第24話「決断の水沫」:A4
父の運転する車に揺られながら、伊奈は窓の外の景色を見ていた。
こうして父の車に乗ったのはいつぶりか分からないが、最後に乗ったときも今のように静まったままだった。
あの時と違うのは、自分の状況。
知らない人に連れられているのではないか、という根拠のない疑念が未だに付きまとっていた。
市内の景色が流れるのを見ながら、市街地の中を流れる川がふと目に入る。
『あの日』にも流れていたのだろう。
聞いた話では、水を求めた者たちは川に飛び込んだりもしたのだとか。
そう思うと、ただの川からも目を逸らしたくなる。
「……伊奈、残念じゃったね、全部見れんで」
「…………ん」
沈黙を嫌う瑠羽の言葉に、伊奈はにべもなく低く鼻を鳴らして応えた。
別に母が嫌いでそうしているわけではなく、それ以上何を言えばいいのか思いつかないのだ。
(……もう少しでいなくなるかもしれないのに)
様々なことが、伊奈の中でめぐっていた。
『あの日』のイメージや、これから来るという刺客、帰れるならばあの世界に帰りたいか――どれも、考えたところで答えはすぐには出せないし、考えようにもすべてを同時に考えようとして、一向に進まない。
(いや……刺客に関しては、俺が動くしかないんだ)
誠次たちはそうは言わなかったが、この世界にエイグはシャウティアしかいない。
応答がない愛機だが、さすがに存在しないものに期待はしていないだろう。
伊奈の危機には訪れるはずであろうから。
(今来たら、どうなる?)
車を飛び出して、孝一らの前でシャウティアを呼ぶのか?
(――ああ)
その仮想を見てようやく、伊奈は気付いた。
未知の兵器を呼び出し、未知の存在と戦う。
それを見られてしまうということはつまり、それまでの世界とは決別することを意味する。
たとえ、この世界に残ることを選んでも。
もうこれまでと同じようには、過ごせなくなくなるのだ。
つまりは、あの世界に帰るほかない――伊奈は、そう思い至った。
(何が『君の選択が全て』だ……こうなるって最初から分かってたんだ)
途端に、なけなしのやる気が失せていく。
思考が停止していく最中、退屈な時間を延ばすように車が止まった。
もはやそれすらどうでもよく、このまま着くまで眠ってしまおうかと思った矢先に、遠くからクラクションが聞こえてきて阻害される。
何事かとフロントガラスの向こう側を見やると、どうやら交差点の周りで車が長蛇の列を作っているようだった。
海田大橋の付近は車線に併せて車通りも多い道路で、平日でも混むのはよくあることなのだが、どうやら様子が違う。
事故でもあったのかと適当に思い込んで、クラクションも無視して無理やり寝ようかとしたとき。
この世のものではない獣の咆哮が、辺りに響き渡った。
「――ッ!!?」
車のみならず体もしびれるように震え、眠気など忘れさせられる。
尋常でないことが起きたのは確かだ。
視界を狭める窓ガラスを開けて、身を乗り出して辺りを確認する。
「伊奈!」
孝一がそれを諫めようと運転席で声を上げたが、手を出しはしなかった。
伊奈と同時に、父もそれを確認したのだ。
海田湾に立つ、巨大な黒龍の姿を。
「……ッ」
驚きつつも、確信があった。
あれが『刺客』だ。
伊奈を狙っている――否、まだ捕捉してはいないようだが。
その姿を見た瞬間、伊奈は恐怖してしまった。
あんなものと戦わなくてはならないのか、と。
明らかに生物的な姿であるからか、頼れる味方がいないからか。
自分が戦うしかないと思いながらも、愛機を呼ぶ気にはならなかった。
そんな伊奈の躊躇を察知してか、不意に黒龍が此方を向いた。
黒龍は顎を開いて喉の奥で何かを光らせながら、少しずつ近づいてくる。
動き出したことでいよいよ混乱が伝播し、信号も構わずに車を動かそうとする者、車を降りて逃げ出す者、家屋から飛び出していく者――怒号や悲鳴の混じった不協和音が、先ほどの咆哮に負けない勢いで辺りを支配していく。
(なんだよこれ)
ここは、あの世界ではない。
自分が元々過ごしていた、『現実』の世界であるはずなのに。
(なんなんだよ、これ!)
