第23話「明かされゆくもの」:A2
常夜灯に淡く照らされた部屋。
イナは重い瞼を開き、焦点の合った視界で状況を確認していく。
「ぁ……」
口元からかすれた声が漏れる。
何かを言おうとしたのか、しかしその何かは思い出すことができない。
――ただ、無性に手を伸ばしたくなった。
何かに届かせようとしたのか。何かを止めようとしたのか。
彼には、わからないが。
「……起きた?」
気遣うような小さな声音の主は、寝ぼけ眼を動かせばすぐに分かった。
私服姿の悠里千佳がいた。
少しずつ眠気の靄が晴れていく中で、イナはようやくここが自室のベッドの上だということを認識した。
そして、なぜここにいるのかを自身に問いかけると。ゆっくりと、その時の出来事が思い出された。
彼女は強張るイナの表情を見て、少しだけ目を伏せた。
「心配事はあると思う。けど、もう絶対に間違えないから」
その青い瞳には、強い決意があらわれているように思える。
しかし同時に、別種の狂気に呑まれたのではないかとも思ってしまう。
おそらく、そのように考えていることも彼女にはお見通しなのだろう。
彼女は少し考えるようにして、白い肌の手をイナのそれに重ねた。
知らず知らずに発熱していたのか、彼の肌には彼女の体温はわずかに低く感じられた。
(……どうして、イナばかりこんな思いをしないといけないの?)
ふと、チカの響かない声が脳裏によぎった。
例のテレパシーだ。
しかしこれは、彼女の想いが漏れてきたような――近い感覚で言えば、エイグの通信に乗って搭乗者の感情が副次的に伝わってくるような。
本人の意図によるものでない、という感じがした。
彼女の顔も、どこか悲しげだった。悼むようでもある。
「……少しおばさま達と話をしてくるから、また辛くなったら言って」
いつでも駆けつける――とでも続きそうだったが、そう言わなかったのはイナの心情を考慮した上でのことだろう。
自分のせいで苦労をかけてしまう、と考えることで、また堂々巡りになることを彼女は知っているのだろう。
イナは離れていくチカの体温を惜しむでもなく、静かに部屋を出ていくチカの背をただ目で追っていた。
外の廊下は照明でしっかりと照らされており、自室だけが外界から隔離されているような錯覚に陥る。
ドアが閉まる最後の瞬間まで、彼女はイナを安心させるように微笑みを浮かべていた。
(……違うよ。誰だって苦しんでる。俺が不器用なんだ)
否。事の大小はあるだろうが、そこにある感情は当人だけのものだ。
だが、限度はある。
(あいつ、こんな時間までいたのか?)
ふと部屋の時計を見て、現実に立ち直る。
照明と閉じたカーテンでわからなかったが、既に0時を回って深夜を迎えていた。
とっくにイナの両親も帰宅している時間だろうが、彼女は無理を言って居座ったのだろうか。
(……ずっといたのか、この部屋)
自分では分からないが、吐き出した欲の掃き溜めが放置されたままの部屋は、きっと快い匂いを漂わせていないだろう。
だが彼女なら、気にしないどころか喜んでこの空気を吸いそうなイメージがついてしまっている。
(熱とだるさが少し……動けなくはない)
手元に何もないわずらわしさから、ゆっくりと体を起こして自己診断をする。
頭が重いのは、寝起きのせいでもあるだろう。
緩やかな足取りで椅子に座ると、PCを立ち上げて仮想画面を表示させる。
もはやネット依存と言っても差し支えないが、彼の気を紛らわせるものはそこに存在するものが大半を占めている。
何を見ようか――普段は考えることのない自問を投げかけるも、答えは出ない。
ひとまずかつての自分を真似るように、ブックマークに登録しているサイトを表示する。
動画サイトで配信しているアニメのチェック。丁度今日は、視聴を続けている作品の最新話が放送される日だった。
何かに取りつかれたように見ていた、ロボットアニメ。
イナは見る気は起きなかったが、『自分』を取り戻すためだと何かに言い訳をして、視聴を始める。
物語は序章が終わる頃。
周囲の物質から巨大な像を作り出し使役できる人間を集め、未知の怪物と戦う軍の特殊部隊に、主人公がようやく馴染み始めていた。
才能ばかりが溢れ経験の乏しい主人公を疎むライバルキャラや、彼に助けられたことで気にかけているヒロインの少女、意味深な発言を繰り返す黒幕らしき人物など、登場人物が増えたことで、冒頭の多くの犠牲者を補い物語に彩りが出始めている。
今回は環境の変わった無知な主人公に、部隊のことや世界の状況を紹介するいわゆる説明回だった。
前回からこの1週間で実質的に数か月の間が空いていたイナにはちょうどよかったが、いまいち頭に入ってこなかったのは、脚本担当ばかりのせいではないだろう。
純粋な興味が、湧かないのだ。
どうしても自分を重ねてしまう。
あちらの世界での自分と比べたり、思い返したり。
はっきり言って、その手の話はイナにつらい思いをさせるばかりだったのだ。
加えて架空の物語にもかかわらず、現実の出来事であるように見えて仕方がなく。
要するに、妙な感情移入も相まって感情がないまぜにされていた。
なぜ「人型の巨大ロボット」という概念を好いていたのか、今まで「男のロマンだから」と適当に分かったようなことを言っていたが。
少なくとも現実のものとして経験した彼にとって、それはもはや娯楽として楽しめるものではなくなっていた。
(……小説、なら)
そう思っている時点で、さして期待はしていなかった。
しかしあるいは、あるいはと微かな希望にすがるように、小説投稿サイトへと赴く。
もはや、何でもいい――そう思いながら、お気に入り作品の一覧やランキングを目を皿にして眺める。
だが、やはりそのタイトルをクリックしようという気にはならない。
(何も……楽しめなく、なった?)
