第3話「理由」:A2
………。
「!」
イナは己が目覚めたことを自覚するより、全身に張り付く汗に不快感を覚える。
息も乱れ、全力疾走した直後の感覚に近い。
そんな不安定な体調が、脳のスムーズな覚醒を阻んでいた。
ゆえに、今置かれている状況を把握するのに、しばらく時間を要した。
「……どこだ、ここは」
掠れた声は、大して部屋に響かない。
乾いた喉に唾液を通すが、これも効果と言えるような反応はない。
視界にはモヤがかかっているが、視線の先にある天井が、また未知のものであることは認識できていた。
――あの夢は?
どこにあるわけでもないのに、イナはその所在を探すように顔を動かす。
左を向けば、枕元にランプがあるのが見える。
その先にはクローゼットのようなものも備えられているようだ。
反対側には、日光を弱く遮る薄紅色のカーテンのついた窓。
傍にはミニテーブルとそれに対応する椅子が二つある。
段々と安定してきた感覚いわく、イナが身を預けているのはベッドらしい。
その布団も質は悪くないのだろう、彼の経験にない抱擁感とでも言えるものを覚えていた。
――現実か、ここは。
なんとか体を起こそうとして右腕を柱のように立てて力を込めようとし、予想以上にそれがかなわないことを瞬時に知覚した。
イナは過度な睡眠が原因だろうと仮定し、そのまま続行する。
視点が変わったところでもう一度部屋を見渡す。
特にこれといった設備は見受けられない。
全体的に洋風で、無知ながらに、豪勢だとは言わないまでもほどほどの高級さが感じられる。
彼の日常とは相容れない雰囲気だ。
そして彼は、この雰囲気に既視感があった。
といっても大したものではないのだが。
「……ホテル?」
過去、県外へ旅行した時に泊まった宿にどことなく似ていたのだ。
記憶もおぼろげなため正確な内装までは覚えていないものの、こんな感じだったと思えるくらいの印象は残っていた。
しかしながら、なぜここにいるのか。その答えは見つかりそうもない。
意識を失う前、最後に刻まれたものはなんなのか。
目元のヤニを落としながら、イナは脳裏に問いかけた。
すると即座に映し出されたのは、シャウティアに乗っていた自分が、ゼライドの駆る蒼いエイグに圧倒された光景だ。
彼は連合軍から、反連合を掲げる組織であるPLACEからのスパイであると疑われた。
ゼライド曰くそうであるらしく、イナは居場所を奪われたのだ。
――死んだな。
ゼライドが残したその言葉が、妙に際立って響いた気がした。
微かに聞こえただけの筈であるにもかかわらずだ。
「……なんで、生きてるんだろうな」
自嘲の念を込めた自問。
無答で当然なのだが、今の彼にはそれが正答であるように感じられていた。
むしろ、それを求めていたとも言える。
死にたかったわけではないが、苦しむくらいならばいっそ跡形もなく消してくれればよかった。
そう思いかけて、イナは大きく首を振る。
――それは、違う。他人に面倒事を押し付けてるだけだ!
