮をなくした暴力は、慈悲がない。
ただ自分の正当性や優位性を証明したい子供と違って、本当に相手を傷つけることを目的としている。
ゆえに、留まるところを知らない。気付かぬうちに、相手を死に至らしめている。
骨格が歪むほど、歯が折れるほど、経験のないようなところから出血しても殴打を繰り返し。
際限なく血が流れ出ても、何度も全身に刃を突き立てる。
失敗を生んだこの手を。
転んだこの足を。
失言したこの口を。
見てみぬふりをした眼を!
都合の悪いことばかり聞き取るこの耳を!
無駄を生むだけの生殖器!
制御もできない精神!
鈍い思考回路に惰眠を貪る脳髄!
穀潰しを助ける内臓!
怠惰を表す不細工な身体!
憎い!
醜い!
恩知らず!
臆病者!
無能で!
視野も狭い!
浅はかで!
心の狭い軟弱者!
卑劣で下品で意地の汚い、穢れた廃棄物!
おまえは失敗作だ!
出来損ないのゴミ野郎!
周囲に迷惑をかけるだけの役立たず!
お前さえいなければ、こうはならなかったのではないか?
お前さえいなければ、苦しむ人間はいなかったのではないか?
お前が抗うから。
お前が希望を見出すから。
お前が前に進もうとするから。
シャウティアに乗ったから。
シエラを助けたから。
作戦に参加したから。
チカを助けたから。
親を捨てて戦いを選んだから。
いつまでも苦しみは終わらない!
お前が。
お前が、おまえが、オマエが!
――痛い。
自分の輪郭が滅茶苦茶になっている。
激痛が走っているとか、そういうことではなかった。
痛覚に刺激を受けているのではない。
これは、夢だから。曖昧だった。
ただこの感覚は、痛みというほかなかった。
この夢の中で、ずっと自分を見ていた。
『自分』を見ていた。
自分を見ていたのだから――そう。
『自分』が自分を殺しているのを、ずっと見ていた。
悲しかった。
虚しかった。
怖くなった。
嫌になった。
『自分』が、そんなにも自分に不満を抱いていたことに。
この体や意識を捨てられたなら、どんなに楽だったろうか。
『自分』が可哀想になる。
けれど、それを含めて自分なのだ。
ならばこの『自分』からの痛みを、暴力を、受け入れなくてはならない。
自分がすべて悪いのだ。
そう言い聞かせて、『自分』を許すのだ。
歪だと、それが悪循環を生んでいるような自覚は、どこかにある。
でもそうしなければ、自分を保てない。
自分がまだ正気であると、確かめられない。
――だから、誰かに正気を疑われたとき、反論ができない。
わかっている。すべて、分かっている。
だから、少しだけ静かにしていてくれないか。
すぐにいなくなるから。
見えないところで、誰とも触れ合わずに、求めずに――消えていくから。
「――あああァァァァァァァァァァァァッッ!!!!!」
血の滲んだ叫換は、何を訴えたかったのか。
目から流しているのは、血か、涙か?
俺が死んだ後で、『お前』はどうする?
そうだ――そうだ。一緒に。
このまま、この浅沼の罪悪感に溺れて。
戦争のことも、■■のことも忘れて。
全てを捨てて、俺の世界を終わりにしよう。
すべて、間違えていたんだ。
生み直されたとしても――それは、きっとうまくいかない。
だってお前は、ずっとそこにいようとしないから。
だから、さあ、早く。
す べ て を 諦 め ろ 。
「――ダメっっ!!」
途端、全身を強く包む暖かさとともに、辺りが明るくなる。
悪夢から引き戻されたのだと認識するまでに、数秒を要した。
だが、自分を抱きしめているのがチカだともわかると――安堵よりも、不安が勝りそうになっていた。
彼女がいなければ、レイアの両親は助かっていなかったかもしれない。
仮にイナがなんとかそれを為したとして、被害を抑えられた自信はない。
そんなことは分かっているというのに。
チカに自分の代わりができてしまうのならば――自分が要らないと言われてしまったような気分になるのだ。
自分にしかできないということが、なけなしの行動原理になっていたがゆえに。
シャウティア同様に絶響現象を起こす、シオンのルーフェンというのもそうだ。
半ば自棄になりながら自分の過去を切り捨ててきたのが、馬鹿らしくなり、狂いたくもなる。
「無理しないで、イナ」
自分が邪魔してしまったと謝罪をするわけでもなく、彼女はひたすらに自分の温度を共有する。
うなされたときの寝汗で汚れることもいとわず。
「全部自分でやろうとしないで。私たちに頼れることがあったら頼ってほしいの」
「……でも、お前は」
言うべきもでないことを口にしようとしているのは、先ほどまで見ていた夢の影響だろうか。
彼女はあの力があったにもかかわらずその時まで隠し、イナの役目を奪っていった。
エイグそのものを動かせないとしても、時間の問題か――あるいは、シャウティア自体を奪っていく可能性すらある。
焦りと嫉妬。わかってしまえば単純だが、自分で嫌になる。
だから、あそこで殺したのだ。
殺されたのだ。
「私はここに来たばかりだから、イナの居場所を奪ったりなんてできないよ」
「……わからない。わからないよ……」
曖昧にしていたチカへの疑念も浮かび上がってくる。
助けるなどと言っておきながら結局のところ、イナを苦しませていたいだけなのではないかと。
しかしこの温度は失い難く、けれども毒のように侵食しているように思われる。
いずれ、この温度のために死ぬのではないか。
彼女の涙に、殺されるのではないか?
