第2話「居場所、無き者」:A4
正午を少し過ぎたあたり。
集落から少し離れたところにシャウティアをしゃがませたイナは、その陰で支給されたサンドイッチを咀嚼していた。
読めないアルファベットの羅列と日本語の混ざった文字の書かれたラベルのボトルもあったが、どうにも疑いが拭えず受け取っていない。
全く喉が渇いていないわけではないが、森を吹き抜ける涼風を浴びているだけで気にならなくなる。
葉が風でこすれ合う音が心地よく、できることならば寝てしまいたい。
サンドイッチをすべて胃に収めたところで、そんな気怠い思考が生まれ始めていた。
その時だ、聞き覚えのある声が届いたのは。
「よう、ボウズ。思ってたよりけろっとしてるじゃねえか」
無論、声の主はゼライド・ゼファンである。
着崩した制服と金色の短髪が風に揺らめいている。
「あ……ゼライド、さん」
「ホントに、変に真面目だなお前」
――あんたが不真面目にも見えるけど。
やや不満げな顔をしつつ、心の中の言葉を口にすることはない。
ゼライドはしかしそれを理解したかのような笑みを浮かべ、イナの隣に腰を下ろした。
「どうだ、なんかやらかしたか?」
「……いえ。かなり楽でした」
「だろ? エイグは親切にできてる。人間もそれに応えりゃあいいだけなのさ」
ゼライドは言いながら、どこに持っていたのか、水の入ったボトルをイナに投げ渡す。
ラベルはついていない。
「ただの水さ。飲んどけ」
「……では、ありがたく」
どこか呆れたように鼻を鳴らすゼライドを尻目に、イナは蓋を開けて喉に流し込む。
労働で火照った体に、水のわずかな冷たさが染み渡る。
「で、ボウズ。この前の話の続きなんだが」
イナはボトルの蓋を閉めて彼の方を向き、耳を傾けていることを無言で示す。
「PLACEの占領している国が、すぐ近くにある」
「……?」
その言葉の意味するところは、イナにはすぐにわからなかった。
「ここがドイツってのは話したな?」
「はい」
「距離的にはそこそこ離れちゃいるが、奴らも耳ざとい。俺たちがここにいると知るや否や、襲い掛かるに違いねえ」
戦闘に巻き込まれる可能性を示唆しているらしい。
しかしながら、彼はそれをイナに教えてどうしようというのか。
「如何せん戦闘員より安全な仕事と言っても、戦闘に巻き込まれねえとは言い切れねえからな。いざってときは、自分の身は自分で守れねえといけねえ」
言って、ゼライドは立ち上がる。
ここまでの話の流れからして、次の言葉はなんとなく想像できる。
「立ちな、少しくらい教えてやらあ」
「……逃げればいいんじゃ?」
ボトルをシャウティアの足元に置き、イナはぼやきながらも立ち上がる。
そこで嘘でも拒絶の言葉を用いないあたり、素直ではない。
「まあ、ご立派な推進器もついてるし、それも一つの手だな」
ゼライドはさして気にする様子もなく、しゃがんでいるシャウティアの背部を見上げる。
「が、それでも追っかけてくる奴もいる。そうでなくても物騒な世界だ、覚えといて損はないだろ?」
「はあ……」
やや不満げな声を出すが、それは多少面倒くさがっているだけで、心の底から無駄なことだとは思っていない。
――まさか、殴り合えとでも?
