第24話「決断の水沫」:A1
広島という場所を象徴するものの一つ、広島平和記念資料館。
石畳で陽炎が踊る暑さの中、学校指定の帽子を被った数十人の学生が資料館の入り口付近で座り、引率の教師の話を話半分に聞いていた。
「皆さん今日は社会見学で来ましたが、一般の方も来館されています。他の方の迷惑にならないよう、静かに、落ち着いた行動を心がけてください」
付近の木々で喚く蝉々も相まって暑苦しさが増す中、教師もうんざりなのだろう、端的に今日の目的を話すと早々に移動の指示を出していた。
そんな中、伊奈はと言えば。
一応は集団に混ざっている風にしながら館内に入り、適当なところで別れて単独行動を始めていた。
どこにいようが、誰かの視線がある。
それならどこにもいないように振舞えば、いくらか気にしなくても済むだろうと思ったのだ。
それでも気になるものはあったが、何よりも伊奈はこの日を少しだけ心待ちにしていた。
無論ながら決してここが娯楽施設ではないことは、伊奈も承知している。
仮にも戦争をしていた人間の目に、実際に起きていた戦争の痕跡がどのように映るのか――そこに興味があった。
伊奈は自分の行いを省みるとともに、身近に残る歴史を見ようとしていた。
この場所で育った者として、仮にも戦いに身を投じたのならば、再び戦いに身を投じようとするのならば。
自身の行いの持つ意味の一面を知っておかねばならない。おぼろげながらそう思っていたからだ。
伊奈の帰還から、一週間が経過していた。
チカによって体調を崩してから今日に至るまで学校を休んでいたが、今日から登校を再開することとしていた。
人が変わったように学校を休むことを肯定する両親を不審に思わないでもなかったが、本格的に身体への影響が出たことで事の重大さを知ったのだろうと、伊奈は思っていた。
加えて今日の社会見学には参加したいという都合の良さも、両親は許していた。
伊奈の意図を察したチカの口添えがあったことに加え、先日悠里夫妻が家に来ていたという話を聞いていたため、おそらくはそこでも何か考えを改める切っ掛けがあったのだろう。
まるで死を待つ厄介者に、その時だけ手厚く接するような――などと冗談が思い浮かぶくらいには、心にいくばくかの余裕も生まれていた。
組ごとに別れて入館していく中、伊奈はつかず離れずほどの距離を保つ。
付添の教師も一瞥して伊奈の所在を確認するだけで、特に誘導をする様子もない。
いちいち何か言われる方が面倒だと思い、この扱いを受け入れつつある。
受付の女性に会釈をして入り、館内をざっと見渡す。
平日の昼間だからか若い人間はほぼおらず、代わりに外国人の姿が散見された。
(今でもわざわざ見に来たいところなんだな、ここ)
数少ない前大戦の傷跡を残す、平和の発信地。
どういう思想を持つにしろ、一見の価値がある場所という点は昔から変わりないらしい。
その間に、後ほど決められた時間に集合するということで、班ごとに自由行動が始まった。
むろん伊奈はどの班にも属していないため、社会性は養われないが単独で回ることができる。
とはいえ生徒でごった返していると思い、先に受付周辺の展示物を見て回ることにした。
早々に目に入ったのが、大きく展示された幼い被爆者の写真。
皮膚が少しただれており、周囲に形を残した建造物がほぼ残っていないのを見るに、これでも影響が少ない方だったのだろう。
正直、グロテスクで不快感があった。できることなら、長い間直視したいものではない。
しかし――それでも伊奈は視線を向け直す。
怖いもの見たさというよりは、直視すべきだと自分に言い聞かせて。
伊奈がシャウティアで行動すれば、この写真の子供のような存在を生み出すかもしれない。
PLACEの出した被害について詳細に訊いたことがないため意識することもなかったが、今までにこうした戦災者を出していないかと言われれば、決してゼロではないだろう。
どれだけ言葉を取り繕っても、彼らは目的を達成するために過激な行動を選んだテロ組織だ。
テロ組織、なのだ。
世間一般の常識を当てはめるならば、こうした被害者を生むのはPLACEの方――とまで思ったところで、違和を感じた。
少なくとも日本支部で過ごしていた限り、PLACEに兵民問わずみだりに命まで奪おう、それを利用しようとするきらいは見られなかった。
むしろがむしゃらに、泥臭く目的を達成しようとしていた。
言い換えれば自己犠牲的な性格が強いように思われた。
むろん伊奈に多くの経験があるわけではないから、勘違いしている可能性もゼロではない。
だが同時に、伊奈が知らないところで何かあくどいことをしている可能性もある。
可能性の話をし始めたら、キリはないのだが。
(……もしそれと直面したら、選べるようにはしておかないと)
他者の流れに合わせるだけでは立ち行かないこともある。
ゼライドの『大人の世界』という言葉が思い返された。
責任を自分で取るためには、やはり知識と経験が必要になる。
それを持たずに選択するということは、その後に相応の対価を支払うこととなる。
伊奈ならば、シャウティアやヒュレプレイヤーの力で補うことはできるだろうが。
そう思うこと自体、知見が不足していることの証左となっていることも否定できない。
拭えないものを感じながら、伊奈は周囲の生徒の進行状況を確かめる。
まだ付近に何人かいた為、もう少し展示物を見て回ることにした。
(それにしても……)
若い外国人入館者の姿が気になる。怪しいというわけではないのだが。
彼らの目に展示物がどのように映っているのか、それが気になっていた。
金髪碧眼というだけで米国人とは限らないが、いずれにしても他者の考えというものが気になっていた。
――そう思った瞬間。
『これが、日本の受けた傷……いや、行き過ぎた帝国主義への罰という見方もあるか?』
(……また!)