(………………ああ)
それならそれでいいのかもしれないと、何かの堰が切れた。
彼女の真意を確かめるという意味でも。
チカもイナの意志を読んでいるという割に的確な言葉をかけられないのは、彼女にも解決策が見つけられていないということだろう。
「……チカ」
何を言うのかを察したのか、彼女の体がぴくりと反応し、抱擁の力が弱まる。
「じゃあさ、俺、やれるとこまでやってみるからさ」
口から勝手にこぼれる様に、しかしそれを止めることはせず、言葉が続く。
「もうどうにもならなくなったら、俺を殺してくれるか?」
――イナの猜疑心は深刻だった。
共に命を賭けて戦場に出た者たちからでさえ、その信頼を正面から受け取ることができていないほどに。
それだけなら、付き合いの短さで説明ができるかもしれない。
だが、チカは。
イナが勝手に依存していた相手に好意を向けられて、困惑してそのまま、疑念になっている。
何年もの付き合いがあったとしても、イナがその間壁を作っていたせいで、本来構築されるはずの強い信頼関係は生まれることがなかった。
のみならず、嫌われることへの恐怖が、こんな言葉を生んでしまった。
一つしかない――命は、特に。
それを賭ける覚悟が、信頼の何よりもの証だと。
気づいてしまった。
チカは、少し目を見開いて放心しているように見えた。
それもそうだろう、この間否定された願いを、一転して肯定されたのだから。
蓋をしたとはいえ、心の奥で眠っているだけのそれが刺激されて、即答ができないのだろう。
ゆえに、それを利用したようにイナは確信を得ようとしていた。
彼女の狂気は、その程度のものなのだと。
断ろうが受け入れようがそこに帰結する、クズのような思考をしている自覚はあった。罪悪感がなかったわけでもない。
それでも――どこかに、人を信じなくて正解だという安堵を得られそうになっていた。
だが。
「決めたんだもんね」
チカは、涙を浮かべていた。
その青い瞳は輝きを増し、一瞬目を奪われてしまう。
しかしすぐに、そのまぶしさに目を逸らす。
彼女も、あるいは何かに迷い不安なのかもしれない。
「イナが本当にそう願うなら、私はそうする。けど」
彼女は唐突に服を脱ぎだす。
またショック療法か、あるいはと思っていたが、欲にあらがえず彼女の肌を見る。
年齢に似つかわしくないサイズの下着に釘付けにこそされたが、すぐそばにあるソレにすぐに意識を引き寄せられる。
傷跡。
イナの胸にも似たようなものがある。
いつ治ったのかわからないが――彼女に、つけられた傷。
心中未遂の、痛い記憶。
「その時は、イナも私を殺してくれるんだよね?」
――甘かった。
彼女がそんなに簡単な構造をしているはずがない。
こんなことを当然のように言えるその狂気は生きている。
たじろいだ時点で、イナの負けだった。
「この傷に、誓える?」
でも、それは。
譲歩のように思えた。
イナの思う信頼を得る為に、歩み寄ってくれている。
そして――彼がそれをできないことも、分かっている。
うつむくイナに、チカも安堵したように微笑する。
そしてイナを抱きしめ直し、その耳元に口を寄せた。
「……大丈夫、死ぬときは一緒だよ」
「あ……」
怖い、という感情が湧かないわけではなかった。
この狂気と、この体勢は、否が応でもあの時を思い出す。
こんな態度を取りながら、まだ彼女が怖い。
つくづく、自分が嫌になる。
「いいの、それで。私は知らないところでいなくなったりしないよ」
イナの手を取り、胸元の傷跡に添える。
位置が位置だけに柔らかい部分にも触れてしまい、うまく集中できない。
「――愛してる、イナ」
胸元から目を逸らしたその刹那、彼女と視線がぶつかり――胸を打たれた。
その言葉の衝撃は未知で、気持ちよくもあり不安でもあり。
何よりも、呪いにかけられたような気分にさせられた。
外的要因で自身を作り変えられたような。
感情の強弱の差はあれど、誰かがそう思っていたのかもしれない。
けれどこのように真っ直ぐに伝えられたのは初めてで、脳がショートしている。
――よくない。
元の世界に帰った時に、彼女のキスで思考をリセットさせられた時と同じだ。
一時的に良い効果を生んだとして、根本的な解決にはならない。劇薬と言っていい。
だが、それに頼らねばならない状況なのだ。
――すべてが、歪んでいる。
「……独りの方が良い?」
服を着直しながら問うチカに、イナは恥じらいを隠せぬまま、小さくかぶりを振った。
「じゃあ、着くまでもう少しかかるみたいだから。一緒に寝よっか」
甘い毒が全身を巡って痺れていく。
それ以上を望んでも彼女は応えてくれそうだが、無駄に残った理性が抵抗してそこに至りそうはない。
ただ、背をくっつけ合って寝ているだけ。
心臓が高鳴りすぎて、そのせいで死んでしまいかねない。
自分を傷つけて死ぬよりはいいなどと、今の二人は思うのかもしれないが。
忘れられようとしている――結局、イギリス支部周辺にあった、イナには処理しきれなかった異様な情報量のエネルギーは、なんだったのか?




