第23話「明かされゆくもの」:A3
「イナっ!」
遠くから聞こえてきた、階段を駆け上がる音。
扉が開け放たれたかと思うと、息を切らして入ってきたのはチカだった。
伊奈の危機を感じて飛び出してきたのだろう。
「………」
チカは息を整えながら部屋を見渡し、何かに気付くとゆっくりと扉を閉めた。
焦点が合っていた時間が長かったのは、開いていた窓ではなくつけっぱなしのPC。
さすがに自殺を図ったとは思っていないようだが。
彼女は呼吸を整えて、伊奈に問いかける。
「眠れないの?」
「……うん」
聞こえたかどうかもわからない声量だが、チカは小さく頷いた。
おそらく、伊奈が実体化を用いて軽食を摂ったことは分かっているだろう。
彼女は何か意を決したように、徐に伊奈のベッドに座り込んだ。
腰を据える場所が欲しかったのか、と伊奈は思ったが、そうではないらしい。
彼女は、伊奈に向かって胸を開いた。
彼を腕の中に迎え入れるように。
「来て、イナ」
「来てって……」
この状況で冗談を言っているわけではないだろう。
意図ははかりかねたが、ひとまず彼女の隣に腰掛ける。
さすがに、彼女の胸の中に身を預けるのは憚られた。
刺し合った時のことを思い出さないでもないが――それ以上に、やはり異性として意識してしまう。
「気にしなくていいのに」
「……俺が気にするんだよ」
寂しげに笑うチカに、伊奈は俯く。
「……わかった」
傷つけた、という感覚がわずかに胸中にくすぶった。
自分を抑えつけて彼女を傷つけまいとすることで、かえって彼女を傷つけている。
それは伊奈にも分かっていた。
しかしながら、どうすればいいのかわからない。
そう悩んでいる時点で、袋小路になっていた。
もしも彼女がいなかったら。
彼女だけでなく、誰ともかかわらず、孤独を極めていたなら。
こんな風に落ち込むことも、なかったのではないか――そう思わずにはいられない。
だがそれは、これまで自分とかかわった人間一人一人と詰めようのない距離を置き、他者を傷つけ、本当は他者と共にありたいという自分の本心をも傷つける行為にほかならない。
そうと分かっていても、他者とかかわることによる傷は伊奈を苦しめる。
お前は欠陥を抱えた、出来損ないの人間だというように。
「ねえ、イナ」
物臭だったわけではないが、沈黙を返事に替える。
「『たらもればも無いんだよ。ここにいる俺たちが全部だ。苦しかったのも全部いまの俺達なんだ』」
「……っ」
少し真似をしたような声音と口調の起源には、覚えがある。
感情が暴走したチカを止め、最後の一押しをするときにイナが伝えたものだった。
「そう言ってくれたのは、イナだよ」
「……あの時は、何かおかしかったんだ。調子に乗ってたんだよ」
大きな力を手に入れ、頼られて。
違う自分になれた気がしていたというのは、あながち間違いでもないだろう。
チカもそう思う所はあるらしく少しだけばつが悪そうにしながら、補足しようと伊奈のほうに首をかしげた。
「あの時と、逆だね」
「え……」
あの時というのが、いつを指すのか分からず間抜けな顔をする。
しかしすぐ、同じ場面を想像していることに気付く。
「片方が頑固で。でももう片方はそれじゃ駄目だって、変えようとした」
言われてみれば、そうかもしれない。
思い出される当時の状況にいるイナは、伊奈とはやはり別人のように見える。
「大事なのはこれからどうするかだと、私は思うよ」
「……ッ」
この世界に戻ってきた以上、それを考えたほうが建設的であるし、前向きである。
少なくとも鬱屈して何もしないよりは、周りの目も気にしなくて済むだろう。
だが。
「無視できないこれまでのことは、どうしたらいい? 変な力に目覚めて、変な声が聞こえて。誰が見たって普通の人間じゃない俺が、普通の枠組みに入れるのか?」
「イナが、そう思ってるだけだよ」
「じゃあ違うのか!? お前は、俺が普通だって言うのか!?」
突沸した感情が溢れ出し、みっともなかったと自省しすぐに落ち着かせる。
「何が普通かどうかなんて、子供の私には分からないよ。けど、周りの人と同じことをすれば得られるものなんて、本当はそんなに大事じゃないと思う」
「……チカは強いから、そう思えるんだ」
