第24話「決断の水沫」:A2
伊奈は、田舎にいた。
少なくとも彼の知識において、これほど背丈の低い建造物が並ぶ場所は、田舎という他なかった。
しかし周囲の人ごみから鳴るざわめきが、次第にここが中心街なのだということを理解させていく。
見渡してみれば、伊奈も広島市街で見たことのあるような石造の建造物も見当たる。
(……ヒロシマ……?)
この状況が、彼に答えを与えていた。
割烹着か着物のようなもの、やたら厚手に見えるスーツ、ステレオタイプな探偵のような人々の服装や、やたら西洋的に感じる建物の意匠、逆向きの文字、今のようには舗装されていない道路。
誰かに伝えられたわけでもない。ただここが、広島だった場所ということだけがわかった。
(……見えて、ないのか?)
きわめて現代的、否、未来的というべき伊奈の姿を見て何も思わないのだろうか。
それどころか、往来のど真ん中で突っ立っているだけの人間を疎ましく見ようともしない。
(……地面は、触れる)
立っている感覚がある時点である程度はここにいるのだろう。
試しに歩いてみたが、ちゃんと踏めている。
人に触れられるかも試してみたかったが、実験に興味を向けている場合ではない。
(なんで、ここにいる……?)
一瞬の間に別の場所にいる、という経験は短い期間の間に何度もしてしまったが、慣れているわけではない。
ひとまず自分の中の記憶が、資料館の中で止まっていることを確かめる。
(誰かがここに連れて来たのか……?)
あるいは伊奈にそんな力が備わっているのか。
分からないが、ひとまずすべきことは何かを考えようとして、気づくことがあった。
忙しなさそうにしている人々は、なにかに怯えているか、焦っているように見えたのだ。
何事かを尋ねようにも、おそらく伊奈の声は届かない。
(……誰かの意図で、この状況を見ているのだとしても)
あるいは、伊奈の興味がこの幻想を見せているのだとしても。
(この場所、この状況で起こることは……)
容易に想像はつく。
だがそれを目の当たりにする用意は、やり方もわからないのだからできているはずもない。
むろん、伊奈を待つほど時間があるわけでもなく。
ほどなくして、遠くで何か羽ばたく音が聞こえてくる。
太陽を背にした影は黒く、カラスか何かと見間違えそうになるが。
あんな高度で飛ぶカラスは見たことがない。
「ッ!」
本能的にその正体を悟った伊奈は、頭の片隅で記憶された架空の叫びが思い浮かぶ。
――リトルボーイは駄目だ。
「……ぁ」
手を伸ばそうと、届かせようと、体に宿った愛機に呼びかける。
しかし体を鎧が覆うことはない。
覆ったとして、何をしようとしているのか。
何ができようというのか。
……光が、空を裂いた。
途端、竜巻の中に放り込まれたような衝撃と風の奔流に見舞われる。
幸い伊奈にそれが直接的な感覚として襲ってはこなかったものの、視覚的な情報からそうだと錯覚してしまう。
自分が立っているかもわからない。
「……ッ!?」
時折、建物の破片と共に人が吹き飛ばされていくのが見えた。
人の形を保っているのならばまだいい、身体の一部しか確認できないものもあった。
「あ……ぁ、ぁ……!」
火の魔物にかき消された絶叫が頭の中でこだまする。
助けを求める余裕もない、ただひたすらに未知の脅威に虐げられているばかりの叫び。
命が、奪われていた。
やめろ、と言いかけて、もはや言葉でどうにかなるものではないと悟る。
「…………シャウ、ティア」
もはや、伊奈も助けを求めていた。
次第に風と砂塵が止む中で、それでも愛機は応えてはくれない。
それから、どれくらい経った頃か。一瞬だったかもしれないし、長い間だったかもしれない。
気づいたときには、伊奈は別世界にいた。
むろん、比喩であり――伊奈はそこから大きく移動はしていない。
同じ場所にいたはずなのに、一瞬のうちに辺りの景色が変わってしまった。
文明が全て瓦礫と化した、黒煙と炎が漂う地獄に。
「なんだよ……なんだよ、これ」
目の眩むような状況の変化に頭が追い付かない。