偶発的に聞こえる何者かの声。慣れつつあったが、今度は今度で妙なことに気付いた。
(なんで、日本語なんだ……?)
付随して伝わってくる情報もすべて、伊奈に解釈できる言語として伝わってくる。
そこでふと、遠目に知らぬ者をじっと見つめていることに気付いて慌てて視線を逸らし、聞こえてくる会話に耳を傾ける。
さすがに会話の内容まで聞こえるほど静かではないし、伊奈も著しく耳が良いわけではないが――日本語を喋っているわけではなさそうだ。
(翻訳されてる……? シャウティアが、エイグが手伝ってるのか?)
当然のように返事はない。
相変わらず不明なままの現象を追求するよりも、伊奈はこの時間が限られたものであると思い出し、ようやく順路に沿って足を進めていく。
大きな長机のような台に埋め込まれたディスプレイの前に立ち、前の利用者から次いで操作をする。
どうやら広島に投下されたものに限らず、原子爆弾に関わる歴史上の出来事を写真資料とともにまとめてあるようだ。
興味のある話題も少なく主に写真ばかりを見ていたが、そのいずれもが凄惨なものを映していた。
ただの実験でも、絶大な威力を発揮していたことが分かる。
(こんなのを使わないといけないほど、昔の日本は、盲目的だった……)
人のいない荒野や海上で実験的に放つのと、市街地の中心に実践的に放つのとでは話が違う。
直接的な被害者が、多く出る。兵民を問わず。
否。あの時代においては、民も兵と見做されていたのだろう。
少なからず授業で知識を齧った身としては、それを脅威や抵抗の意志と見るのも止む無しと思ってしまう。
それを鎮圧するための爆弾の投下を、肯定して――
(――ッ、違う!?)
自分の思考が危険なものであると思ったのか、伊奈は目を見開いて視界を霞ませ、頭を回転させることに集中する。
自分は仮にも、被害者の血を引く子であるはずなのに、と。
しかし、どこかで他人事だと思っていたのだろう。
何せ、被害を受けたのは伊奈ではないし、昨日今日の日本でもない。
間もなく100年前となる人々と、その街だ。
だが伊奈という人間はそれを納得していない――優しさというよりは、誰のものかもわからない人の目を気にしている。
肯定する意見も、世には存在しているというのに。
(……何か混同してる気がする。そうだ……戦闘行為は仕方ないとしても、原爆じゃないといけなかったのか?)
少しだけ平静を取り戻し、視野を広げるよう自分に言い聞かせる。
徐に、いつの間にか遠くなっていた周囲の音が近づいてくるのを認める。
幸い周囲から奇異の目で見られる前にその場を離れることができていた。
しかしすぐ、存在感の薄い表示がある薄暗いコーナーが近づいていた。
『一部刺激の強い展示物があるため、閲覧の際にはご注意ください』――その文字を前にざわつく生徒がおり、度胸試しの感覚で踏み入れる男子や、やたらと自分が恐怖していることを示そうとする女子の姿が見えた。
むろん、そうした展示物を見たくない入館者への配慮だろう、別の道も用意されていた。
しかし伊奈は、その先から淡く漏れる赤い照明に、ここに来た理由を思い起こす。
そして、生徒の波に乗ったふりをしてそこへ向かう。
どうやらそこは、被爆後の状況を再現したジオラマと、それに関連する実際の遺品を並べているようだった。
全体に薄暗さと赤の照明が演出していることもあって、雰囲気は暗い。
先に入っていた生徒が、お化け屋敷に入ったかのような感覚で友人を驚かす声も聞こえてくる。
実際――作り物であることが分かる程度のクオリティではあるものの、恐怖――不快感に似た感情を想起させるには充分だった。
服と共に焼けただれた肌、今にも零れ落ちそうな眼球、立っていることが信じられない肉の削げた足。
覚悟してきた筈なのに、目を細めて視線を逸らしてしまう。
体格的に、まだ子供だろうか。時勢からしてもう大人として働いていた可能性もある。
いずれにしても、この人形が今に動き出し、助けを求めてきたら。
……そんなことを考えられずにはいられなかった。
それも一つ二つではない、歩けば嫌でもジオラマがある。
当時の家庭を考慮しているのか、女性がどうしても多いように感じた。
その傍に展示された、実際の物だという遺留品。
既に多くの時間が流れ、ただでさえ辛うじて形をとどめているものが、余計に崩れているように見える。
これまで目にしなかったものに耐え切れず、逃げるようにしてようやくそのコーナーを抜けたかと思うと、今度は赤い照明のない、けれども薄暗いままの場所に辿り着く。
モノクロの写真に並べて、その人物に関連した遺品が展示されていた。
『魂の叫び』と名付けられたこの場所は、踏み入れた瞬間に妙な感覚をイナにおぼえさせていた。
(……人が、多い?)