消えたい気持ちが嘘とは言い切れない。
だが、心の中で生まれたその考えは、まるでイナの本心であるかのように囁くのだ。
否。あるいは実際に本心なのかも知れない。
「……違うッ!」
「ひっ!?」
思わず叫んでしまったすぐあとに、音の籠ったような悲鳴が聞こえた。
部屋の中でないとすれば、外か。
イナも驚きのあまり、聞き間違いでないかと思いながら、音のした方を見たまま硬直している。
外にいるらしき人間もそうなのか、なかなかそれ以降音を立てない。
本当に聞こえたのか、外に出られるのか、それを確かめるためにも彼は恐る恐る立ち上がり、出入り口と思しき扉に近づく。
そしてドアノブに手をかけた瞬間。
「あの、起きてますか!」
扉の向こう側から、声がした。今度はハッキリと聞こえた。
声の主は、雰囲気だけで言えば変声期を経たかどうかといったくらいの少女らしい。
静電気でも走ったように反射的に手を引っ込めたイナは、しばらく思考が止まっていた。
そしてすぐ、思い出したように意識が戻る。
「お……起きてます」
乾いた口を開いて、出迎えようとドアノブを開く。
まさか銃でも突き付けられまいかと警戒しながら、隙間から顔を覗かせる。
と。
「あ、あの。おはようございます」
扉の向こうにいた少女も同じようなことをしていたらしく、望まずとも二人は顔を合わせることとなる。
さすがにもう相手の姿が見えていたために驚くことはなかったが、妙な気恥しさで、イナは無意識に目を逸らしていた。
「お、おはようございます」
ちらとみた少女は、金髪に碧眼。
色だけでは判別できないが、顔の輪郭の形を見るに日本人ではないらしい。
どこか大人びた雰囲気がありながら、声や服装、体つきからはイナに近い年齢相応の幼さを感じる。
ふとイナが視線を下にずらせば、彼女はお粥の入ったお椀と木製の匙を載せたトレイを手に持っていることに気づいた。
「あ、これ。寝起きじゃそんなに食べられないかなって、軽いものを用意してみたん……ですけど」
どうですか、とぎこちない様子で差し出す少女。
何にとはわからないまでも恥じらう様子は愛らしく、イナの頬が僅かに染まり、また目を逸らしてしまう。
腹は減っている。
断る理由はないのだが、イナは緊張から正直に欲しいと言えずにいる。
少女の方は、イナの反応を待って苦笑している。
いらないならそう言ってほしい――そういうような表情だ。
「……あの、いらないわけじゃないんですけど。色々聞きたいことがあるというか」
言った後で、イナはしまったと思う。
もしかすると、変な口説き文句に聞こえてしまうかもしれない、と。
さすがに杞憂だろうが、互いに緊張に恥じらい合っている現状では、そう見えてしまいかねない。
少女もそう思ったのかは定かではないが、どことなく答えにくそうにして、うんと頷いた。
「あんまり話せないかもだけど。入ってもいいかな?」
「ん、ああ……」
歯切れの悪い返事をして、イナは少女が入れるように道を開ける。
そして彼女が入室したのを見て、扉を閉じてベッドの方へと向かう。
既に彼女はミニテーブルにトレイを置いて、イナを待っているようだった。
――ていうか、なんでお粥?
お粥といえば、風邪などの病気を患っている者が主に食べるもの、という認識だ。
寝起きのせいでで多少気怠く空腹なのは確かだが、イナはそんなものを食べる必要があるほど弱っている自覚はない。
「あの、呼んどいてなんですけど……無理してませんか? その、結構な間寝てましたし」
「え?」
心配そうな顔をして様子を伺うような少女の言葉に、イナは眉間にしわを寄せた。
結構な間と言うからには、7時間やそこらの一般的な睡眠とは異なるはずだ。
「俺、そんなに?」
「う、うん」
少女は珍しいものでも見ているかのような眼差しだ。
「ええと……だいたい、一日くらい、かな?」
そんなはずは、と言いそうになる。
実際にそれほど寝た覚えがないから何とも言えないが、この気怠さは特別何か不快なものや危機を覚えるような感覚は含まれていない。
イナにとっては、通常の睡眠から、悪夢を経て目覚めたというだけだ。
それ以前に、イナは今までどれだけ疲れていても、一日中寝たことなどない。
――アニメじゃあるまいし。
これも口にしようとして、偽りなく見える少女の顔がそれを留める。
「……ごめん、おぼえていない」
「あ、ううん。気にしないで。それより、冷めないうちに食べて食べて」
段々と互いに口調が崩れつつあることにも気づかないまま、イナは促された通りに椅子に座り、匙を持ってお粥に向き合う。
見るだけで口内に唾液が溢れてくる。
多少味をつけただけの、べちゃべちゃの米――というくらいの印象しかもっていなかったが、空腹というスパイスはそれを一気に覆している。
まるで麻薬のようだ。
「じゃあ、いただきます」