「強くなんかないよ。適当に割り切ってるだけ。いつか痛い目を見ると思う」
「それでも、俺にはそう見える」
「……イナ」
チカは小さな声で、話題の転換を宣言した。
「私じゃ力不足かな」
何を基準として何と答えてよいか分からず、伊奈は沈黙する。
「私じゃ、イナの悲しさ、恥ずかしさを受け止めてあげられない?」
「………」
おそらく、そうだ。
散々弱さを見せないように虚勢を張ってきたが、彼女にはすべてお見通しだっただろう。
そうとわかっても。否、そうだからこそか。
伊奈は、彼女が裏切るのではないかと心配していた。
「……弱いところを見せたら、他の人にもバラされるかもって?」
答えるのもはばかられ、伊奈はそっぽを向いた。
しかしそれは、図星であると自ら言っているようなものだ。
チカは、苦笑した。
「こまったなあ、信用を得るのって難しいし、イナってばなんでも疑っちゃうし……」
じゃあ、とチカは前もって用意していたであろう案を、さも今思いついたかのように言う。
「信じてもらえるまで、傍にいればいい? それでも迷惑なら、都合のいい時だけ頼ってくれてもいいよ」
ふと、自身の胸に当てたチカの手に目を奪われる。
それはつまり、場合によっては彼女を貪ることも――いや、ただの勘違いでは終わりそうにない。
彼女は多少突飛な要求でも、伊奈からのものであればなんでも受け入れかねない。
それがわかってしまっているからこそ、伊奈は諦めてその好意をうまく受け止められないでいた。
「……なんで、俺にそこまでしようと思える?」
そこに続く言葉を言おうとするが、直接的すぎて躊躇う。
だが向こう見ずの癖が悪く出てしまい、すぐ口にしてしまう。
「おかしいよ、お前。こんな奴の為に。正気じゃない。俺の何を見てきたんだ?」
「イナだっておかしいよ?」
予想外の言葉に、自虐を重ねようとした思考が硬直する。
「必死な人って、人によってはおかしく見えると思う。正しいと思ったことをやったからって、皆が皆正しいと思うわけじゃないよ」
「……俺のことはどうでもいいだろ」
「何か勘違いしてるみたいだったから」
自身の正当性を主張したい、というわけではないようだ。
要するに、人によって見方が違うというだけの単純なものであり、チカの想いが伊奈にとっては受け入れがたいものであることを確認しているらしい。
「嫌なんじゃなくて、理解が足りてない――私はそう思うな」
「じゃあ、それでもいいんじゃないか。どうしても理解しなきゃいけないものなのか」
「……私のことは、理解できなくても。いつか本当にイナを想う人と会った時、イナはその人を傷つけてしまう。味方まで敵に見えてしまうから」
理解が、及ばない。
自分の理解が足りていないということも、彼女が言っていることも。
窓から吹いてくるそよ風の温度も、正しく感じることができないでいた。
「私はイナがずっと一人でいいだなんて思わない。私が嫌いなら、それでもいい。私を嫌いになって、誰かを好きになれるなら、その方がいい」
「………」
自分が一番好きな人に嫌われてまで、誰かを好きになる後押しをしたい――伊奈の記憶にある限り、そんな人間には架空でも見たことがない。
チカは自分はそうではないと言うように、伊奈の方に向き直る。
「でも、私はイナに好きになってほしい。イナが好きになる誰かが、私だったら一番嬉しい」
チカの瞳が、情愛に満ちていることを察したイナはしかし、何をされるのか分からず硬直する。
あるいは、ある程度分かっていたのかもしれない。そのうえで、期待をしていたのかもしれない。
それに応えるように、チカは徐に体と顔を寄せて。
二人の唇を、重ねた。
「……ッ!?」
この行為がキスや接吻と呼ばれるものだということは認識できていた。
しかし同時に、未知の感覚に脳を支配され、先ほどまで何を考えていたのかすら思い出せなくなっていた。
時間が過ぎているのかも分からない。
柔らかさとわずかな濡れた感触、重なった部分から走る快楽に酷似した刺激。
完全に、放心していた。
「……イナを殺すなんてこと、私はもうしない」
満足感の影に怯えを見せた彼女は、その青い双眸を伊奈のそれと合わせる。
「私はイナを変えてみせる。イナが私にそうしてくれたように」