椅子の背もたれに身を預け、ため息を吐きながらデスク傍に飾っているポスターを見る。
生まれる前から展開されていたお気に入りのシリーズで、この周年記念のポスターを運よく入手できたことをあんなに喜んでいたのに。
(もう、同じ目で見られない)
架空と現実を区別できない者、としばしば語り草にされることがあるが。
ことイナに関しては、寛容であるべきだろう。
異世界への転移や戦闘を経験した彼にとっては、たとえ架空でも「どこかで起きた現実」になってしまうのだ。
それでも何か、そう、新しい嗜好に目覚める時なのかもしれない。
あきらめの悪い内なる声に渋々動き、マウスホイールを回そうとしたところ。
目に映ったとあるタイトルに、釘づけにされてしまった。
「シャウ……ティア……?」
『絶響機動シャウティア-Shout to Heaven-』。
何度見直しても、そう書いてある。
あらすじも短文のみで内容までは予想できない。
恐る恐る、黒い虫が身をひそめる家具をどけるように。
彼は、そのタイトルをクリックした。
主人公の名前は、シオン・スレイド。
彼が戦火に家族を奪われ、差別や孤独の中で生きていたところ、反連合組織PLACEと国際連盟による連合軍の戦闘に巻き込まれる。
そこで死を拒絶したシオンの下に、赤いエイグ――『シャウティア』が現れる。
(同じじゃ、ないか)
出てくる単語の数々も。
話の展開も。
細部に違いはあれど、大筋はほぼ同じだった。
不思議と目が眩んだり、吐き気を催すようなことはなかった。
それよりも、この物語の結末を知らなくてはならない――そんな強迫観念にも似た感情が彼を支配していた。
シャウティアを手に入れたシオンは、レイアによって連れられPLACEに参加する。
その後『制圧作戦』に参加し連合軍に勝利。
事後処理に追われる中、シャウティアによって火星に謎が隠されていることが予測され、PLACEは調査隊を結成し火星へと向かう。
しかしそこに現れた謎の存在『ia』によって奇襲を受け、調査隊は急ぎ離脱する。そのさなかに加え、帰還後もiaがもたらした隕石を模した原子爆弾により、多数の犠牲を払うこととなる。
仲間の死に怒ったシオンは単身iaのもとへ飛び、彼女との決着をつけたのち地球へと帰還する――。
大筋は、そのような物語だった。
作者にはほかに目立った作品もなく、この作品にも執筆に不慣れで稚拙な印象も見受けられたが、そんなものがどうでもよくなるほど、イナは魅入られていた。
多少の差異に目を瞑れば、未来を知り、また未知が解明されたに等しい。
どこまで信用できるのかはさておき、確かなことは一つある。
iaという存在は、消えていない。
あるいは、それを管理する存在がいるのだろう。
でなければ、シャウティアはイナの下に現れてはいないはずだ。
おそらくはそれが、イナの転移にもかかわっている。
(けど、なんでこんなことになってる……?)
シオンの役をイナに置き換えただけのようなものだ。
同じ道を進ませることに何の意味があるのか。
否、そうとは考えにくい。ならば――シオンとは別の結果が訪れるのではないか。
(それとも、望んだ結果にならなかったからここに戻された……?)
答えが得られない以上、その問いは無意味だ。
それは、神に等しい者が次に何をもたらすかによってしか判明しない。
(終わったかどうかも、わからないのかよ)
もしかすると、また転移させられるのかもしれない。
もしかすると、もう転移は起こらないのかもしれない。
もしかすると、この世界で戦いが起きるのかもしれない。
もしかすると、既に役目は終わったのかもしれない。
すべてが推測の域を出ない以上、イナには何もできない。
(そもそも、この小説が何でこんなところにある? 何のために投稿した?)
疑問が尽きないのも無理はない。
それだけの衝撃を、イナはこの数時間で味わってしまった。
(……火星に行けば、何か分かるのか?)
この2042年の世界における火星は、未だ調査中の惑星である。
何度か長期滞在の実験なども行われ、入植も視野に入りつつあると噂では聴いていたが。
そんな場所に、今更何かが見つかるのだろうか?