ふと脳裏に浮かんだイメージ。だが、実際にやったとして、一撃でノックアウトになる未来しか見えない。
ゼライドも軍人なのだ、一般人よりは確実に強いはず。
「まあ、ざっくりと教えるさ。ほれ出てこい」
イナの心配を拭うように言って、ゼライドは何者かを呼ぶ。
すると少し離れた木陰から、ゼライドのと同じ意匠の制服を着た女性が姿を現した。
長い黒髪は一つに束ねられ、ゼライドにはない軍帽を被っている。ギャリソンキャップという奴だろうか。
そして、見るものすべてに興味がないかのような冷たい瞳。
赤黒いフレームの眼鏡の奥にあるその色は――紅色。
イナは最初は驚いてしまったものの、自分もそうだと思い返し、すぐに落ち着く。
出発時にはよく見えなかったが、何か事情を抱えているのか、あるいはただの装飾か。
何もかもがゼライドとは違い、特別な接点があるようには思えないが。
「イアル・リバイツォと申します。階級は中尉、ゼファン大尉の部下に当たります」
「あ、よろしくお願いします……」
ゼライドの隣に歩み寄ってきた女性、イアルは礼儀正しく一礼し、イナもそれに合わせて頭を下げる。
間近に見ればよくわかるが、なかなかに美しい。
月並みな形容だが、精巧な人形のようだ。
イナはと言えば、そんな彼女を直視することができない。
人見知りと言うだけではなく、美しさが眩しいのだ。
「心配しなくても、こいつに色恋は期待できねえぞ」
からかうように言うゼライドは、イナの考えていることを理解してでもいるのか。
それとも、二人は既にそれほどの関係にあるということか?
いずれにせよ、イナもこの一瞬でイアルに対し特別な感情を抱いたわけではない。
わずかな沈黙が、この話題を過去に流していく。
「なんでそんな黙るの? 俺そんな寒いこと言ったか?」
「休憩時間も限られています。私が第三者の視点から見ていますので、お二人で早速始めてください」
「ああ、はいはい……」
イアルの無視も日常茶飯事なのだろう、ゼライドは特に怒る様子もない。
彼は頭を掻きながら、戦闘の構えをとる。
「え、え?」
一方、二人の意図を知らぬイナは困惑するばかりだ。
自衛の手段を教えてもらうのだろうが、その過程を知らされぬままでは、不安がるのも仕方ない。
「とりあえずこっちからは行かねえから、気にせず殴り掛かってこい」
「え、ええ……」
困惑が加速する。
過去に人を殴ったことがない、と言えば嘘になるが、そういう時は決まってほとんど理性を失っている。
それを保ったまま人を傷つけることができないのは、イナ自身あの夜によくわかっているはずだ。
とは言えど、せっかく教えてくれるというのだから、その善意を無下にできないのが瑞月伊奈という人間だ。
イナもぎこちなく拳を構え、ゼライドに向けて駆けだす。
じっと鋭い視線を向けるゼライドの顔面に向けて、右の拳をまっすぐ突き出す――
が、首の僅かな動きで避けられてしまう。
直撃すると思わないまでも、受け止められると思っていたイナの思考は、硬直する。
「どうしたボウズ、もっと来い」
「ッ!」
イナはムキになって右手を引き戻す。
低くなったゼライドの声、しかし楽しそうなその言葉に、何かスイッチを入れられたらしい。
次はどこだと考えるより先に、彼は胴に狙いを定めている。
むろん、そこに向けられた左拳も軽やかに避けられてしまう。
「ああ、はい、ちょっとストップ」
「――と、と……」
すかさず右の拳で追撃を、と力を込めたところで、ゼライドに右手首を掴まれて止められてしまう。
痛みが走る直前にぱっと手を離される。
「まあ慣れてないのは分かっちゃいたが、隙だらけだな。直線的すぎて当たりゃあ御の字だが、踏み込みが甘くて大した威力も出ねえだろ」
ペラペラと語られて、イナの脳は軽くパンクする。
要すると、「ヘタクソ」といったところか。
「加えて私からもよろしいでしょうか」
傍で見ていたイアルも、手を挙げて視線を集める。
「ミヅキさん、拳を握っていただけますか」
「え……と、こう?」
「あー」
言われたとおりにイナが握ってみせると、ゼライドも呆れたような声を上げる。
「親指を握り込んでるのか」
改めて見てみれば、確かにそうだった。
握り方など気にしたことはないイナだが、何か問題があるらしい。