薄暗いせいだろうか、正確な人数が分からないのは仕方がないのだが。
どうにも、それ以上に人がいる気がした。
長らく同じ展示物を見ているにしては、動きがなさすぎる。
一瞬先ほどのジオラマのような人形かとも思ったが、淡い照明にあてられてもはっきりと輪郭が見えない。
人ごみの中にいる感覚に陥りながらも、なんとか手近な展示物の許に寄る。
どうやら、手紙のようだった。
被爆した者が、遠くの家族に宛てたモノ。
しばらくの間生きていたものの、数か月ともたず亡くなってしまった――そんな背景を添えられて説明されている。
(……死んで、しまったんだ)
そう説明されたからか、あるいはその文面からにじみ出るものがあったのか。
途端に悲しさに似た気持ちが湧き上がり、それは間違いなく未知の複雑な感情だった。
その他にも被爆してから亡くなるまでの自身を書いた日記や、送られることのなかった履歴書など、死の前に残されたものだという一言が、伊奈の心をかき乱していく。
(死んだ、死んだんだ、この人も……)
先ほどまで原爆投下の是非を考えていたことをふいに思い出す。
(良い悪いじゃなくて、人が、死んだんだ。そこに、いた人が)
国の偉い人間が、何を考えていたかは二の次だ。
誰かの行いで、死んだ人がいる。
その死んだ人は、どうしても死ななくてはならなかったのだろうか?
当然、否定したいところである。
しかしそこで、余計な疑問が挟まれる。
もしも、それがどうしようもない悪人だったとしたら。
原爆とは関係ない話であるが、命の重さを考える彼には無関係ではなかった。
言わば彼自身、原爆のスイッチを持たされているようなものなのだから。
そんな大げさなものでなくともいい。
確実に対象の命を止める小さな銃の引き金に、彼は手をかけている。
その銃口の向く先に、悪人がいるならば。
その悪人が、伊奈にとってどうしても許せない相手だとしたら。
それでも命が大事だと叫び見逃して――再び誰かの命を奪おうとしていたら。
(俺は……)
無意識に、右手が銃を持つ形をとろうとする。
伊奈はそれを見て、自身がエイグの加護を受けた『脅威』なのだと思い返す。
(こんな人を、生み出そうとしてるってことなのか)
あるいは、もう生み出したのか。
分からないことだが、どちらにしても伊奈はもう、是非を問われる存在であるということだ。
賛同する者の為に戦い続けるか、非難する者の為に首を差し出すか。
仮にどうしても守りたいモノがあったからという目的があったとして、それが他者を傷つけてよい理由になるのか。
傷つけるものを鎮圧するために、自分が傷つける側に回るのは、矛盾ではないのか。
いつしか解消したと思っていた疑問が、湧き上がってくる。
そんな問いに、伊奈が簡単に答えられよう筈もない。
間違いだと言われれば、すぐに自分を疑い、そんな気分になってしまうような気弱な人間が。
また、彼は立ちすくんでいた。
その姿はただ、展示物に強い衝撃を受けているだけに見えるだろうか。
しかし、ただそれだけでないことを見抜いている者――否、者達がいた。
『… … え る … か ?』
「――ッ!?」
頭にノイズ混じりに響いた声々は、近くにいた人間の声ではない。
咄嗟に振り返ろうとした伊奈の視界を、何かが奪った。
それから間もなく、平衡感覚や、意識までもが何かに引っ張られていく。
一瞬のうちに、伊奈は暗闇の中に誘い込まれていた。
『き こ え る の か ?』
『み え る の か ?』
『そこに だれかいるのか?』