疲れ始めた目を瞬きさせながら、イナは窓のカーテンをずらして夜空を見上げた。
厚い雲が漂っていて、月すらも見えない。
火星などまた夢のまた夢――と嘲られているような。
――そもそも、現実的じゃない。シャウティアがいない今、AGアーマーで火星まで飛ぶのか? 距離を、所要時間を知っているのか?
内なる声に諭されたように、イナは検索する。
地球と火星の距離はおよそ7,800万km。シャトルでも数か月かかることを加味すると、移動には1年はかかると見てもいいかもしれない。
さらに公転周期なども考慮に入れると、さらに時間がかかる恐れがある。
アニメ等の描写で省かれているため意識したことはなかったが、自分が行うとなると途端に現実味が増す。
(なんて夢のない……)
絶響現象を用いたとしても、あくまでイナの移動距離と移動時間は変わらない。
単体で、最速で火星に着いた、という記録が残るだけだ。
だが、ただ一つ確かな道筋に見えたのだ。何の根拠もないが。
妙な執着心が芽生えたところで、不意に軽い頭痛に見舞われる。
(……わがまま言えるほど、元気じゃないか)
むしろ、闇雲に動く方が不都合かもしれない。『見ている者』がいるとすればだが。
用があるのならば向こうから何かを起こすだろう。
それがあるまでは、またこの日常に溶け込む努力をしなくてはならない。
(できるのか、俺に)
今日ですらこれだ。
いずれ慣れるとしても、自分の中にある『ズレ』はそう簡単には治らないだろう。
(外に出るのも……無理か)
気分転換にと思ったものの。
だが、見るくらいはできるだろうと、窓際に寄りかかって網戸を開く。
過度な湿気が煩わしかったが、風は不思議と心地よい温度だ。
体温が高いせいだろうか。
(また、願えば飛ばしてくれるのか?)
『昨日』の、夜のように。
正直なところ、あの日よりも異世界に行きたい気持ちに溢れている。
だがやはり、雑念が混じっているせいだろうか。
そう都合よくはいかないようだ。
イナは自分の左腕を見やり、徐に念じてみる。
うっすらとAGアーマーの輪郭が現れるものの、実体化には至らない。
自分にその力が未だ残っていることを確かめたのだが、虚しさが湧き上がってくるだけだった。
なんでもできる――いつだったか、チカを模したシャウティアのAIはそう言った。
(それは、おまえだけだよ)
あくまで、シャウティアの力なのであって。
その力を借りているだけのイナには、何もない。
無力感とはこういうものかと、強張った手を見て痛感する。
(俺は……瑞月伊奈なんだ)
一般的な少年に過ぎないのであって。
この力も、貸し与えられたにすぎない半端なものであって。
体が弱れば、すぐに調子を崩す。
痛みは誤魔化せないし、気合だけで乗り切ることもできない。
恐怖を打ち破る勇気に満ちているわけでもなく、正義を貫く信念を持っているわけもない。
神や悪魔になれようはずもない。
(もう、寝るか)
気が滅入り、窓から離れようとしたとき。
ふいに伊奈を呼び止めるように、大きく風が吹き込んできた。
それはまるで、あの日の転移の合図のような。
しかし、現在地は伊奈の部屋から少しも変わってはいない。
(……もう、嫌だ)
考えすぎてしまう自分が。
シャウティアに頼れば、強制的に思考を止めさせたり、意識を落とすこともできるだろう。
だが、いくら呼びかけたところで返答がない。
否、今はその方がいいのかもしれない。
チカと再会できた以上、代わりを押し付けていたシャウティアが現れるとまたややこしくなる。
それを憂慮して姿を見せていないのだとすれば、むしろ優しさなのだろう。
(それに、今の俺には要らない)
シャウティアを駆って何ができるというのか。
エイグが常識ではないこの世界にとって、やはり異物でしかない。
(睡眠薬って……作れるのかな)
今ここにない機械に頼れないのなら、現実的な科学に。
そう思って掌に意識を集中させるが、意識が定まっていないせいか、知識がないせいか――そこに、望んだものは現れない。
――空腹と不十分な睡眠は精神にも不調を――。
ふいに呼び起されたのは、向こうの世界にいるディータ・ファルゾンの言葉。
本当に今つらいのなら、満たすべきものは他にあるはずだ。
(……あの時、食べたのは)
記憶を掘り起こし、それを頼りに形作っていく。
ソースで味付けされたカツサンド。
大雑把なせいか記憶通りにはならなかったが、伊奈はそれを口に運ぶ。
温度はほとんど失われていたが、口の中に広がる味や食感は、彼にあの時の暖かさを確実に思い出させるものだった。
何も知らなかった、思い通りには進められなかった。
そんな未熟なイナに、彼女は支えになってくれていた。
(……うまい)
もう、二度とあの世界には戻れず、誰とも再会できないかもしれない。
しかし自分の記憶にあるこの味だけは決して忘れない、忘れたくないと、伊奈は心に誓った。




