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第25話「離別、それとも」:A3

 自宅に戻ったイナは、しかしそんな感覚はなかった。

 長く過ごしてきた家にもかかわらず、もう二度と帰ることはないのだと思うと、途端に他人の家であるかのように思われたのだ。

 それでも家の鍵の開け方、入り方、靴の脱ぎ方――それらがすべて自然に行える。

 まるで形だけそっくり真似ただけの異空間に迷い込んだように、理性だけがかすかな違和感を訴えていた。


(……俺の部屋)


 ふと、本来の目的とは別で気になり、自室へと赴く。

 何ら変わりのない、まるで整理されていない部屋だ。

 ここもそうだ。

 一番自分の匂いが染みついているはずなのに、他者の部屋に入っているという感じがしてならない。

 多少は時間があるため、せめて少しでも片付けようかと思ったが、そんな気分にはならなかった。面倒だったというわけではない。

 今更になって整然とさせようとしている自分が、情けなく思えたのだ。


(……書置きくらいなら)


 とはいえ手頃な紙がすぐに用意できているわけもなく。

 仕方なく学校の鞄からノートを取り出し、ページを破ってペンをとった。

 そこまではよかったのだが、何を書けばいいのか、パッと思い浮かばなかった。

 先ほど言えなかったことを?

 陳腐に思えて手が進まない。


(………)


 結局、内容の多さよりも密度なのではないか。

 ただ自分がそこにいたという証がそこに残れば、何でも良いのではないか。

 だとして、やはり何を書くべきか。


 ふと、思い出されたのは。

 架空の人間が、主人公にあたる人物に対して残した短い手紙。

 5文字の言葉を、二つ並べることになる。

 だが、やはり迷う。

 こんな時に、真似事で済ませてしまっていいのかと。


(……違う)


 陳腐だとしても、真似事だとしても。

 この言葉が元々持つ意味は、使う人次第で変わる。

 器を借りるだけだ。


 シャープペンシルでは消えてしまうような気がして、ボールペンに持ち変える。

 意を決して書き出すが、今さら字の汚さが気になってしまう。

 だが、修正したりする気にはならなかった。

 提出物ではないのだ。

 文字として伝わればいい。




 簡潔に書き終えたイナは、入ることなどまずなかった父の書斎に入った。

 書斎と言っても使っている様子を見たことはなく、実際、部屋の中も机と古そうな本が並ぶばかりで各所が埃をかぶっていた。

 が、机の周りは妙に整理されており、そこにはわかりやすく便箋と小さな箱が置かれていた。

 すぐに、それが父の示したものだとわかった。

 恐る恐る、手に取って確かめる。

 父の書く字も、言われてみればまじまじと見たのは初めてだ。

 達筆ながら、読めないというほどではない。

 伊奈は時間も忘れて、読み始めた。




■                       ■




 伊奈へ。


 15歳の誕生日、おめでとう。言いそびれてしまったこと、手紙でしか言えないことを、まずは謝らせてほしい。

 何を書こうか迷っていたが、手紙を書く経験はあまりなかったので、ありのままを伝えることとする。


 もしかするとどこかで聞いたかもしれないが、伊奈は私達の産んだ子ではない。

 母親の瑠羽は不妊を患い今後に迷っていたところで、養子という選択肢を検討していた時だった。

 この時代にもかかわらず、育てることが難しいという勝手な理由から施設に預けられていた子を見て、伊奈を見つけた。

 他の子にはない、綺麗な薄緑の瞳。

 自分では異常だと嫌っているようだったが、私達はそれに惹かれた。それもまた、勝手だと思うことだろう。嫌われて仕方のないことをしたという自覚はある。


 正直、思いもよらないことは何度もあった。全く悔やむことが無かったと言えば嘘になる。

 それでも、どれだけ辛いことがあっても。

 生きることを諦めない姿に、私達も背を押された。

 そこに子供や大人は関係ない。心の底から、生きるということを改めて考えさせられた。

 だからこそ、今日まで精一杯のことをしてきたつもりだ。

 そのやり方が正しかったのかは分からないが、きっと。

 私達の子ならば、強く生きていける。

 もちろん、一人でどうにかできることは僅かだろう。仲間を頼ることを忘れずにいなさい。

 託せるほどのものはないが、こうして今日まで生きてきたことが、私達の子であったことの証であると、私は思っている。

 どうか、少しでも長く生きなさい。

 生きて、多くのものを見て、経験を積みなさい。

 そうすれば、いつか自分を愛せる人間になれることだろう。


 胸を、張りなさい。

 失敗に負けないように。




■                       ■




 考えが、まとまらなかった。

 衝撃もあれば、気恥ずかしさや、悲しさも勿論あった。

 いろんな感情がないまぜになって、簡潔に感想を述べることができない。

 ただ、そう思ってしまうほどの文が書けるということは。

 イナは間違いなく瑞月夫妻に育てられた子であるのだろう。


 不思議と、涙は出てこなかった。

 それを嘆くこともなく、イナは便箋を畳んで懐に仕舞い、自室に戻って短文を並べただけの紙切れを代わりに置いた。


 父への恨み言の一つでも書けばよかったかと一瞬よぎるが、後からゴテゴテと付け足しては余計に伝わらなくなってしまうと、とどまる。

 故にイナは、それだけに思いを込めて、余計なものをそぎ落として、あとは受け手に任せることとした。


 単純な、二言。




『ありがとう』、




『さようなら』と。





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