目の前で起きているのは、明らかに突飛で。
放っておけば、皆の『現実』を壊すモノであるのは間違いがない。
「……伊奈、逃げるぞ!」
シートベルトを外した孝一が、困惑を交えながら言う。
何が起きているかはともかく、このままでは危険だというのは確かだ。
伊奈は半分呆けながら、周りに気を付けながらドアを開けて、両親とともに歩道に駆け寄る。
もはや道路も何も構わず人が駆けているが、伊奈がふと立ち止まってしまったのは、そこに流されるのを躊躇ったからではなく。
選択を迫られていると、感じたからだ。
「伊奈、何をしとる! ……伊奈!」
呆けている息子に何度も呼びかける孝一に、伊奈は後ろ髪を引かれる。
だが、このままでは多くの犠牲が……あの時見た夢のような光景が、ここにも広がる可能性がある。
――捨てるしかないんだ。この世界の自分を。
いつぶりだったか、自分の中から湧き上がる声が伊奈にそう囁く。
「俺は……」
――捨てなければ、もっと多くのものが失われるぞ。
(それは、事実だ)
戦えるのは伊奈だけ。
わかっているのに、身体が動かない。
呼び出すための声が出ない。
――なら、この場にいる全員をお前が殺すんだな。
(違う……違うッ!)
――なら、叫べ! 呼べ! それができるのはお前だけだ!
(俺が……俺が……ッ)
視野が狭くなり、呼吸も荒くなり。
「シャウ――――……ッ!!?」
力任せに叫ぼうとした、その瞬間。
別の巨大なものが、またもその場に現れた。
水しぶきを上げながら見せたその姿には覚えがある。
エイグだった。
「な、んで……!?」
装甲の形状の違いから見覚えのあるものではないが、雰囲気はいくらかカスタマイズされたエイグそのものだ。
しかしこの世界で、エイグの入った小隕石群が落ちたドロップ・スターズは起きていない。隠されていたと片付けるにしても限度がある。
だとすれば。
(俺以外に、転移してきた人がいる……!?)
その紫色のエイグは腰にライフルを携えながらも、周囲への影響を気にしてか使用する気配はなく、あくまで素手で黒龍に立ち向かっていく。
伊奈はそれを、呆けて見ているだけだった。
「イナ君」
そんな伊奈を気付かせたのは、いつの間にかそこにいた孝一だった。
周りを見てみれば、とっくに人の波は遠くなりつつあった。
むろん、孝一と瑠羽はそこに残り、悩ましげな表情をしながら、誠次と息子を見守っていた。
「君が望まないのならば、戦う必要はない。その用意があるからだ」
話している間にも、後ろで二つの巨体がしぶきを上げてぶつかり合っている。
だがエイグの方は周囲に気遣うことに注意を削がれているせいか、抑えつけるので精一杯のようだった。
時間を稼いでいるのか、あるいは別の理由があるのか。
「……この先、あんなのが来ない保証は」
「できない。その時は必ず戦いになる」
「……こっちの世界にいても、誠次さんたちの目的は果たされるんですか」
「おそらくは」
「……いつか、こっちに戻ることはできますか」
「……転移させるのは僕ではないから、約束はできない」
病院にいた時は思いつかなかった質問がスラスラと出、誠次は端的に答える。
完全に信用できるわけではない。
だが、妙な割り切りはできてしまっていた。
それを言葉にするのは容易ではなかったが、背後の戦闘音が伊奈に決断を迫る。
鼓動が、激しい。
正常な判断を奪うかのように、その音が内側にけたたましく響いている。
それ自体は、緊張しやすい彼にとっては珍しくないことだったのだが。
選択を、迫られていた。
どちらの恩に身を任せるのか。
どちらの地獄で戦うのか。
どちらの自分を真と認めるのか。
その選択に、きっと意味はない。
正しさがないために、間違いだったと思い込むかもしれない。もう一つの選択が頭から離れなくなるかもしれない。
後悔したとしても時間が薄めていくだろう。
それでも彼は、苦しみを覚悟して選ばなくてはならなかった。
無意味に思える選択に、意味を持たせなくてはならなかった。
「時間もない。聞かせてもらおうか、君の答えを。帰るべき場所がどこなのかを」
誠次の声は、圧力をかけるものではなく、ただ問いかけているだけの平坦なもの。
しかしその自由がむしろ、重圧となっていた。
責任を押し付けることができず、自分で考えなくてはならないからだ。
「俺は。俺は――」
戻るか、残るか。
正常とは言えない状態の中、彼は決断した。
「――戻ります、あの世界へ」
決意を込めた言葉と振り上げられた手に応じ、赤白の巨人がようやく姿を現す。
そして故郷の水飛沫に混じって――
涙の欠片が、宙を舞った。