伊奈の口からは、震えた吐息が漏れるばかり。
「今度は間違えない」
ただ、彼女の力強い言葉が耳朶を打つ。
「イナには、自分でだけじゃ決められない価値があるってことを、教えてみせる。そのためには、イナが踏み出さないといけない」
彼女の瞳は真剣だ。否、ずっと真剣だった。
余計な雑念が払われて、彼女に目を奪われたことで、ようやくそれに気付けた。
だが、それと踏み出せるかどうかはまた別の話であり。
自信のない伊奈は、目を背ける。
「踏み出せないなら、私が一緒に歩く。恥も怒りも悲しみも恐怖も、私が一緒に背負う」
「……どうして……俺なんかの、ために」
ようやく絞り出した声は、まだ自虐を続けていた。
否、本心からの言葉ばかりではない。
彼はずっと、保証が欲しかった。
本来ならば存在することがあり得ないと思っていた、絶対の信頼を。
「『なんか』なんかじゃない。私はこの先どれだけイナが自分を否定しても、その否定を否定する。それが本当のイナを肯定することになるって、私は思ってる」
彼は人を試すことでしか、人を信じられなかった。
その点において、伊奈に対して一切のブレを見せないチカという存在は。
「イナの奥にそれが隠れてるってわかってるから、私はイナが好きなの」
光という他、なかった。
「いくら人を嫌いになったって、どうしても手放せないものがあって。それが自分の手で守れるなら、どんなに傷ついたって踏み出せる」
「見て見ぬふりをしたら……寝覚めが、悪いだけで」
「それが優しい言葉だって、きっと気づけるよ」
チカは伊奈の方へと伸ばした手を、背中に回してそっと抱き寄せる。
やわらかな感触は布団に包まれている時と似ていたが、彼女と共有される体温は、抱擁でしか得られないものだろう。
心を凍り付かせていたものが、かすかながら溶け始めていくような感触がする。
「厳しい人は、甘えるなって言うんだと思う。だけど今までイナは誰に甘えられたの?助けてって、誰に言えたの?」
伊奈は、両親とチカにはずっと無意識的に依存してきた。
しかしそれ以上を求めたことはなかった。
ただそこにいればいいというだけで。
仮に、いつ捨てられても文句を言うことはなかっただろう。
自分はそうされて当然の人間だと、思っていたからだ。
「……俺に、そんな価値なんか……」
「わざと突き放すようなことを言うのは、優しい言葉をかけられたかったのもあるかもしれないけど。それ以上に、それを嘘だと見抜いて、本音を引っ張り出してほしかったんだよ。イナはずっと助けを求めてた。私には、そう聞こえてた」
「俺は……」
「弱くていいんだよ。私たちはまだ子供だよ? 大人が子供に強さを求めるなんて間違ってる、子供は大人を見て強くなるのに」
幾度とない心へのノックに伊奈の腕がぎこちなく動き、チカを抱き返そうとする。
しかし未だに奥で何かが制止してくる。
これまで積み重ねてきた疑念が意志を持って、邪魔をしているような。
「……まだ、わからない……」
吐息混じりにつぶやいた言葉に、チカは続けてというように彼の背中をさすった。
「なんで俺なのか、納得できてない。好きになるとか、人に尽くすとか、全然わからない。チカの言うことも……正直、全部はわかってない」
「うん」
「……それでも」
少しだけ、伊奈は声を張った。
彼女に確かに届けるためだけでなく、自分に対して、呪文を唱えるように。
心の中でかすかに、可能性を信じ続けた架空の少年を思い浮かべながら。
「わからないからって、そこで止まったら……俺は、そのままだ。まだ、怖い。本当は違うのかもしれない。傷つけて、傷つけられるかもしれない」
伊奈を抱きながら、チカは静かに頷く。
「だけど。チカは俺を知って、変わろうとしてくれたのに。お前だけ変わって、俺は変わらなくていいっていうのは……なんか、違う気がした」
「うん」
「……どうしたらいいのか、まだわからない。けど、少しでも、何か変われたらって」
「ゆっくりでいいよ、焦らないで」
チカの抱擁に少し力が入る。
しかしそれは、息苦しく思うようなものではなく、彼女が安堵していることを示すような強さだった。
伊奈はそのまま、夏の暑さも忘れてチカと夜を過ごしていた。
すぐ近くで何が話されているのかなど、知る由もないまま。