ただ、推測ばかりは冷静だった。
(……落ちた、のか)
空は青さを垣間見せている。
ただ妙なことがあるとすれば、異様に大きな雲が付近から立ち上っていることと、黒い雨が降っていること。
「――助けて、くれぇ」
それに圧倒されていた時、不意に伊奈の耳朶に呻き声が届いた。
自分は見えていないはず。そう思っていた伊奈が、恐る恐る振り返ると。
全身をひどく火傷した男が、伊奈に手を伸ばしていた。
「ひ――」
先ほどジオラマで見た人形と重なり、伊奈は咄嗟に退いてしまう。
だが、また逆の方から、呻き声を上げながら人が寄ってくる。
「みず……水を……」
被爆の火傷による急激な脱水症状。
それで水を求め、人によっては川に飛び込むのだという。
しかし、自分は水を持っていない。そう思った伊奈に、記憶が自分を主張するように囁く。
(実体化の力で……)
気付く。水ならば過去に実体化したこともある。
だが、単に水だけを実体化しても飲ませるには適さない。
(紙コップくらいなら……)
乱された精神の中で集中し、なんとか望んだものを生むことができた。
何か伝染病に侵された患者のように見えつつも、伊奈はそれを恐る恐る最初に近づいてきた男に差し出す。
見慣れないらしい容器にやや動揺しつつも、男はそれが水だと分かると焦るようにそれを口に運び、ぎこちなく喉を鳴らしていく。
(……人間なんだ)
恐ろしい、と思ってしまう姿になっていようとも。
目の前にいるのは、間違いなく人間なのだ。
痛み、恐れ、焦り、現状を受け止め切れていないだけで。
「あぁ……」
ふいに男の手から紙コップが離れ、地面に転がった。
「ありが……とう」
男は言い残し、倒れた。
伊奈は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
この黒い雨が不意に混ざってしまったことで、有害な水になってしまったのだろうか。
否、男の表情は穏やかだった。
望みが叶い安堵して、息絶えたということか。
しかし。
伊奈にとっては、目の前で死んでしまったという事実ばかりが強調される。
(……俺が、殺した?)
直接的な原因ではない。それでも、最後にかかわったのが自分だというのは確かだった。
「わたしにも……みず……」
「ひッ!」
鼓動が跳ねる中、心臓が止まるような思いをする。
気付けば辺りには、伊奈に助けを求める者たちが集まりだしていた。
黒い雨が地を叩く音、瓦礫の下敷きになった者に咽び泣く者の泣き声、何かに縋ろうとする者が上げる声。
それらが混ざり合い、混沌を成し、今にも伊奈の意識を裂かんとしていた。
逃げてしまいたい。一方で願いに応じたいとも思う。
しかしそうして応じることで、死を早めてしまうのだとしたら。
「はぁ……ッ、は……ッ!!」
選択を強いられ、呼吸が荒くなる。
急かすように鼓動もまた速くなり、その間にも求める者は増えていく。
「……ぁあぁあああッッ!!!」
迷いを払うように自棄気味に叫んだ伊奈は、周りに水の入ったプラスチックの桶をいくつも実体化していく。
そして乱暴に散らかすように、雑に紙コップを実体化し地面に転がす。
伊奈の意図を外れ直接桶の方に向かう者が多かったが、もうそこまで意識する余裕はなかった。
伊奈は、逃げ出していた。
自分に向かって声がするたび、雑に実体化して水の桶だけを残して去っていく。
どこまで走っても、それが続いた。
瓦礫や、時には生々しい柔らかさを踏んだこともあった。
その感触が足に残り、見えないものに引っ張られているような気さえした。
(わからない、いやだ、いやだ、いやだ――)
このようなことは、未だ幼い彼には刺激が強すぎる。
しかし、彼が無防備に知りたいと思っていたことだ。
このようなことが起こるのが戦争。伊奈が見たのはその一片に過ぎない。
これを経て何を想うかなど、今は問うべきではない。
もはや無我夢中に、半端に狂うので精一杯だった。
不意に前方に現れた光から、腕が伸びる。
それを救いだと思った、思い込んだ伊奈は、そこに向けて飛び込んだ。