「親指を握ったとしても、拳の威力が上がるわけでもありません。むしろそれで力任せに殴れば、折れる恐れもあります」
「が、パンチを主体とする戦い方じゃなけりゃ、親指を守る為に包むっていうのもアリだ」
「ええと……つまり?」
結局のところ、どうすればいいのかはイナには分からない。
選択を他人にゆだねている、とも言える。
「体術なら親指は外、そうでなきゃ中に入れてても構わねえってこった」
「とは言ってもこれはあくまで自衛に向けた訓練ですので、その程度なら中に入れていても問題はないでしょう」
まずそうならないことを祈りつつ、イナは頷いた。
「まあ、あとは無暗に腕を差し出さないことだ。お前くらいなら一気に持ってかれるからな」
「慣れないうちは防御されようとも、腕に確実に当てることをお勧めします。ひとまず掴まれることは防がれます」
「両手で防がれなくても、足で臨機応変に対応すりゃあいい」
「……ふむ……」
イナは軽く頭の中で試してみるが、所詮は頭の中。
都合よく成功する様子しか思い浮かばず、首をかしげる。
「ま、そこは実践するしかねえわな。時間もねえし、その辺は後回しでもいいだろ」
いいらしい。
「あとは逃げることに集中するための手段だな」
「この場合は、避けることを主眼に置いた方がいいでしょう」
「例えば――だ」
シュッ、と空気の切る音。
何が起きたのかとイナが自問するよりも早く、ゼライドの拳がすぐ傍にあるのが見えた。
「見えなかったろ」
「……そりゃあ」
「不意を打ったから当然だな。まあ、もちろん俺は当てられたわけだが……この状況ではどうしたいいか、分かるか?」
イナの眉間にしわが寄り、緊張と共に脳を回転させる。
何かを思いついては、黒いペンで渦を描くように消されていく。
もしもこれが答えと違ったなら――ゼライドだけでなくイアルもいるせいか、そんなことばかりを考えてしまう。
「まあまあ、正しい答えなんてのはねえさ。まずしっかりと、正面の相手の動きをよく見る。どれが武器かを確認して、何が狙われているのかを考えて、その時自分はどれだけ動けるのかを理解したうえで、一瞬で取れる僅かな動きで攻撃を回避する。その上でカウンターなんかできりゃ言うことなしだが」
(……無理だ)
無理だ。
残念ながらイナの頭は、咄嗟に、冷静に、柔軟に、並列して対処できるほど出来が良いものではない。
直感で動くタイプであるがゆえに、ゼライドの言った方法は使い物になるかどうか。
「むろん、大尉も最初からそれができたわけではありませんし、あなたに最初からそれを求めるわけではありません。ただ頭の片隅に置いていてくだされば」
「ただ、自分がどれだけ動けるかは知っといて損はねえ。普段から体を動かすってのは、そういう意味もある」
「……ふむ」
今までは外に要件がないからと部屋にこもりきりのイナだったが、ゼライドの言葉だからか、妙に納得している。
彼が少しずつでもトレーニングをしようか、などと思うだけでも進歩だ。
「――って、ホントに時間がねえでやんの」
ゼライドがポケットから何か、通信端末のようなものを覗き込んでぼやく。
イナはそういったものを持ち合わせていない為に現在時刻は分からないが、時間になれば呼ぶとは伝えられている。
「仕方がありません、貴方が仕事を溜めるのがいけないのですから」
「好きで溜めてるわけじゃあねえんだがな……」
行きますよ、とゼライドを置いて先に《エキドナ》の方へ踵を返すイアル。
どちらが上官なのかわかったものではない。
「じゃあ、また時間のある時には付き合ってやんよ。こんなんだからいつでもってわけにはいかねえかもしれねえが、時間があるときには積極的に会いに行くさ」
「……ありがとうございます」
気さくな笑みと共に手をひらひらと降り、去っていくゼライドにイナは一礼。
やはり、そこまでイナを気に掛ける理由は分からない。
別の地球から来た、不明な点の多い人間であるからだろうか?
その監視の任務を与えられている――という可能性も、少なからずある。
(……まさか)
「おーい新入り! そろそろ午後の作業を始めるぞ!」
はるか遠くの山まで響きそうな男の声。耳をふさいでいても聞こえるだろう。
二人を見送った彼はシャウティアの方に踵を返し、膝を立てることで返事の代わりとした。