柔和な笑顔でどうぞと応えられ、イナは慣れない感覚に抗いながら匙を手にもつ。
見られながら、かつ自分だけ食べるというのはこれが初めての経験だからだ。
やや冷めてしまっているが、まだ熱は残っているらしく湯気がゆらいでいる。
それを曲線の弱い匙ですくって口へと運ぶ。
舌の上に乗った瞬間、得も言われぬうまみが――とまでは、さすがにいかない。
味は薄めだが、出汁が効いて適度な塩分も感じられる。
梅干しは乗っていないようだが、いかにも病人が食べるものといった感じだ。
それでも今のイナにとっては御馳走にも思えるものだ。匙を動かす手は止まらない。
いつの間にやら、米粒一つ残すことなく完食していた。
「……ごちそうさま」
心の底から感謝するように手を合わせ、呟くような声量で感謝の念を述べる。
正直なところ彼はもっと食べたく、実際に食べられたのだが、さすがにそれを口にするほど不躾ではない。
「ごめんね、量も少なくて、味も薄かったでしょ」
申し訳なさげな少女の言葉に、イナの顔には素直に肯定の二文字が浮かぶ。
それでも反射的に「あ」だの「え」だの言わないだけ、マシだが。
「いや、その。俺にはこれくらいで大丈夫っていうか……」
言いつつ、それが彼女側にはフォローになっていないのではないかと思い至る。
そうなると、段々と彼の声もフェードアウトしていってしまう。
「ありがとう、もうちょっと料理ができたらよかったんだけど。お姉ちゃんに怒られるかもしれないから」
「は、はあ……」
その姉のことは知らないが、彼女の口ぶりからして、厳格な性格なのだろう。
イナの方はそれ以上に話を広げることができず、話題転換のためのタイミングを計って沈黙している。
少女の方も同様なのか黙っていたため、実行することにした。
「あの。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「え? あ、うん。いいよ。私に答えられるかはわからないけど」
予防線を張られたが、それはただ無知だからというわけではなさそうだ。
イナは構わず、疑問を口にした。
「ここは、どこなんだ?」
「ええと……PLACEは知ってる?」
どういう意図かは計りかねたが、事実だけで言うのならばその通りだ。
PLACEとは、連合軍と戦う武装組織だ。
その内情までは詳しく知らないまでも、その言葉に対応する単語が何かは知っている。
ので、イナは首を縦に振る。
すると少女は、どこか驚いたような表情を見せ、何かを自分の中で確かめるように顎に手を当てた。
「それで、ここは日本にある基地なの。日本支部って呼んでる」
「日本なのか、ここ?」
少女は首肯する。
「それで――ああ、そういえばまだ自己紹介してなかったね。私はシエラ」
「俺は。ええと、イナだ」
相手が名前だけならこちらもそれも合わせるべきだと思ったようだ。
「イナくんね。それでイナくんは、日本人なの?」
「……だと、思うけど」
――そういえば、この子も日本語だ。
単純に学んでいる、というだけで片づけられる疑問ではあるだろうが、わざわざ学んでまで使いたい言語ではないだろうとイナは思っている。
そんな物好きに、イナは既に何人にも会った。
――偶然、なのか?
自身の中にある常識が崩れそうになる。
しかしイナの中には、英語の知識や記憶が確かに蓄えられている。
――そういう世界、なのかな。
一先ず出せた結論はそんなところだった。
このようにイナが考えを巡らせている間、シエラと名乗った少女はイナの顔を、正確には首から上を様々な角度から見つめていた。
「な、なんだ?」
呆けていてその視線にようやく気付いたイナが、恐る恐る問いかける。
見た目にはあまり気を遣っていないから、じろじろと見られるのはむろん慣れていない。
そうでなくとも、目のことがあるのだが。
「あ、ごめんね。日本の人……なんだよね?」
「……そうだけど」
返事はほぼ反射的に、不機嫌を織り交ぜたものになる。
目が変なのか、そうなのかと、無意識に視線だけで問いかけてしまう。
「ああ、ごめん。特別な意味はないの。ここ、日本の人ってあんまりいないから」
「日本の支部なのに?」
「大体がヨーロッパが起源の組織だからね。日本の人は、この戦争にあまり関係がないから」
「……ふむ」
と、今度はイナの方が顎に手を当てる。
知らないことの方が多いため、万が一嘘であろうとひとまずは吸収するほかない。
もしも似たような情報を得てその矛盾に気づいた時、彼はどちらを選ぶのか。
そこまでの決断力は、おそらくないだろう。
「ほかには?」
促され、イナは自身に問いかけ、新たな疑問を芽生えさせる。
「なんで俺はここに?」
「――それは、私達から話させてもらおう」
シエラのものでない声が出入り口の方から聞こえ、イナは警戒心と共にそちらを向く。
そこには、腕を組んで壁にもたれかかる女性の姿があった。




